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旅日記

石見の伝説と歴史の物語−165(応仁の乱−2)

54.応仁の乱(続き)

54.5.応仁の乱(2)

54.5.1.大内政弘

大内政弘は、室町時代の文安3年(1446年)、大内氏第13代当主・大内教弘の嫡子として生れた。

前述した石見銀山を見つけたといわれている、大内弘幸は第8代当主である。

母は山名宗全の養女(山名熙貴の娘)である。

細川勝元の妻も山名宗全の養女で山名熙貴の娘である。

権勢を握っている氏族は奥深いネットワークを持っているものである。

  <大内政弘 肖像画>

  

大内政弘は寛正6年(1465年)9月3日、父大内教弘が伊予の陣中で病没したため家督を相続、周防・長門・豊前・筑前の守護となる。


大内氏は当時室町幕府の管領細川勝元と対立しており、教弘の四国出兵は同じく細川氏と対立する伊予の河野通春を援けるためだった。

大内氏と細川氏の対立は瀬戸内海の覇権と日明貿易の利権を巡るものだったと言われており、父の跡を継いだ政弘も河野氏を援けて細川氏と争うことになる。

寛正6年(1465年)10月、細川勝元の要請を受けた足利義政は政弘討伐の命を出す。

しかし翌年の文正元年(1466年)にはこの命令を撤回した。

これは当時京都で将軍家などの後継者争いに絡んだ山名氏と細川氏の対立が決定的になってきており、幕府は両氏に代わり大内氏を新たに取り込もうとしていたと考えられている。

そして応仁元年(1467年)山名宗全と細川勝元間の緊張が高まる中、大内政弘は上洛するのである。

応仁元年5月10日、大内政弘は周防・長門に加えて安芸・石見・筑前・筑後・豊前・伊予の8カ国から及ぶ大軍を率いて、山口を進発、海陸から上洛の途についた。

政弘の本隊は海路を、野上―柳井―屋代島―室津と内海を東進して、7月20日に兵庫(摂津国)に着いた。

伊予の河野通春もこのなかにいた。

当時の日記などからみて、上洛軍は、大内・河野の連合軍とみなされ、その兵力は二万とも三万ともいわれた(応仁記)。(ただ、この兵力は誇張であった実際は1万であったとされる)

 

54.5.2.大内政弘の入洛

上洛軍は摂津で上洛を阻止しようとする細川・赤松氏の両軍を撃破、8月23日に入洛し、東寺に着陣した。

東軍はこの大軍をみて、これまで攻め落とそうとしていた斯波義廉の屋敷から兵を引き上げて、後花園上皇と土御門天皇を土御門内裏から花の御所(将軍邸)に避難させた。

これで、東軍は、上皇、天皇、将軍を陣営に抱え込み、大義名分としては申し分のない状況となった。

しかし、大内政弘が参入してきたことに大きな衝撃を受けたものがいた。

東軍の総大将に祭り上げられていた足利義視が孤立していたことと、西軍の報復を恐れ、その夜京都から出奔してしまったのである。

 

54.5.3.西軍の反撃

この大内政弘の上洛によって、当初劣勢であった西軍は戦況を挽回する。

大内政弘はその後は約10年間にわたり畿内を転戦し東軍と争うのである。

西軍は京都の北郊、船岡山の東端、梶井門跡御所の焼失跡に移り、以後そこが大内・河野両軍の本陣となった。

 

東岩倉の戦い

西軍の反撃が開始されると、西軍が放った火によって、下京あたりは焼け野原となった。

戦況が有利になった西軍は攻勢に出て9月1日に畠山義就が武田信賢の守る醍醐寺三宝院(京都市伏見区醍醐)を放火して落とし、6日の将軍足利義政からの停戦勧告にも耳を貸さず13日に内裏を占拠した。

<醍醐寺三宝院>

<三宝院庭園>

この庭は、慶長3年(1598)、豊臣秀吉が「醍醐の花見」に際して自ら基本設計をした庭である。

<国宝 三宝院唐門 内側からの写真>

天皇の使いである勅使だけが通行が許される勅使門。

唐門とは、屋根に唐破風がついた四脚門のこと。

 

 

翌14日には、東軍の筆頭格である細川勝元の家臣秋庭元明と赤松政則の家臣浦上則宗が上洛した。

両者は8月中に勝元の命令を受けて摂津で大内軍の上洛を防ごうとしたが、失敗する。

その後、大内軍の後を追って入京する。

しかし、下京がほとんど西軍に占拠されていたため正面突入を諦め、東へ迂回し、16日に京都郊外の東岩倉・南禅寺の裏山に布陣する。

これを西軍に察知され、18日から西軍の南禅寺山攻撃が始まった。

東軍は激しく抵抗、10月2日に西軍は攻撃を中止して京都へ戻り、東軍はその隙に北から迂回して入京、御霊神社を通り東軍本陣へ辿り着いた。この戦いで南禅寺・青蓮院が炎上した。

細川勝元と赤松政則はそれぞれの家臣と再会したことを喜んだが、西軍は三宝院と内裏の占拠などで下京を制圧、東軍は花の御所・相国寺・細川勝元邸など残る上京の拠点に追い詰められていった。

西軍はさらに勢いに乗り、翌3日から上京に攻めかかった(相国寺の戦い)。

 

相国寺の戦い

<相国寺>

<洪音楼>

 

