見出し画像

旅日記

(物語)民話と伝説と宝生山甘南備寺−145(足利直冬(2)−7)

42.足利直冬(2)

42.3.足利直冬の上洛

42.3.5.三隅兼連の戦死

石見から直冬に同行してきた、三隅兼連は文和4年/正平10年(1355年)3月12日洛中桂川にて壮烈な戦死を遂げた。

正中の変(正中元年(1324年))以来、元弘、建武を経て30余年南朝への志を一貫した大忠臣であった。

常に義兵を募り大義の戦いに明け暮れした石見南朝党の柱石でもあった。

兼連は死に臨んで左右の従臣に「我が首を持ち帰り東方に向けて墓を築いてくれ、決して西向きにしないように」といったという。

この三隅兼連の墓は、三隅氏の菩提寺である正法寺(浜田市三隅町三隅)の側にあり、墓所の五輪塔は「東向の墓」と呼ばれている。

三隅兼連は大正15年(1922年)9月に正五位を賜った。

<三隅兼連の墓所>

<正法寺>

正法寺の入り口の両脇に木造(一般の寺では仁王像に相当する)が置かれているが、この仏像は異色である。

 

42.3.6.足利直冬その後

文和4年/正平10年(1355年)3月中旬に京都を撤退した直冬は、西国に向かった。

直冬は文和5年/正平11年(1356年)2月5日に安芸国に入った。

その時石見国豊田郷地頭内田三郎宛に書状を出して、早速馳せ参じるように要求した、書状がある。

(内田文書より)

今月五日所下着藝州也、早速馳参可抽戰功之状如件
正平十一年二月六日   判(足利直冬)
内田三郎殿

(内田三郎とは益田長野庄の豊田城の内田致世のことである。

秘密確保のためか安芸の国の何処にいるのかは書いていない。使者が口頭でつたえたのであろうか。)

 

内田文書には、直冬や大内弘世がこの時期に内田三郎宛に出した以下の書状がある。

於石見國致忠節云々、尤神妙也、彌可抽戰功之狀如件
正平十一年三月四日   判(足利直冬)
內田三郎設


爲凶徒退治、既所令着長門豐田郡也、急可馳參之狀如件
三月六日        判(足利直冬)
內田左衛門三郎殿

 

最前馳參藝州、致忠節間神妙之處、俄歸國之条何様次第乎、急速重令度可抽戰功之狀如件
正年十一年四月廿九日  判(足利直冬)
內田左衛門三郎

(内田三郎が俄に無断で安芸から石見に帰国したことを咎め、再度参列するように求めている)


於石州湯泉城、致忠節之条尤神妙、彌可抽戰功之狀如件 
正平十一年十月六日   修理權大夫判(大内弘世)
內田左衛門三郎殿

(この書状は、大内弘世が出したもので、湯泉城(大田市温泉津町湯里)での戦功を賞するもののようである。)

 

直冬は安芸から石見に向かったと思われるが、日付は不明である。

石見に帰って来た直冬は、戦力回復のため石見国内における反抗者の制圧と地頭の懐柔につとめた。

さらに延文3年/正平13年(1358年)に江の川河口付近の那賀郡松山に高畑城を築き、邑智・邇摩の足利方の攻撃の拠点とした。

この年の4月30日足利尊氏が死去し、義詮が後を継いだ。

この後の直冬の活動はめざましく、「石見に足利直冬あり」との評判が全国に響き渡った、という。

<山頂が高畑城跡>

那賀郡松山に高畑城(江津市松川町畑田)を築いた直冬は石東一円に積極的に 働きかけ、直冬党の拡大を図りつつ、小笠原・出羽両氏の幕府方勢力と果てしない抗争を繰り返えしていた。

 

42.3.6.1.阿須那の高橋氏

こうした情勢の中で阿須那に地盤を築いた高橋師光は次第に直冬の呼びかけに耳を傾け、直冬と提携するに至った。 

久永庄の広い米作地帯を擁している幕府方の出羽氏討伐は、決して割の悪い仕事ではなく、 直冬の呼びかけは高橋氏に領地拡大勢力増大の機会と名目を与えるものであった。

康安元年/正平16年(1361年)3月、高橋貞光(師光の子)は出羽実祐の拠る二つ山城(邑智郡邑南町鱒渕))を目指して行動を開始、俄然石見国における大掛りの合戦となり直冬方・幕府方双方が二つ山周辺に軍兵を進めた。

