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旅日記

故郷の風景(38) 津和野観光

 

津和野町の中心地はおおよそ南北3Km、東西0.5Kmの小さなエリアにあります。

この小さな場所がなぜ山陰の小京都と呼ばれているのかよく分かりませんでした。

来てみると、この町は歴史的な建物があり、また町並みも津和野藩の城下町として栄えた雰囲気がありました。

これが、人気になったのでしょう。

津和野の観光は1日あればほぼ主要な場所を回れますが、2日あれば十分です。

個人的な見解ですが、小(スモール)京都というよりも、ミニ京都と思いました。

 

西側の山並みには、津和野城跡、太鼓谷稲荷神社、永明寺、藩主亀井家墓地等の歴史的な遺跡があります。

 

津和野城は永仁3年(1295年) に吉見頼行が築城を始めました。

頼行は弘安51年(1282年)家来とともに能登から木曽野 (津和野町北西部) に地頭として入った、人物です。

頼行は永11年(1274年)、弘安4年(1281年)の元(蒙古)軍の北九州・北浦への来襲を受け、鎌倉幕府から西石見の海岸防備を命じられたため、津和野にやってきたのです。

以後吉見氏は十四代300年間、随時増築補強を行い、 城山山脈の諸所に曲輪・ 堀切・竪堀・横堀などを構築して堅固な中世山城を築いています。

 

この吉見氏は関ヶ原合戦 (1600年)で毛利氏とともに西軍として戦い、敗れて萩へ退転しました。

その翌年、坂崎出羽守が初代津和野藩主として入部し、現在の本城と織部丸の位置に高い石垣の近世山城を築きました。

坂崎氏は有名な千姫事件で1616年に断絶となり、 亀井家二代亀井政矩が津和野藩主として入城しました。

それから約250年間、 亀井氏が11代にわたって居城としました。

津和野城はその後、明治4年(1871年)の廃藩置県で廃城となり、明治7年に解体されました。

津和野町の殿町通りには、江戸時代日本伝統の壁塗り様式である「なまこ壁」や白い土塀など、江戸時代の風情を感じさせる建物が残っています。

 

 

太鼓谷稲荷神社

太皷谷稲成神社は安永2年(1773年)に津和野藩主7代亀井矩貞公が津和野藩の安穏鎮護と領民の安寧を祈願するため、三本松城(津和野城)の鬼門にあたる東北端の太皷谷の峰に、京都の伏見稲荷大社から斎き祀ったのが始まりです。

日本五大稲荷の1社に数えられています。

西周旧居

西周はオランダに留学した思想家で、「哲学」という言葉を創った人物です。

13号線を走っていたら、道路から少し離れたところにひっそりと建っていました。 

西周が4歳から25歳まで過ごした屋敷だそうです。

 

 

森鴎外記念館、森鴎外旧宅

日本の明治・大正期の小説家、評論家、翻訳家、陸軍軍医です。

森鴎外記念館には修学旅行の愛知県の高校生たちが沢山入館していました。

 

殿町通りの堀割の鯉

 

藩校養老館

津和野藩主亀井氏8代矩賢が、天明6年(1786)に創設した津和野藩の藩校です。

 

津和野カトリック教会

昭和6(1931)年、ドイツ人シェーファーによって建てられたゴシック風建築の教会です。

内部は畳敷きでした。

永明寺

歴代の津和野城主の菩提寺です。

お寺の前の墓地に森林太郎(森鴎外の本名)の墓があります。

訪れたときは、境内は修理工事中でした。

藩主亀井家墓地

永明寺へ行く途中の右側にある永太院の右横を通り抜けて山道を登って行きます。 途中に鳥居があり、さらに登ると門がありました。

門の横に「亀井家墓所」の説明看板が建っています。

中に入ると、沢山のお墓が行列なして建っています。

 

<完>

 故郷の風景 目次 

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