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旅日記

石見の伝説と歴史の物語−164(応仁の乱−1)

54.応仁の乱

椀飯(おうばん)

椀飯とは、他人を饗応する際の献立の一種で、平安時代から始まっている。後には饗応を趣旨とする儀式・行事自体をも指した。

室町幕府においては、有力守護大名家の家督が将軍に椀飯を奉って会食を行う儀式となり、大名家ごとに将軍の元に出向いて椀飯を奉る日付が定められた。

すなわち、元日は時の管領が、2日は土岐氏、3日は佐々木氏、7日は赤松氏、15日は山名氏が行うこととされた。

当時の献立は椀飯と打鮑・海月・梅干の3品に酢と塩を添えて折敷に載せて出すものであった。

また、「庖丁」と称して将軍の御前で生きた魚を料理人に調理させて献じる趣向なども行われた。

現在日本にお祭りやお祝い事があると、金銭や食事などを振る舞う文化がある。

特に、建物の完成記念のパーティーなどで、参加者にふるまわれる豪華な料理を「大盤振舞」という。

この「大盤振舞」は「椀飯」に由来するという。

 

54.1.足利義政の掌返し

足利義政という人は、どうも優柔不断で人の意見に流されやすく、現実逃避型の人間のようである。

その言動は今から見ると驚くものがある。

文正元年(1466年)12月26日、畠山政長に家督を奪われていた畠山義就が軍勢を率いて上洛する。

畠山義就は、寛正4年(1463年)11月、将軍義政の生母日野重子の逝去に伴い罪人たちの一斉恩赦が行われたとき、一緒に赦免されていた。

しかし、まだ京都への復帰は認められていなかった。

だが、義就は士卒五千余騎を率いて、強引に千本の地蔵院に着陣した。

これは、山名宗全が招いたものである。

 

畠山義就は、直に山名宗全の許に行き、謝礼を述べた。

「今度、私が出仕できたのは、御芳志によるものです。」

宗全も

「佐殿の上洛のこと、ただ一身の大慶なり」と賀し、通夜酒宴の興を催した。

翌朝、義就が宿舎とする地蔵院の門の扉に、何者かが落首をしていた

『右衛門佐 頂くものが二つある 山名の足と御所の盃』

足利義政は無断で上洛した畠山義就を非難するが、畠山義就が山名宗全の招きで上洛したことを知り、軍事的優位に立っていることを悟ると、何事もなかったように義就指示に切り替えるのである。

 

