泉を聴く

徹底的に、個性にこだわります。銘々の個が、普遍に至ることを信じて。

苔むす木

2021-07-08 16:40:59 | フォトエッセイ
 雨の日が続いています。
 伊豆の土石流。人災であればこそ、落とさないでよかった命のことを思うと胸が痛みます。
 無意識に痛めつけてきた自然の逆襲。
 新型コロナウィルスは次々と変異し、その生命力の強さを誇示しているかのようです。
 外出や人流や外食も止められる。東京で4度目の緊急事態宣言。
 もうずっと緊急事態なわけです。
 巣ごもりが続けば、鬱病の危険も上がる。実際、増えていると耳にします。
 鬱から復活した者として、そう聞けばうずうずしてしまう。
 私に何かできることがあるのではないか? と。
 先月は合計100キロ走りました。
 100キロ目指したわけでもなく、ただ日常のリズムで、がんばったわけでもなく、ふつうに。
 走り出す前には考えられなかったこと。自分がランナーになっているなんて。
 でも、その芽は、自分の中に確かにあった。
 目覚めるのがいつになるのか。それだけのこと。
 写真の苔むす木は、近くの神社の脇に立っているけやき。
 先日、歯医者の帰り、ぶらぶら歩いていて苔の美しさにハッとした。
 こいつら、梅雨を楽しんでいるな、という感じ。
 今まで、苔に目を奪われたことはなかった。それほどまでに生き生きとしていた。
 なかなか写真では、苔たちの喜びまでとらえることは難しいのですが。
 生き物にとって、何が得意なのか、何が苦手なのか、ある程度遺伝子で決められているのかもしれません。
 そうであっても、生物には死があり、死があるから新しい命を生み続ける。
 そこに変異が生じる。よりよく環境に適していく可能性を宿して。
 人には学ぶという能力も備わっている。
 私の喜びは、こうして書くこと。改めて実感しました。
 書くことが生きていること。
 ランニングも写真も、野球やプロレスの観戦も、音楽や絵の鑑賞もとても大事でありがたく、欠かせないものです。
 が、最も長く関わってきたもの、それらすべてを統合するものでありかつ基本として文がありました。
 土台となる日記があり、無意識の発露としての詩が生まれ、本とつながった証としての感想文、写真と連動したブログ、そして最終形態としての小説が生じた。
 神社でお参りしてから走り、帰って一休みしてから書くという私のリズム。これを作るのに何年かかったことか。
 苔むす木は、いったい何歳なのか?
 神社に頭を下げているのではない。その大きな自然に頭を下げていた。
 稲穂が成熟するほどにこうべを垂れるように。
 鬱病とは何なのか?
 今こそ真正面から向き合い、書くべきときが来たのかもしれません。

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