しっぽなのうつうつ

<宇宙(そら)>に魅せられて・・・
お写真、勉強中♪

心の糧

2013-07-26 00:19:33 | つぶやき


心が苦しくて、心が泣きそうな時、私はカメラを手にします。写真を撮って、心を慰めるのではありません。カメラを手にするだけで、心が癒されるのです。コンデジ不二子も、一眼風子も、かけがいのない私の相棒です。だから、何かを撮るためではなくても、ただ触れているだけで、震えていた心が段々と落ち着いて、穏やかな気持ちになれるのです。
けれど、彼女たちは、「カメラ」です。自分達の役割を知っています。私が触れれば、その先に求めるものは何なのか、敏感に察知するのです。

不二子を撫でてから車を運転していると、曇っていた空が次第に明るくなって来ました。朝の日射しの眩しい空に、雲が模様を描いていました。忠別川の取水堰に立ちより、水辺から空を狙った不二子のレンズは、故郷の空の風景を捉えてくれました。

取水堰でせき止められた水に、雲が写っていました。




別な方向を見ると、もくもくとした雲が浮かんでいます。ジブリ作品の「天空の城 ラピュタ」に出て来る雲に似てるな・・・、なんて思ったりして・・・。




朝、青空が見えていたのに、午後には雲が厚くなり、星の風景は諦めた。けれど、何故か思い立ち、夕闇の公園に足を運んだ。常盤公園の池の周りに電灯が並び、夜の風景を演出しています。



曇り空の夜。星は見えなくても、夜景を狙えば一眼風子の実力を発揮できる!お天気に文句ばかり言わずに、その時、撮れるものを撮ればいい。何も撮れなければ、レンズを休ませればいいのです。

何となく、気付いたことがあります。私は、「写真を撮ること」に癒されているのではない。

写真を撮ろうとする自分の中の「衝動」に救われているのだ!そして、その「衝動」を生み出すのは、彼女たち・・・、不二子と風子。写真を撮る気が起きなくても、彼女たちに触れていると、何故か、風景が私の心の戸を叩く。気付いたら、いつの間にか、取りたい風景の前に立っていた!

良い写真が撮れない。写真を撮る気が失せて来た!

そんな時は、その気持ちのままに、無理をせず、写真は撮らない事にしました。いつだって、放っておけば、いつのまにか、風景にレンズを向けています。

自然体。それで写真が撮れないなら、それは、それで、仕方ない。

写真は誰のために撮っているわけでもない。全て、自分のため。でも、少しだけ、あの方のためでもありますが・・・。雪の風景は、ちーさんに見せたくて撮っているところもあったので・・・(爆)

とにかく、私の残りの人生は、写真によって彩られるのです。

誰かの評価とか、誰かと比べてとか、そういうことは意味のないこと。自分が撮った写真に涙する・・・、馬鹿げているけど、今の私にとって、それが、それだけが、生きる救いになっているのです。

今すぐにでも、消えてしまいたい焦燥感を癒す事が出来るのは、カメラを構えた時の自分の姿が、凛々しくも愛しいと思えるからなのです。今、自分がここに居る事の意味を、見出したいのかもしれません。写真は、撮る者の心を写す。そうであるなら、私の写真は、どんな風に写っているでしょうか?綺麗でしょうか?醜いでしょうか?明るいでしょうか?暗いでしょうか?

いいえ、そんなことではないのです。

きちんと風景を、物事を捉えているか?虚ろな気持ちでは、良い写真など撮れはしない!撮りたいものは、何なのか?!私はどうして、ここにレンズを向けたのか?!自分の心を、自分自身で捉えてこそ、良い写真がとれるのです!

私は、よい写真が撮りたい!それは、他人の評価ではなく、自分にとっての良い写真です。

私はどうしてこんなにも写真にこだわるのか?それはよくわかりません。

きっと、人生の最後を迎える時に気付く事が出来るかもしれないけれど、今はただ、心の赴くままにカメラを構えています。苦しい時こそ、辛い時こそ、きっと、不二子と風子は、私を風景に連れ出すでしょう。休ませて!と懇願しても、無理やりにでも、引っ張り出され、いつの間にか、私は暗闇に立っているのです。

私はきっと、寂しいんだ。けれど、それを、認めたくない。それを他人に訴えたくはない。寂しさは、人が皆、抱えている感情だ。気付いていようと、いまいとも。そう・・・、自分だけじゃない。自分だけが可哀想なんて、愚かな考え。頑張ろう、頑張るしかない!



私には、写真がある、カメラが慰めてくれる!

自分がいかに幸せかを確認して、今夜も眠りにつきます。

コメント
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