人が人を信頼し、健康に、本来の姿として成長していくために必要な3つの条件の3つ目。というか、順番をつけるなら、はじめの一番かもしれません。
それは「純粋性」と呼ばれますが、要するに「私」であるということです。
何かの「役割」を演じているだけの人を、人は決して信頼しません。「役割」は「カウンセラー」だけではありません。「父」「母」「子」あるいは「長女」「長男」「後継」「男」「女」「社長」「店長」「総理大臣」「作家」「魚屋」「八百屋」「フリーター」「引きこもり」「うつ」さらには「明るい」「暗い」「元気」「固い」「若い」「年寄り」「おばさん」「おじさん」などなど、もう無数にハマる可能性のある役割や仕事名、状態はあります。
言葉で生きる人間の性(さが)なのでしょうが、その人が表現していたり言われたりしている言葉と、その人の今の本来の「私」は必ずしもぴったり一致しているとは限りません。むしろ、ズレている方が多いです。言葉と私がズレているからこそ、人はもやもやし、悶々とし、悩み、誰かに相談したくなります。あるいは誰かに突っ込まれたり、糾弾されたりもします。「死にたい」と言ってみたりもします。そのとき、その相談相手も、「私」とかけ離れたところにいたらどうなるでしょう? 混乱と消耗と不幸の増大しか見えてきません。
で、その信頼できる「私」とはなんでしょう?
純粋に私であるとは、どんな状態のことでしょう?
私は、走り始めて、やっと私でいることに落ち着いたと感じています。
私は、私です。
私は私です。ではありません。
私は……。でもなく。
私は、私。「私は」のあとに、「、」が入ります。意訳すれば、「私ではなく」になります。
私は、私ではなく、私です。
私は、私ではないところに行き、私に帰ってきます。
私ではないところから、たまたま私になり、再び私ではないところに帰っていく。とも言えます。
「私」はなんとなくわかるけど、「私ではないところ」って何? と思うかもしれません。
睡眠を思い返せばわかるかもしれません。
私は私はああ私はどうしたらいいの? こんな不安や心配を抱えたままでは眠れません。「私は私」状態。私を、私ではないところ(この場合は睡眠)に任せることができない。頭の発する言葉(私)が、体の欲する睡眠(私ではない)を拒んでいる。受け入れる隙がない。
赤ちゃんは、眠りに落ちる前に泣きます。赤ちゃんに聞いても、まだ言葉を使いこなせないので「そうだよ」とは言ってくれませんが。側から見てると、眠いなら眠ればいいじゃん、と思う。でも、猫とは違って、人はそうじゃない。眠ってもいい保証が欲しいのでしょうか。それこそ「無条件の肯定的配慮」と「共感的理解」と「純粋性」と。せっかく生まれてきたのに、この私からいなくなる(眠る)なんてやだ! だって、また私に戻ってくる保証はどこにあるの? そんな「私は……」と消えてしまうことへの恐怖と疑いが、赤ちゃんの訴えにはあるのかもしれません。「いないいないばあ」をするとキャッキャと喜ぶ。あれもまた「ある」が「ない」になり、不安になり、でもやっぱり「あった」、本当にあった、ともうすでに実存的欲求を満たす遊びだからなのかもしれません。
で、「私」ってなんだかわかってきたでしょうか?
「私」は、「私ではないところ」と「私」を往復する運動であるということ。
走るようになって安定してきたというのは、走ることは「私ではない」状態、言ってみれば「風」や「空」や「自然」になってしまうことだから。「頭を空っぽにする」ということです。有酸素運動を繰り返していれば、小難しいことなど吹っ飛び、ただ今走っていることだけに集中します。そしてその状態が気持ちいい。
「私ではない」状態への慣れと親しみが深まれば、自ずと睡眠の質も上がってきます。ぐっすり眠れます。「私ではない」質が高まれば、自ずと「私」の質も上がります。シーソーみたいなものでしょうか。
「私ではない」状態に親しむために、私にはランニングが適切だったということ。方法は、人によっては様々でしょう。様々であってしかるべきです。ただそこにアルコールや薬物やタバコや賭け事や色事やゲームなど、過度に入り込むことは問題です。「私ではない」を突き詰めれば死に至ります。生きているということは「私」に戻ってくることができるということです。
走る前からやっていたこと、読書、もまた、私から離れ、私に戻ってくる運動を楽しむことです。
私から離れて得た成果を、読書感想という形で書き、保存してもきました。
そこで書いた文章は、新しい私の一歩を支える言葉となり、道となります。
私が運動であるならば、そこには足跡のような道ができます。
この道は、「文学」というようなとてつもなく大きな「私ではないもの」への道もあります。
「私ではないもの」は、「文学」だけじゃなく、「ランニング」も「学問」も「芸術」も「政治」も「経済」も入るでしょう。
「私物化」が問題となるとき、「私ではないもの」への接近が不足しています。「私ではないもの」は、翻って「みんなのもの」になります。「公」とも言えます。
みなに共通するものがあるから使えるし、納得もできる。お金(みんなのもの)を払って私のものにするという運動も起きます。