10月3日に西軍は更なる攻勢に出て東軍が構える花の御所(将軍邸)・相国寺・内裏に進軍を開始した。

西軍の畠山義就・大内政弘・一色義直らの軍勢が朝倉孝景らと合流して、相国寺及び周辺の東軍に攻めかかった。

相国寺には細川勝元の猶子細川勝之と勝元の家臣安富元綱・武田信賢らが守り、南方の烏丸殿・内裏・三条殿には京極持清らが構えていた。

畠山義就と朝倉孝景の軍はまず相国寺を攻撃、激戦の末武田軍を退却させて相国寺を焼き討ちする。

烏丸殿・内裏・三条殿の兵も逃亡して相国寺を制圧した。

花の御所は相国寺のすぐ西側にあったためこちらも西軍に攻撃されたが、半分焼け落ちながらも陥落を免れた。

東軍側は一旦退却したが、畠山政長らの援軍を得て反撃に転じ、相国寺跡地に陣取っていた一色軍と六角高頼軍を急襲して打ち破り相国寺を奪回した。

 

しかし、再度孝景が率いる西軍の軍勢が相国寺の占拠に成功し、一旦休戦となった。

西軍は相国寺の奪取により東軍を追い詰めたが、双方に多大な死傷者を出す消耗戦となった。

消耗が激しかったこの戦い以降、両軍の間での衝突が散発的になり、やがて戦争は京都から地方へと波及、相手陣営の有力武将の調略へと戦略が切り替わっていった。

 

足軽

応仁の乱で活躍したのが足軽と呼ばれる、金で雇われた兵士だった。

彼らは、基本的には戦わなかったが、防御が薄いとか、人がいないと思った相手の拠点を襲撃し、金目のものを全部盗んで火を放っていくという。

足軽は、敵を見つけたら背中をみせてすぐ逃げていった、という。

これらの足軽の存在が混乱している京都を更に混乱させていった。

足軽の発生は平安時代とされている。

検非違使の雑用役・戦闘予備員として従軍した「下部」が足軽の原型とされる。

鎌倉時代中期頃まで、騎馬武者による一騎討ちを原則としたことから、足軽は従者や運搬などの兵

站や土木作業に従事させられることが多かった。

南北朝時代に悪党の活動が活発化し下克上の風潮が流行すると、伝統的な戦闘形態は個人戦から集団戦へと変化し始め、足軽の活躍の場は土一揆・国一揆にも広まった。

応仁の乱では足軽集団が奇襲戦力として利用されたが、足軽は忠誠心に乏しく無秩序でしばしば暴徒化し、多くの社寺、商店等が軒を連ねる京都に跋扈し暴行・略奪をほしいままにすることもあった。

応仁の乱時、東軍の足軽300余人が宇治神社を参詣する姿を人々が目撃したものとして、「手には長矛・強弓を持ち、頭には金色の兜や竹の皮の笠、赤毛など派手な被り物をかぶり、冬だというのに平気で肌をあらわにしていた」という。

『真如堂縁起』には、足軽達が真如堂を略奪している姿が描かれているが、兜をつけず、胴具は身につけているものの下半身は褌一枚の者、半裸の者など無頼の姿である。

 

54.5.4.足利義視の西軍入り

応仁2年(1468年)9月22日、しばらく伊勢国に滞在していた足利義視は細川勝元(管領)や足利義政に説得されて東軍に帰陣した。

義視は帰京して早々に足利義尚派の日野勝光の排斥を義政に訴えたが、受け入れられなかった。

日野勝光とは義政の妻の日野富子の兄である。

勝光は足利義尚を次の将軍にしようとしていた人物で、足利義視にとって脅威となる存在だったのである。

さらに義政は閏10月16日には、文正の政変で義視と対立し命まで取ろうとした伊勢貞親を政務に復帰させた。

また11月10日には義視と親しい有馬元家を殺害するなど、はっきりと義尚擁立に動き出した。

細川勝元も義視擁立には動かず、かえって出家をすすめた。

このような状況で義視は再度出奔して比叡山に登った。

 

11月23日、西軍は比叡山に使いを出して義視を迎え入れて“新将軍”に奉った。

こうして、西の将軍足利義視が誕生したのである。

正親町三条公躬、葉室教忠らも西幕府に祗候し、幕府の体裁が整った。

さらに、西軍は東軍にいる後土御門天皇に対抗して南朝の血を引く人物を天皇に推戴することで、東軍の天皇・将軍の権威に対抗しようという構想がうまれる。

この構想は3年後の文明3年(1471年)8月に実現したという。

 

以降、西幕府では有力守護による合議制の下、義視が発給する御内書によって命令が行われ、独自に官位の授与も行うようになった。

こうして、義政と義視が対立し応仁の乱は長期化する一方だった。

大内政弘の圧倒的な軍事力によって山城国は西軍によって制圧されつつあり、京都内での戦闘は散発的なものとなり、戦場は摂津・丹波・山城に移っていった。

7月頃までには山城の大半が西軍の制圧下となった。

これ以降東西両軍の戦いは膠着状態に陥った。

長引く戦乱と盗賊の跋扈によって何度も放火された京都の市街地は焼け野原と化して荒廃した。

さらに上洛していた守護大名の領国にまで戦乱が拡大し、諸大名は京都での戦いに専念できなくなった。

かつて守護大名達が獲得を目指していたはずの幕府権力そのものも著しく失墜したため、もはや得るものは何もなかったのである。

やがて東西両軍の間には厭戦気分が漂うようになった。

 

<続く>

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