美しく作るための花いっぱい作戦ブログ

美しく作るまちを目指し花いっぱい運動の予定や活動報告を掲載します。文化・芸術・音楽・歴史を絡めた活動も報告します。

2012-09-30 19:38:29 | ノスタルジー

FMラジオのことを書いてて思い出したけど、僕は子供の頃から目が悪くなって、特に左目は弱視の気があって、岡山医大や川崎病院で診てもらうことが多くなっていた。

両親は、テレビを見るより音楽でも聴いて、悪い目よりいい耳で楽しむ時間を増やしてやろうと、当時としてはかなり高価なビクターのステレオを買ってくれた。

まっ、僕だけのものじゃないから買ってくれたというわけじゃないけどね。でも、そこから、松山千春、中島みゆき、アリス、NSPなど普段テレビでは見ないニューミュージックとの出会いが始まった。

松山千春の「君のために作った歌」は、小学生のときもいい歌だと感じたけど、中学生になっても、高校生になっても、大学に行っても、就職しても色あせない名曲で、僕もあの歌のように自分の秘めた想いを歌に乗せて、詩に乗せて、誰かに届けたいと憧れていた。だから若い僕はフォークギターを買ったんだね。

そんな繊細な心を歌う松山千春って人はすごく優しい人なんだろうなと思っていたら(最初は親戚の人がとってくれたカセットを聴いていたから顔を知らなかった)、すごくワイルドで鋭い目をした人だった。

次にFMラジオでコンサートの放送があるのを知り、ラジオチューナーからカセットに録音してたら、客をおまえら扱いする態度の悪さ。そしてすごい自信家。

しばらくするとはげてきて、やがてはスキンヘッド。

恐ろしい人だけど、コンサートは笑えて泣ける。だから今日、予約しました。取れるかどうかわからないけど。

松山千春が言ってたんだよね。夢は何かって聞かれるって。北海道の貧乏な家に生まれ、三度の飯にもありつけないような生活をしていたのが、みんなの前で自分の歌を歌って全国をかけめぐっている。これを夢と言わずになんというんだ。俺は生まれた時から夢の中にいるって。

自分自身を振り返ってみると、なんと幸せな愛情に包まれた幼少時代だったか、そして今は3人の子供たちと優しいかどうかは別としてかわいい奥さんもいる。毎日楽しく冗談を言いながら暮らしている。やがて巣立つ彼らにもそのうち子供ができ、僕はおじいちゃんになる。やっぱり僕も夢の中に暮らしている。


四半世紀前の写真から

2012-09-30 17:57:49 | ノスタルジー

四半世紀前の写真に写ってる友達たち。

林野高校の同級生だけど、小学校、中学校も一緒だった仲間たちだ。

実は6人くらいで写ってる写真では、僕を含めた4人はその友達だけど、あとの人はたぶん先輩で全然知らない人だ。

で、3人のうち一人は、今では美作のまちづくりには欠かせない人物、メカドック。いつも助けてもらってるし、今も浜田省吾のDVDとCD5枚セットのThe Last Weekendを借りているもうダビングしたので返しますからねありがとう。

もう一人は、今では社長、この前一緒にゴルフしました。僕がゴルフ好きになったのでまたちょいちょい行きましょう。

もう一人は常務この前はレストランでの接待お世話になりました。

と、みんな今でも僕の脇を支えてくれている仲間たち

ありがとうございます。


日曜日のFMラジオ

2012-09-30 17:46:49 | ノスタルジー

今日、子供を送って津山まで来た。

子供を塾に送り届けてからFMを聴く。車の中ではたいていラジオでFM岡山を聴いている。

すると、岡本真夜のアコースティックコンサートをやっていた。

昔大好きだった「ALONE」って、曲がしっとりと流れてきた。

音楽ってすごいよね。そのころを思い出します。

この歌を聴いて勝手にイメージしていた女の子のことを思い出します

そのあと、ラストの曲はやっぱりあの歌

「涙の数だけ強くなれるよ」と岡本さんが歌えば「アスファルトに咲く花のように」とお客さんが返す。

こっちが涙が出そうになります。

http://www.youtube.com/watch?feature=player_embedded&v=W8n1ckcZ0gA

「君は強いから大丈夫だよ」なんて
そんなこと言われたら 弱さ見せられない

「カードがもうないから」
嘘ついて 電話を切った
降り出した雨に 急ぐ人たち
あふれてしまう涙 傘で隠した

ぎゅっと誰か抱きしめて
あたたかい胸で泣かせて
ほんとは寂しがりやで
一人で泣いてばかりで
あなたの胸で泣きたい
あなたの胸で眠りたい
寄り添えば包んでくれる
でも欲しいのは同情じゃない

一人 ベンチに座り
いくつもの電車 見送る
街の灯が にじんでしまう
あの日に よく似ているわ

反対側のホーム
あなたと彼女 見つけたの
楽しそうに 二人 腕を組んでた
彼女は私の大切な友達

もっと素直になれたら…
もっと勇気を持ってたら…
何も受け止められない
今もあなたがこんなに愛しい

あなたの 愛がほしい


家が二つ

2012-07-19 00:07:45 | ノスタルジー

高校の頃から僕には家が二つあった。

もちろん、家族が二つあったとかいうわけではない。そんな特別な事情はない。

今日、国際交流の初日で、いろいろと打ち合わせをしていて思いだした。

僕が高校生になると同時に僕は湯郷の家から畑沖の家に引っ越した。

親が畑沖に土地を買って家を建てたからだ。

普通ならそのあとは畑沖の家から学校に通って、また畑沖の家に帰ればいいのだけど、我が家はそうはいかない。

朝は畑沖で起き、畑沖から出発する。帰りは湯郷に寄って晩御飯を食べてからまた畑沖に帰る。帰る時間も8時とか9時とか意外と遅い。

弟は最初の年はまだ小6だったから朝自転車で畑沖を出発し、湯郷からは湯郷の子供たちと一緒に歩いて通学、帰りはご飯を食べてからまた自転車で帰る。

そう、家は湯郷で商売してたからお店でみんなで晩御飯を食べていたんです。

あと、おじいちゃんとおばあちゃんが、湯郷の家から新築の家に移りたがらなかったので、二人と一緒に居る時間も大切で。

3世代大家族でずっと一緒だったから一日一回は会ってないとなんか心配だったなあ。

お姉ちゃんは、その時にはもう大学生だったから家にいなかったしね。

そういう意味で言えば、弟ほど我が家を知っている奴はいないかもしれない。

おばあちゃんが亡くなったときにもまだ家にいたしね。

 

ま、というわけであっちやこっちに移動することはそんなに大変じゃない。

僕と弟が湯郷と畑沖をうろうろしてた頃はあのゆうらぎ橋が本通りだったから大型トラックに何度も自転車のハンドルこすられそうになったよ。あの橋は自転車にとってけっこう恐怖だった。

明日から国際交流のボランティアが自転車でまた湯郷、畑沖間をうろうろします。僕も家族もうろうろします。

寝る場所はバラバラでも一緒にご飯を食べるだけで心は近づけるよ(*^。^*)