泉を聴く

徹底的に、個性にこだわります。銘々の個が、普遍に至ることを信じて。

いつも走っているところ

2021-07-12 17:41:14 | フォトエッセイ
 よく走っている多摩湖に隣接した狭山公園の林。
 ここはあまりにも空気がきれいで、いつも深呼吸しながら走り抜けるところなのですが、今日はふと立ち止まり、振り返って写真を撮った。
 深い緑が作り出すおいしい空気。差し込む木漏れ日。夏を感じさせる日差しを遮る木々の作る木陰のありがたさ。
 写真と文だけでは十分に伝えられない。でも、僕は、よいと感じたものを記録し、届けたい。
 大学を鬱とともに出たようなものです。だから私のこの20年間は、鬱に抗し、いかに自分を生かすことができるか、に注力していた。
 いつの間にか鬱のことなど忘れていたけど、やっぱりあの強烈な体験は身にしみて忘れることはない。
 あれがあればこその今の健康。自分を生かすために学んだことはたくさんある。
 その一つ一つを、小説が主になりますが、あらゆる文章の下味、隠し味、あるいはだしとして使っていく。
「鬱」そのものをテーマした小説もありだと思う。けど、なんかそれはつまらないと思った。
 自分が熟知しているものを書くだけでは創作にならない。
 知っているものを読んでもおもしろくない。知らないからこそ知りたいと欲する。その欲がページをめくらせる。
「いつも走っているところ」も、地理的には同じ場所だけど、温度も湿度も木々の成長の度合いも光の加減も地球の位置も、もちろん自分の状態も違う。
「走る」という同じ行為の中に、違うところを感じ取り、今の自分を確かめている。
 それは書くことも似ている。
 自分を客観視できれば鬱にはならない。自分を放っておくことができれば不眠にはならない。
 鬱は意味の病でもあります。
 人にはそれぞれ大切な意味がある。そう言われれば言われるほど、自分には生きる意味がないと思われてくる。
 だから意味から脱出できる装置や仕組みが癒しにつながります。
 私が無意味と親しくなれたのはランニングのおかげ。走っているときは、真っ白でいられる。ランニングは、肺も頭もきれいにしてくれる。それだけでなくて、細かな体の中の連結を強化してくれる。それまで通っていなかった脳内の神経が一本通り、開拓されていなかった肉体に毛細血管が走る。
 だから走ることも私にとって創作。
 走り続けることで得られる常に新しい私の心身を資本として文章は立ち上がるのだから。
 ああ、鬱々とした気分をぶっ飛ばす小説を書きたい。
 やっぱりそこに辿り着きます。

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