「私ではないもの」を確かにつかみ、それでいてその手は「私」のものでしかない。
「私」は、「私ではないもの」と「私」の間を何度も繰り返し行ったり来たりしてできた道の複合体、と言えるのかもしれません。
大きな道もあれば遥かな道もある。小道もあれば凸凹道もある。山道も獣道も坂道もある。
そんなたくさんの、確かに自分の足で歩いた道の数々は、複雑に絡み合って、立体になっている。立体の形は人それぞれで、常に変化している。立体を通る道のどこにいても私。私は、面であることもあるし、線であることもある。見栄えはいいけど中は空っぽという立体もある。柔軟で、変幻自在で、立体の中で他の人物を作ることもできる。得意も不得意も、人それぞれ。その姿は、決して目には見えないけれど、人は感じ取ることができる。
開拓してきた道のどこかにいること。私を作る道の上で反応することが純粋であること。そうでないと、何かイヤーな感じがしたり、避けたくなったり、追及したくなったりするものです。
そして、そんな「私」を作っていく道を歩いて、ときに走って、行くことができるのは、あなただけしかいません。
あなたが、あなたの人生の主人公です。
道は、行き来するだけでなく、修復したり、拡張したり、通行止めにしたり、新規開通したり、橋をかけたり、と必要に応じて変化します。
空を見上げて深呼吸する。
海を眺めて、波の音に耳を澄ませる。
花の美しさに打たれて思わずシャッターを切る。
土いじりをして新しい種を植える。
温泉に浸って、溜まっていた息を吐き出す。
クラゲを見つめて、心でクラゲになってみる。
月が地球の影に隠れて、また出てくることを楽しむ。
どれも、「私ではないもの」に触れてホッとする時間のこと。
「効率」や「コスパ」や「タイパ(タイムパフォーマンス)」、あるいは「個性」も優先されがちですが、人は決して「私」だけでは生きていけません。
「私ではないもの」は、もちろん「他者」も入っています。
「私ではない」けれども信頼できる人(私ではない私)との対話は、確かな道となって、私たちを支えます。
それは「純粋性」と呼ばれますが、要するに「私」であるということです。
何かの「役割」を演じているだけの人を、人は決して信頼しません。「役割」は「カウンセラー」だけではありません。「父」「母」「子」あるいは「長女」「長男」「後継」「男」「女」「社長」「店長」「総理大臣」「作家」「魚屋」「八百屋」「フリーター」「引きこもり」「うつ」さらには「明るい」「暗い」「元気」「固い」「若い」「年寄り」「おばさん」「おじさん」などなど、もう無数にハマる可能性のある役割や仕事名、状態はあります。
言葉で生きる人間の性(さが)なのでしょうが、その人が表現していたり言われたりしている言葉と、その人の今の本来の「私」は必ずしもぴったり一致しているとは限りません。むしろ、ズレている方が多いです。言葉と私がズレているからこそ、人はもやもやし、悶々とし、悩み、誰かに相談したくなります。あるいは誰かに突っ込まれたり、糾弾されたりもします。「死にたい」と言ってみたりもします。そのとき、その相談相手も、「私」とかけ離れたところにいたらどうなるでしょう? 混乱と消耗と不幸の増大しか見えてきません。
で、その信頼できる「私」とはなんでしょう?
純粋に私であるとは、どんな状態のことでしょう?
私は、走り始めて、やっと私でいることに落ち着いたと感じています。
私は、私です。
私は私です。ではありません。
私は……。でもなく。
私は、私。「私は」のあとに、「、」が入ります。意訳すれば、「私ではなく」になります。
私は、私ではなく、私です。
私は、私ではないところに行き、私に帰ってきます。
私ではないところから、たまたま私になり、再び私ではないところに帰っていく。とも言えます。
「私」はなんとなくわかるけど、「私ではないところ」って何? と思うかもしれません。
睡眠を思い返せばわかるかもしれません。
私は私はああ私はどうしたらいいの? こんな不安や心配を抱えたままでは眠れません。「私は私」状態。私を、私ではないところ(この場合は睡眠)に任せることができない。頭の発する言葉(私)が、体の欲する睡眠(私ではない)を拒んでいる。受け入れる隙がない。
赤ちゃんは、眠りに落ちる前に泣きます。赤ちゃんに聞いても、まだ言葉を使いこなせないので「そうだよ」とは言ってくれませんが。側から見てると、眠いなら眠ればいいじゃん、と思う。でも、猫とは違って、人はそうじゃない。眠ってもいい保証が欲しいのでしょうか。それこそ「無条件の肯定的配慮」と「共感的理解」と「純粋性」と。せっかく生まれてきたのに、この私からいなくなる(眠る)なんてやだ! だって、また私に戻ってくる保証はどこにあるの? そんな「私は……」と消えてしまうことへの恐怖と疑いが、赤ちゃんの訴えにはあるのかもしれません。「いないいないばあ」をするとキャッキャと喜ぶ。あれもまた「ある」が「ない」になり、不安になり、でもやっぱり「あった」、本当にあった、ともうすでに実存的欲求を満たす遊びだからなのかもしれません。
で、「私」ってなんだかわかってきたでしょうか?
