平日は仕事帰りに母を探しにパチンコ店巡り、休日は母をパチンコ店に行かせないためにドライブや近隣の観光地に母を連れていく生活が続きました。
この頃私は自分の仕事でも緊張や不安やストレスを感じる事が多い時期でした。
私は金属製品の材質や寸法を調べる仕事をしていました。入社当時は外注が作った製品を担当していたのですが、この頃は社内で作った試作品の担当になり、技術開発の方が試作品を私の所に持ち込み、私が検査をしていました。
しかし、技術開発の方は大学や高専など、高学歴の男性の方たちばかりで、中には私が検査した結果を「この数値は本当ですか?」と疑ってくる人もいました。
以前のブログにも書いた通り、私は学習能力が“グレー”なので、検査結果を疑われると益々自信をなくします。
疑われないように、間違わないように…何度も何度も調べてしまうので時間がかかります。残業をすると上司に注意されるため、朝早めに出社して仕事をしたり、手順書や過去のデータなどの資料を家に持ち帰り読み込みました。
そして、休日は母と一緒に過ごします。心が休まる時がありませんでした。
夜はなかなか寝付けず、初めて検査する試作品を持ち込まれると動悸や汗が止まらなくなり、こっそりトイレに逃げてトイレの中で泣いてしまう時もありました。
産業医の方に相談をして、私は初めて「心療内科」を受診しました。
処方してもらった薬を家で飲んでいたら、薬袋を見た母が
「あんた、精神科に通ってるの!?」
「やめてよ!近所の人に知られたらどうするの!?恥ずかしい!!」と、言い放ちました。
私はこの言葉に心底傷つきました。
母の言うとおりに“大きな会社”に就職し、男性社会の中で必死に働いて、進学する夢も諦め、母の借金を肩代わりして、休日は母のご機嫌取り。
我慢の限界だった私は「もういい加減にして!!」と、母にブチ切れます。
今まで母に否定されてきたこと、それでも母の言うことを聞いてきたこと、私がこんなに頑張っているのにどうしてパチンコを辞めてくれないの!?
あぁ、今こうしてブログに書いててもわかります。
この言い回し…母と同じです。
夫婦喧嘩をしたあと、昔あったことをほじくり返して「自分はこんなに大変だった」と話す母。
人間関係で失敗をして「私はこんなによくしてあげたのに」と会社の悪口を話す母。
ブチ切れた私は母そっくりでした。一番なりたくなかったのに。母のようになりたくないのに。
母は「親に向かってその口の利き方はなに?私から頼んであんたと一緒にくらしているわけじゃない。」そう吐き捨てると父の住む家に帰りました。
そして、父と言い争いになると私の住むアパートへ、私と言い争いになると父の住む家へ…母はそんな生活を繰り返すようになりました。
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「パチンコ依存症」の母を病院に連れていけなかった理由は、母が“心の病”に対して偏見的な考えを持っていて、断固と聞く耳を持たなかったからです。