31.5.醍醐天皇
31.5.1.醍醐天皇
元慶9年(885年)1月18日、臣籍に降下していた源定省の長男・源維城として生まれる。
仁和3年(887年)、父の皇籍復帰と即位(宇多天皇)に伴い、皇族に列することになる。
寛平元年(890年)12月28日親王宣下、同2年12月17日(891年1月30日)に敦仁に改名。
同5年(893年)4月2日立太子。この際に、父宇多天皇から剣を下賜されたことが、現在にも続く壺切御剣の始まりといわれている。
<令和2年(2020年)11月8日「立皇嗣宣明の儀」>
同9年(897年)7月3日に元服すると同日践祚、同月13日に即位。
即位の際に父宇多帝から帝王の心得を記した「寛平御遺誡」を与えられた。
その教訓に従って当初は藤原時平と菅原道真を重用し、それぞれ左・右大臣に任じて政務を推進した。
醍醐天皇の治世は34年の長きにわたり、摂関を置かずに形式上は親政を行って数々の業績を収めたため、後代になってこの治世は「延喜の治」として謳われるようになった。
延喜2年(902年)、藤原時平と共に班田の励行や荘園整理令の発布など一連の政治改革を推進する。
一方では勅撰といった文化事業にも力を入れている。
①清和天皇、陽成天皇、光孝天皇の3代の御代である天安2年(858年)8月から仁和3年(887年)8月までの30年間を扱う歴史書「日本三代実録」(六国史のうちの一つ)を編纂。
撰者は藤原時平、大蔵善行、菅原道真等。*六国史とは、「日本書紀」「続日本紀」「日本後紀」「続日本後紀」「日本文特天皇実録」「日本三代実録」をいう。
②律令の補完のために出された法令あるいはそれらをまとめた法令集「延喜格式」の編纂。
編者は藤原時平。
嵯峨天皇が藤原冬嗣に編纂させた「弘仁格式」、清和天皇が藤原氏宗に編纂させた「貞観格式」、及び「延喜格式」を三代格式という。
③「万葉集」に撰ばれなかった古い時代の歌から撰者たちの時代までの和歌を撰んだ「古今和歌集」の編纂。
撰者は、紀友則、紀貫之、凡河内躬恒、壬生忠岑。
昌泰4年(901年)、時平の讒言を容れて菅原道真(後述)を大宰員外帥に左遷する(昌泰の変)。
延長1年(923年)皇太子保明親王が21歳の若さで没し、その2年後には保明親王の子である慶頼王が5歳で夭折した。
この一連の不幸は菅原道真の怨霊の仕業と噂されたため、延喜23年(923年)になって天皇は道真を左遷した詔を覆し、道真を右大臣に復したうえ贈位を行ってその慰霊に努めた。
延長8年(930年)6月、宮中に落雷し死傷者を出すという事件は怨霊の恐怖を実感させた。
事件を苦にした醍醐天皇はこのあと病気となり、翌年9月譲位、1週間後に出家(法名は宝金剛)、その日右近衛府で亡くなった。
そうしたことから醍醐自身地獄に落ちて責め苦を受けるといった伝承も生まれている(「扶桑略記」「十訓抄」)。
「醍醐天皇日記」は「宇多天皇日記」に次ぐ天皇日記として知られ、特に次の「村上天皇日記」と合わせて「二代御記」と呼ばれ、清涼殿の厨子に保管されのちの天皇の教訓の書とされた。
醍醐寺
貞観16年(874年)、弘法大師空海の孫弟子にあたる理源大師聖宝が開山した.
聖宝は同山頂付近を「醍醐山」と名付ける。
延喜7年(907年)醍醐天皇は醍醐寺を自らの祈願寺とすると共に手厚い庇護を与える。
延喜7年(907年)薬師堂が建立、延長4年(926年)に釈迦堂(金堂)が建立され、醍醐山麓の広大な平地に大伽藍「下醍醐」が成立し、発展した。
<金堂>
<五重塔>
<醍醐天皇後山科陵:京都市伏見区醍醐古道町>
31.5.2.菅原道真
承和12年(845年)6月25日生まれ。文章博士。
醍醐天皇の父、宇多天皇に重用された。
寛平6年(894年)道真は遣唐使の中止を建議した。
道真は20回目の遣唐使として任命されたが、唐の国力が衰え、大きな危険を冒して遣唐使を派遣する意味が薄まったとして、遣唐使の廃止を提案した。
醍醐天皇の昌泰2年(899)に右大臣となるが、左大臣藤原時平の中傷により(昌泰の変)、大宰権帥に左遷され、延喜3年(903年)2月25日59歳で大宰府で没した。
大宰府に左遷されると決まったときに、道真が自宅の庭にある梅の木に向かって詠んだ歌は有名である。
東風吹かば 匂ひおこせよ 梅の花 あるじなしとて 春な忘れそ
(春になって東風が吹いたならば、香りだけでも私のもとへ届けておくれ、梅の花よ
主人がいないからといって、春を忘れたらいけないよ)
死後怨霊と化したと考えられ、天満天神として信仰の対象となる。
現在は学問の神、受験の神として親しまれる。
太宰府天満宮の御墓所の上に本殿が造営されている。
菅公腰掛け石
「菅公腰掛け石」という場所が仁和寺にある。
京都市右京区御室大内にある「仁和寺」は 仁和4年(888年)に創建された寺で開基は宇多天皇である。
昌泰4年(901年)に菅原道真は太宰府に行くことが決まったので、宇多法皇に最後の別れをするために仁和寺を訪れた。
宇多法皇は勤行の最中であったため、石に座って法皇を待っていたという。
しかし、宇多法皇は会わなかった。
ながれゆくわれはみくずとなりぬともきみしがらみとなりてとどめよ
意訳:(大宰府に)流されていく私は水屑となるとしても、我が君よ、どうかしがらみとなってせきとめてください
下の写真で、不動明王の台座の岩が「菅公腰掛け石」である。
道真の怨念
道真の死後に起こった様々な災害や不吉な出来事は、道真の怨念によるものと見なされ、それを鎮めようと、色々な施策が施された。
菅原道真、平将門、崇徳上皇の怨念は、日本三代怨念とされている。
延喜23年(923年)に醍醐天皇の皇子保明親王が薨去し、さらに延長3年(925年)に保明親王の皇子慶頼王、承平3年(933年)には時平の長男保忠が没しており、これらは道真の怨霊によるものだと見られた。
また清涼殿落雷事件によって道真の怨霊は雷と結び付けられ、朝廷は火雷神が祀られていた京都北野寺の寺内社北野神社に道真を祀った。
そして太宰府では先に醍醐天皇の勅命によって藤原仲平が建立した安楽寺の廟を安楽寺天満宮に改修して道真の祟りを鎮めようとした。
正暦4年(994年)に疫病が流行したとき、道真の祟りと考えこれを鎮めようと正二位・左大臣が贈られた。
<太宰府天満宮>
<北野天満宮>
<続く>