「私」は、「私ではないところ」と「私」を往復する運動であるということ。
走るようになって安定してきたというのは、走ることは「私ではない」状態、言ってみれば「風」や「空」や「自然」になってしまうことだから。「頭を空っぽにする」ということです。有酸素運動を繰り返していれば、小難しいことなど吹っ飛び、ただ今走っていることだけに集中します。そしてその状態が気持ちいい。
「私ではない」状態への慣れと親しみが深まれば、自ずと睡眠の質も上がってきます。ぐっすり眠れます。「私ではない」質が高まれば、自ずと「私」の質も上がります。シーソーみたいなものでしょうか。
「私ではない」状態に親しむために、私にはランニングが適切だったということ。方法は、人によっては様々でしょう。様々であってしかるべきです。ただそこにアルコールや薬物やタバコや賭け事や色事やゲームなど、過度に入り込むことは問題です。「私ではない」を突き詰めれば死に至ります。生きているということは「私」に戻ってくることができるということです。
走る前からやっていたこと、読書、もまた、私から離れ、私に戻ってくる運動を楽しむことです。
私から離れて得た成果を、読書感想という形で書き、保存してもきました。
そこで書いた文章は、新しい私の一歩を支える言葉となり、道となります。
私が運動であるならば、そこには足跡のような道ができます。
この道は、「文学」というようなとてつもなく大きな「私ではないもの」への道もあります。
「私ではないもの」は、「文学」だけじゃなく、「ランニング」も「学問」も「芸術」も「政治」も「経済」も入るでしょう。
「私物化」が問題となるとき、「私ではないもの」への接近が不足しています。「私ではないもの」は、翻って「みんなのもの」になります。「公」とも言えます。
みなに共通するものがあるから使えるし、納得もできる。お金(みんなのもの)を払って私のものにするという運動も起きます。
「私ではないもの」を確かにつかみ、それでいてその手は「私」のものでしかない。
「私」は、「私ではないもの」と「私」の間を何度も繰り返し行ったり来たりしてできた道の複合体、と言えるのかもしれません。
大きな道もあれば遥かな道もある。小道もあれば凸凹道もある。山道も獣道も坂道もある。
そんなたくさんの、確かに自分の足で歩いた道の数々は、複雑に絡み合って、立体になっている。立体の形は人それぞれで、常に変化している。立体を通る道のどこにいても私。私は、面であることもあるし、線であることもある。見栄えはいいけど中は空っぽという立体もある。柔軟で、変幻自在で、立体の中で他の人物を作ることもできる。得意も不得意も、人それぞれ。その姿は、決して目には見えないけれど、人は感じ取ることができる。
開拓してきた道のどこかにいること。私を作る道の上で反応することが純粋であること。そうでないと、何かイヤーな感じがしたり、避けたくなったり、追及したくなったりするものです。
そして、そんな「私」を作っていく道を歩いて、ときに走って、行くことができるのは、あなただけしかいません。
あなたが、あなたの人生の主人公です。
道は、行き来するだけでなく、修復したり、拡張したり、通行止めにしたり、新規開通したり、橋をかけたり、と必要に応じて変化します。
空を見上げて深呼吸する。
海を眺めて、波の音に耳を澄ませる。
花の美しさに打たれて思わずシャッターを切る。
土いじりをして新しい種を植える。
温泉に浸って、溜まっていた息を吐き出す。
クラゲを見つめて、心でクラゲになってみる。
月が地球の影に隠れて、また出てくることを楽しむ。
どれも、「私ではないもの」に触れてホッとする時間のこと。
「効率」や「コスパ」や「タイパ(タイムパフォーマンス)」、あるいは「個性」も優先されがちですが、人は決して「私」だけでは生きていけません。
「私ではないもの」は、もちろん「他者」も入っています。
「私ではない」けれども信頼できる人(私ではない私)との対話は、確かな道となって、私たちを支えます。
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