石見守護荒河詮頼は小笠原長氏・長義父子を督して高見・井原地域まで進出し、福屋氏は矢上・中野に進出して高橋氏を応援する。

 

半年後の九月、二つ山城はついに落城、実裕は討死し、出羽氏の盛時は終った。

当時実祐の嫡子祐忠は君谷地頭所を守っていて二つ山城の応援が出来ず、その後絶えず失地回復につとめていたが、 ようやく南北両朝統一に当って出羽地域の一部を返換されたに過ぎず、その全面的領有は毛利時代の享禄4年(1531年)) 以降のことになるのである(本願安堵)。 

本拠地を失ってから170年を経過して再び旧領地へ帰って来たのは、石見中世史においても異例のことである。

高橋貞光の出羽領有はその勢力を急激に拡大し、耕地の広い出羽地域は阿須那に代って、その根拠地となってきた。

貞光の孫久光は出羽本城に移居し、本城氏と称した。

この本城氏は後に毛利一族の吉川氏に仕え、岩国藩士として幕末まで続いた。


しかし、貞治元年/正平17年(1362年)9月大内弘世が周防・長門の守護職安堵を条件に幕府方に寝返り、ついで山名時氏も山陰における本領安堵を幕府に約束されて帰順した。

貞治5年/正平21年(1366年)大内弘世は荒川​​詮頼に代わって石見守護に任ぜられる。

大内弘世は長門・周防・石見の守護職 に補せられてから、石見の諸豪族にその旨を通じこれに君臨したので、南朝方に鞍がえして直冬に従属していた益田兼見らは、いち早く弘世の命に従った。

 

42.3.6.2.大内氏の石見侵攻

直冬を支える二大勢力である大内・山名が寝返ったのであるから、もはや彼を支える大きな勢力はいなくなった。

中国地方の武士団は次々と直冬から離れていった。


貞治5年/正平21年(1366年)7月、大内弘世が石見に出兵する。

7月13日に青龍寺城(浜田市三隅町向野田)を攻略する。

次に三隅城を攻撃したが、この城はしぶとく落城の気配をも見せなかった。

そこで、大内時弘世は三隅領に手を触れない約束で和議を結び、領内を通過した。

16日、福屋本明城の攻撃を始め、 一隊を久佐郷(浜田市金城町)に派し25日、金木城を攻略、26日に本明城が落城する。

こうして江の川以西の石見討伐を完了した弘世は、中国山脈を越えて 安芸山県郡西部に進出、栗栖氏の大田庄など大田川上流地方を経て山口に帰った。 

大内弘世の江の川以西の討伐戦は、足利直冬に大きな衝撃を与えた。

南朝軍の総本陣である三隅軍もすでに衰えて、往年の力を失ってしまっていた。 

この状況を見ても足利直冬は、 都治の高畑城に潜んだきり手の施しようもなかった。

かくして大内弘世は益田兼見と協力し足利直冬率いる石見の南朝勢力を駆逐し、石見は一旦平定された。

直冬の活動は、この後一旦潜めるようになる。

 

貞治6年/正平22年(1367年)12月7日第2代将軍足利義詮が死去し、足利義満がわずか10歳で第3代将軍になった。

大内軍は、この頃九州の菊池一族を主軸とする南朝勢力を討伐しようとする幕府軍の主戦力となっていた。

そのため、石見に注力できず、石見の経営も順調ではなくなっていた。

それは、石見では三隅・福屋両氏を中核とする南朝方の活動を今なお続けており、また直冬方も次第にその勢いを回復してきていたからである。

幕府は、直冬の勢力の回復を恐れており、完全に懲服させようと次なる手を打つのである。

 

<続く>

<前の話>   <次の話>

名前:
コメント:

※文字化け等の原因になりますので顔文字の投稿はお控えください。

コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

 

  • Xでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

最新の画像もっと見る

最近の「物語(民話と伝説・・・)」カテゴリーもっと見る

最近の記事
バックナンバー
人気記事