都野津城は都野津盆地の西側の霊亀山(362m)の山頂に建てられた山城です。永仁3年(1295年) この城山山脈に築城を始めています。
明治4年(1871年)の廃藩置県で廃城となり、明治7年に城は解体されました。
太鼓谷稲荷神社へ車で行く途中に「津和野城跡観光リフト」の乗り場があり、駐車場もあります。リフトの代金は大人往復450円でした。
リフトから降りると城跡への仮設の歩道が設置されていました。
案内板には次のように書かれていました。
文永11年(1274年)、弘安4年(1281年)の元(蒙古)軍の北九州・北浦への来襲を受け、鎌倉幕府は西石見の海岸防備を吉見頼行に命じた。
頼行は弘安51年(1282年)家来とともに能登から木曽野 (津和野町北西部) に地頭として入り、 永仁3年(1295年) この城山山脈に築城を始めた。
以後吉見氏は十四代300年間、随時増築補強を行い、 城山山脈の諸所に曲輪・ 堀切・竪堀・横堀などを構築して堅固な中世山城 (一本松城あるいは三本松城と呼ばれた)を築いた。
この山城は天文23年(1554年)の「三本松城の役」では大内氏・陶氏益その他の大軍に山麓を包囲されながらも、四月から八月までの100日余の籠城戦に耐えた。
吉見氏は関ヶ原合戦 (1600年)で毛利氏とともに西軍として戦い、敗れて萩へ退転した。翌年、坂崎出羽守が初代津和野藩主として入部し、現在の本城と織部丸の位置に高い石垣の近世山城を築いた。
【三本松城の役】
天文23年(1554年)3月から8月にかけて、大内義長と陶晴賢が、石見国三本松城(現在の津和野城)城主である吉見正頼(吉見氏第10代当主)を攻めた戦いである。 城址の説明板などでは「三本松城の役」とも表記されている。
頂上から津和野の町が見下ろせました。
石垣もきれいでした。
ここにも案内板が有りました。
津和野城は関ヶ原合戦 (1600年)の戦功により津和野藩主とし て入部した坂崎出羽守 (1601-1616年) によって山頂に高い石垣を積んで築かれた近世山城である。
石垣の石材は玲岩と石英閃緑岩で、約3km北方の寺田地区や枡ヶ峠の青野山トンネル付近で採石し 運び上げたものである。
特に、天守台の石垣は壮麗な石英閃緑岩で築かれ、 大きい石は2トンを超えるものもある。
坂崎氏は有名な千姫事件で1616年に断絶となり、 亀井家二代亀井政矩が津和野藩主として入城した。 それから約250年間、 亀井氏が11代にわたって居 城とした。
その後、 1873年(明治6年)の「城郭存廃決定 (廃城令)」 によって建物は解体されたが、急峻な 山頂に築かれた豪壮な石垣が当時を偲ばせる
帰りのリフト
<完>
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