文正2年正月の儀

文正2年(1467年)の元旦、管領(畠山政長)は将軍足利義政のもとに行き正月の行事を行った。

翌2日は、将軍足利義政が、管領(畠山政長)の家を訪れることにしていた。

しかし、義政を迎える準備していた政長のもとに、義政から訪問中止の連絡が入る。

その中止になった理由が、政長にとって最悪のものだった。

それは、今日義政が政長と敵対している畠山義就と会うからということであった。


さらに、政長にとっての状況は悪化する。

毎年、正月5日は義政は畠山氏の屋敷を訪問することが恒例となっていた。

しかし、畠山氏でも義政が選んだのは、畠山義就の方だった。

畠山義就は、京都に戻って日が浅いため、まだ屋敷をもっていなかったため、山名宗全の屋敷を借りて、義政と対面した。

そして、明くる6日義政は、畠山の家督を政長から取り上げ義就に与え、政長に屋敷を義就に渡せと命令したのである。

さらに、義政は管領職をも取り上げ、山名宗全の娘婿である斯波義廉を管領に任命した。

追い詰められた畠山政長は残るは実力行使しかなかった。

1月18日、畠山政長は、義就に与えるぐらいならと屋敷を焼き払って、上御霊社において挙兵する。
上御霊社の戦いが始まった。


こうして、約11年に渡る戦乱応仁の乱が上御霊社で幕を上げるのであった。


54.2.上御霊社の戦い

文正2年(1467年)1月初旬、畠山家の家督を政長から取り上げ義就に与えた。

また、管領職も政長から斯波義廉にすることが決定された。

この報せに憤慨した政長は、1月15日に細川勝元・京極持清・赤松政則らとともに軍勢を率いて将軍御所に押し寄せて義政から義就の討伐令を引き出すことを計画する。

ところが、この企ては山名宗全の養女(山名一族である石見守護山名熙貴(ひろたか)の娘)である細川勝元夫人を経て山名方の知るところとなった。

15日、宗全は定例の「椀飯」を務める一方で、畠山義就・斯波義廉らと共に警固と称して将軍御所を固めた。

一方、細川晴元は将軍御所の西に、京極持清は南から将軍御所を包囲するという挙に出たのである。

その兵数は二千ほどという。

驚いた義政は、この紛争はあくまでも畠山氏の内紛による私闘とし、戦渦の拡大を憂慮して山名宗全、細川勝元らが、この戦に手出しをすることを禁止する、と宣言した。

勝元も、宗全が義就への援助を止めることを条件に承諾した。

管領職を失い、家督を取り上げられ、屋敷もを畠山義就に渡せと言われた畠山政長には、もはや下国するか、実力行使でそれらを取り戻すしかなかった。

政長は1月17日の真夜中に万里小路の邸宅を焼き払い、翌18日の払暁には将軍御所の北東に位置する上御霊神社の森に布陣した。

対する義就は三千の兵を3隊に分けて森を包囲し、申の刻(午後4時)に戦闘が開始された。

山名や細川らはこの戦に加担することを義政から止められていた。

しかし戦闘が始まると山名宗全は、義政の命令を無視して義就に加担する。

そうなると、数にまさる義就・山名連合が俄然有利となり政長を激しく攻め立てた。

 

一方の勝元はといえば、政長の援兵の要請にも一筋の鏑矢を贈るだけで、最後まで軍勢を送らなかったのである。

義政の命令を重んじ、静観を守り通した勝元の行動は京の町衆から「腰抜け」と非難を浴びせられたという。

雪霰吹き荒ぶ寒風の中での戦闘は夜半にまで及んだが、数に勝る義就勢に圧された政長は支えきれなくなり、ついには翌19日未明に自ら上御霊社の森に火を放って遁走したのである。

逃げた先は細川邸であった。

ここで畠山政長は匿ってもらうのである。

この結果、幕府第一の実力者であった、細川勝元はその地位を失い、代わって、山名宗全、畠山義就、斯波義廉が政治を動かすようになっていった。

この後しばらくは宗全・義就派が京都を制圧することになる。

しかし、面目を失った細川勝元もこのまま黙っていない。

畠山政長と畠山義就の戦いは、細川勝元と山名宗全との戦いに移っていくのである。

またこの両陣営に誼を通じる者たちも互いに反目しあうようになった。

この戦乱を理由に文正2年3月5日、元号が応仁に改元された。

天皇は第103代土御門天皇である。

応仁の乱が幕を開けようとしていた。

<御霊神社>

<応仁の乱発端地・御霊神社内>


54.3.大乱前夜

管領の斯波義廉は山名方であり、その管領下知状により山名たちは各地の守護や国人たちに指令を行っていた。

細川勝元は幕府中枢から排除された格好となったが、復活を狙っていた。

勝元も代々管領職を務める細川家当主の立場で独自に軍勢催促状や感状の発給、軍忠状の加判などを自派の大名や国人に行い、影響力を保っていた。

細川勝元は行動を起こす。

応仁元年(1467年)4月に細川方の兵が山名方の年貢米を略奪する事件が相次いで起きた。

そして、地方でも反乱が起こる。

元々、守護であったがその地位を奪われた者やその一族で不満を持っていた人々が、細川の誘いで反乱を起こしていった。

 

応仁元年(1467年)5月

細川方の播磨守護赤松氏の一門赤松政則が山名分国の播磨国に侵攻し奪還した。

また同じく細川方の武田信賢・細川成之らが若狭国の一色氏(山名方)の領地へ、斯波義敏が斯波義廉の越前国へ侵攻した。

美濃土岐氏一門の世保政康も旧領であった一色氏の伊勢国を攻撃した。

また細川勝元は、四国など細川氏一族の分国からも兵を続々と京都へ集結させており、京都は兵が溢れるようになる。

一方山名宗全方も細川方の動きを察し、評定を開くなどをして、これに備える。

 

54.4.応仁の乱(1)

そして、5月26日に京都での戦いが始まる(上京の戦い)。

「応仁記」にその戦力は、

細川方十六万千五百騎、山名方十一万六千騎と記されているが、これは誇張したものであると考えられている。


先に動いたのは、細川方だった。
5月26日の夜明け前、細川方の成身院光宣が正実坊を、武田信賢が実相院を占拠する。


正実坊

室町幕府および将軍家の収入・支出などの財産管理や、代物・公文書の保管管理を行った土倉。

実相院

京都市左京区岩倉上蔵町にある天台宗系単立の寺院。

門跡寺院(皇族・公家が住職を務める特定の寺院、あるいはその住職のこと)の1つである。

鎌倉時代の寛喜元年(1229年)、静基僧正により開基された。当初は現在の京都市北区紫野にあったが、上京区今出川小川(現・実相院町)に移転する。

その後応仁の乱を逃れるため文明6年(1474年)現在地に移転する。

 

