53.大乱の序章(続き)
53.2.斯波氏の内紛
53.2.1.斯波氏
斯波氏は足利氏第4代当主足利泰氏の嫡男であった足利家氏が祖である。
家氏が誕生したとき、その母は正室であった。
しかし、のちに泰氏が北条得宗家の女性(北条時氏の娘)を正室に迎える。
そのため、その間に生まれた利氏(のち頼氏)を嫡子に立て家氏を廃嫡した。
だが元は嫡子であった家氏は、足利一門中でも宗家に次ぐ格を有した。
こういった血筋もあり、斯波氏は三管領の中で最も家格の高い一族であった。
第6代義重の時に、本領であった越前に加え、尾張守護職、遠江守護職を加えられて、以後3か国の守護を世襲することになる。
しかし、戦国時代になると越前は守護代朝倉氏に、遠江は今川氏に奪われ、さらに戦国末期に織田信長に尾張から放逐されて滅亡した。
53.2.2.斯波義敏
三管領の筆頭であった斯波氏は、徐々に勢力が後退していく。
第7代義淳が37歳、次いで第8代義郷が27歳で死去したため斯波氏から管領になる人物がいないのである。
永享8年(1436年)、斯波氏(本家・武衛家)の8代当主・義郷が落馬で急死すると、家督はわずか2歳の義健が継いで9代当主となり、越前(福井県)、尾張(愛知県)、遠江(静岡県西部)の三国の守護となった。
この義健を補佐していたのが、斯波持種と甲斐常治であった。
しかし、この二人は対立するようになった。
この義健も享徳元年(1452年)18歳という若さで亡くなる。
しかも義健は若くして死去したため、跡継ぎの子供がいなかった。
そこで、跡継ぎは、幕府と重臣らによって斯波持種の子・義敏が武衛家(斯波氏嫡流)の家督と3国の守護となった。
<斯波義敏>
これにより、斯波持種と甲斐常治の争いは、主従の争いに発展する。
斯波家の宿老甲斐常治との対立は、斯波家臣を二分して長禄2年(1458年)越前一国におよぶ合戦(長禄合戦)に発展する。
前述したように、この頃将軍足利義政は関東公方として、異母兄である足利政知をを還俗させて鎌倉公方に任命し、鎌倉に向かわせたが、鎌倉に入ることができず、伊豆堀越に逗留すしていた。
そこで、義政はその救援のため、9月に斯波義敏および甲斐常治に関東への出兵を命じた。だが両者は互いに警戒して動かず、長禄3年(1459年)1月には越前の義敏派と甲斐派の衝突が再燃することになった。
足利義政から再三にわたる関東出兵命令を受けた斯波義敏は、5月に兵を集め京都を出発した。
ところが、斯波義敏は関東には向かわず、近江から越前に向かい、甲斐方の金ヶ崎城や敦賀を攻めた。
しかし、斯波義敏軍は敗れ去った。
これを知った足利義政は激怒する。
斯波義敏は、息子の松王丸(義寛)に家督を譲らされ、周防の大内教弘の元へ追放されたのである。
8月には義敏派であった堀江利真も越前に侵攻した朝倉孝景に討たれ、甲斐派がこの合戦に勝利するのである。
ただ甲斐常治自身はその間京都で病床に臥せっており、合戦勝利の直後に病死している。
53.2.3.武衛騒動
寛正2年(1461年)9月、幕府の関東政策により、松王丸に替わって堀越公方執事渋川義鏡の子である斯波義廉が武衛家を継承した。
<斯波義廉>
これに反発した義敏は反義廉となって将軍側近などに対し、復帰工作を行うようになる。
そして渋川義鏡が関東経略に失敗し、将軍義政の不興を買ったことで、義敏の立場も改善に向かっていく。
義廉の家督相続は関東政策の一環であったが、義鏡の失脚によって、斯波氏当主に実子を差し置いて養子の義廉を据え置く意味はほとんど無くなり、将軍義政は義敏の復帰を考えるようになったのである。
寛正4年(1463年)11月、将軍義政は側近の政所執事伊勢貞親や季瓊真蘂らの進言を容れ、生母日野重子の逝去に伴い罪人たちの一斉恩赦が行われ、義敏も赦免された。
この時、あの畠山義就も赦免されている。後に畠山義就は山名宗全に呼ばれ京都に復帰する。
ただし、義敏はこの時にはまだ京都への復帰は認められていない。
義敏はさらに復帰工作を進める。
一方、廃嫡されることを恐れた義廉は、義政の妨害に動き出す。
寛正6年(1465年)10月22日に斯波義敏の上洛を許す御内書が出た。
そして、12月30日に京都で父大野持種とともに義政との対面を果たす。
翌文正元年(1466年)7月23日に幕府は義敏を武衛家家督に復し、8月25日に尾張・遠江・越前3ヶ国の守護に任じたのである。
家督を奪われた義廉は岳父(妻の父)山名宗全を頼り、さらに一色義直・土岐成頼らも義廉に味方する。
9月6日に文正の政変が起こり、その結果9月14日義敏の守護職と家督は剥奪され、再度義廉が任命された。
文正の政変
伊勢貞親は義政の弟義視が謀反を企んでいると義政に讒言し、その殺害を訴えた。
ところが、9月5日夜に義視が細川勝元邸に入り、貞親が義政に讒言して自分を殺害しようとしていると勝元に訴えた。
翌6日に勝元は出仕、義政に申し開きをして、罪を問われた貞親と季瓊真蘂、義敏と赤松政則は京都から逃げた。
義敏は家督問題で貞親・真蘂と繋がり、政則は真蘂と同族であり、赤松氏再興に真蘂が関わっていたからとされる。
側近を失った義政は独自の政治を行えなくなり、諸大名中心の政治へと移行していく。
宗全・義廉らは勝元派の排除も狙い、大和で挙兵した畠山義就を呼び寄せる。