武田信賢・細川成之の軍が続いて一色邸を襲撃する。

一色義直は直前に脱出し、山名邸に逃げ込むが、屋敷は焼き払われた。

 

細川勝元は戦火から保護するという名目で花の御所(将軍御所)を押さえて将軍らを確保し、自邸(今出川邸)に本陣を置いた。

山名方は正実坊と実相院を奪還しようとしたが、失敗する。

山名方は作戦を変え、孤立している細川勝久邸を攻める。

京都のいたるところで火が燃え上がる中、斯波義廉(管領)配下の朝倉・甲斐氏の兵が山名宗全邸南側の細川勝久邸を攻めて細川勢と激戦を展開し、東から援軍に来た京極持清を返り討ちにした。

細川方は、さらに援軍を送る。

斯波勢はこれにとり撤退を余儀なくされる。

細川勝久はこの隙を見て東の細川成之邸に逃げ込んだ。

西軍は勝久邸を焼き払い、さらに成之邸に攻め寄せ雲の寺、百万遍の仏殿・革堂にも火を放ち成之邸を攻撃したが東軍の抵抗で勝敗は決せず、翌日両軍は引き上げた。

こうして、両軍は堀川を挟んで睨み合う形となった。

将軍義政が28日に停戦命令を出したことにより、戦闘は中断する。

この合戦による火災のため、京都は北の船岡山から南の二条通りまでの一帯が延焼した。

義政は両軍に和睦を命じ、勝元の行動を非難しながら、義就には河内下向を指示し、また伊勢貞親に軍を率いて上洛させるなど乱の収束と復権に向けた動きを取っていた。

ところが細川勝元は徹底的に山名宗全を潰そうと考えた。

6月3日に勝元は、義政に細川方の大将になるように要請する。

義政はこの要請を受け入れる。

これによって将軍の牙旗(​​将軍の陣所に立てる大きな旗)が細川方に下され、足利義視が総大将に推戴され、本拠地を花の御所(将軍御所)に置いた。

これにより、京の東側にある細川方は東軍と呼ばれ、西側にある山名邸に本拠地を持つ山名方は西軍と呼ばれるようになる。

京都の地名である西陣は、西軍がこの地に陣を張ったことに由来する。

<山名邸跡地碑 (京都市上京区山名町)>

 

総大将となった足利義視は東軍から山名氏の縁者を追放し、山名方に通じたとして奉行衆・飯尾為数を誅殺していった。

しかし、何故か足利義政は失脚していた義視の敵である伊勢貞親を伊勢から京都に呼び戻したのである。

この辺りが、義政らしさであろうか。

そして段々足利義視は東軍内で孤立していくのであった。


一方戦乱は益々拡大する方向に向かっていく。

東軍は軍事行動を再開し、6月8日には赤松政則が一条大宮で山名教之を破った。

さらに将軍義政が降伏を勧告すると斯波義廉ら西軍諸将は動揺して自邸に引きこもったが、東軍は義廉邸も攻撃した。

京都は再び兵火に巻き込まれ南北は二条から御霊の辻まで、東西は大舎人町から室町までが炎上した。

斯波義廉・六角高頼・土岐成頼はいったんは降伏の意向を示したが、東軍に激しく抗戦する朝倉孝景(斯波氏宿老)の首級を条件とされたため降伏を断念する。

この頃になると、多くの大名がそれぞれの利害関係によって、東軍か西軍に味方するようになって、京都に集まって来ていた。

戦力は東軍が優勢であったが、西軍の軍勢も徐々に増えてきていた。

特に、西から上洛してくる大内政弘の数万の大軍は東軍にとって脅威であった。

細川勝元は政弘が到着するまでになんとか決着をつけようとする。

現状で最も手強い斯波義廉を排除するための猛攻を行うが、義廉は耐え抜いた。


斯波義廉邸が陥落する前に、大内正広勢が上洛してしまったのである。

東軍優勢で進んでいたこの戦いは西軍優勢となる。

山名宗全は反撃にでるのである。

 

<続く>

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