義廉は義就の軍事力を背景に、応仁元年(1467年)1月8日に畠山政長を管領の座から追い落としてその後任に就いた。
義父の宗全らは義廉を支持し、一方義敏は勝元を頼り、斯波氏の争いは足利将軍家の家督争いや畠山氏の争いと関係して応仁の乱の原因の一つにもなる。
この結果、斯波氏は、一家に当主が二人要ることになり、家臣も二派に分かれ戦うことになったのである。
53.4.将軍家の内紛
53.4.1.足利義政
足利義政は、室町幕府第8代将軍で父は第6代将軍足利義教、母は日野重子で、第7代将軍足利義勝の同母弟にあたる。
永享8年(1436年)1月2日、第6代将軍足利義教の五男として生まれた。
嘉吉元年(1441年)6月24日、父義教が嘉吉の乱で赤松満祐に殺害された後、兄の義勝が第7代将軍として継いだ。
義勝が将軍に就いたのは9歳、現代で言うと小学校3年生である。
もちろん、そんな子が政治を行える訳がない。
その政治を行ったのが、管領を中心とした守護大名たちであった。
だが、その義勝もわずか8ヶ月後に死亡する。
そして、その後を継いだのが、まだ8歳の足利義政であった。
当然、政治は側近の大人たちが行う。
幼い将軍が2代続いたことにより、管領を始めとする守護大名たちが力を持っていくようになるのである。
義政は成長するに連れて、自分で政治を行いたいと思うようになっていく。
しかし、それは周りを取り巻く守護大名にとって好ましからざるものであった。
実権を握っているものは、ずっとお飾りの将軍でいてほしい、また、先々代の義教のような恐怖政治に戻ったら大変なことになると、思った守護大名もいた。
こうして、自分で政治を行いたいと思う義政と義政に政治を行わせたくない有力な守護大名との間で、政治の主導権争いが行われていくことになった。
このような中で、義政の育ての親である、伊勢貞親は義政から絶大の信頼を得て権力を握るようになっていく。
伊勢貞親は、桓武平氏の流れを汲む伊勢氏である。
貞親は、幕府の政所の執事として幕府の財政を握っていた。
室町時代の政所とは、財政と領地に関する訴訟を掌る職である。
53.4.2.足利義政の跡継ぎ問題
義政には男子がいなかった。正妻富子との間に長禄3年(1459年)に第1子ができたが、すぐに亡くなり、6年もの間男子には恵まれなかった。
そこで、寛正5年(1464年)、足利義政29歳の時に弟であった26歳の義視を養子に迎え入れた。
<日野富子>
<足利義視>
その翌年の寛正6年(1465年)に足利義政と正室・日野富子との間に足利義尚が誕生したが、義視の立場は変化がなかった。
それは、世代に差があるため義視は中継ぎとして見られていたからである。
すなわち、義政の後は義親が継ぎ、その後を義尚が継ぐとしていたのである。
ところが、さらにその翌年の文正元年(1466年)7月30日に義視に嫡子の義稙が生まれると状況が一変する。
というのも、義視が将軍になると、次の将軍を義尚ではなく自分の息子の義稙を指名する可能性が出てきたからである。
それを現実的に心配をしたのが、当時義尚の養育係であった伊勢貞親である。
貞親は、義尚が将軍になると、自分が権力を握れると思っていたのである。
貞親は義視が邪魔であった。
そして、貞親は義視を亡き者にしようと考えた。
その計画は、単純だった。
伊勢貞親は、足利義政にこう告げたのである。
「足利義視が謀反を起こそうとしています」と嘘をいった。
足利義政は、この告げ口を信じ、義視を殺そうとした。
しかし、義視は伊勢貞親が自分を殺そうとしていることを察して、細川勝元の屋敷に逃げ込んだ。
義視から訳を聞いた細川勝元は部下に義視を匿わせ、足利義政のところに、誤解を解きにいった。
義政は、今度は細川勝元の言うことを信じた。
そして、今度は貞親に切腹を命じるのである。
鮮やかな程の手のひら返しである。
だが、これを知った伊勢貞親は、斯波義敏などと京都を脱出する。
こうして、側近を失った義政はもはや何もできなくなった。
そして、義視を指示していた、細川勝元・山名宗全・畠山政長・斯波義廉たちの守護大名が政治をうごかすようになった。
これが、前述した文政の政変である。
義政は蚊帳の外に置かれ、全くやる気を無くしていたのである。
義政新政の夢は崩れたのである。
この頃、義政に代わって義視が政務を行うようになっている。
しかし、その義視を取り巻く守護大名たちも、だんだんお互いの意見が合わなくなっていく。
その中心人物となったのが、細川勝元と山名宗全であり、当初二人の関係は良好であった。
細川勝元と山名宗全は姻戚関係がある。
細川勝元の正室春林寺殿は山名宗全の養女(山名熙貴の娘)であった。
だが、関係は悪化する。
山名宗全は足利義政の将軍引退と足利義視の将軍就任を望んでいた。
しかし、細川勝元は政変によって無力化している義政を政務に復帰させたのである。
こうした、政権構想の違いから宗全は勝元に反抗することになるのである。
かつて、足利義政の妻である日野富子が実子の義尚を将軍にしようとしたことが、応仁の乱の原因の一つとされていたが、そうではなかった。
足利義視の妻は、日野富子の妹で日野良子といい、富子と義視の関係は良好で両者の間には、義視を挟んで義久に繋ぐという、約束が成立していたのである。
日野富子が応仁の乱に重要な役割を果たしたことも事実であるが、それはこの時期ではない。
<続く>