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旅日記

石見の伝説と歴史の物語−59(石見の守護・地頭−2)

25. 石見の守護・地頭(続き)

25.2.承久の乱前後の地頭

鎌倉初期の石見の地頭に関する史料は殆ど見当たらない。
伝承などで残っているものを拾い集めた。

「地頭」は原則として守護と同時に庄園に置かれたものである。
軍役を勤め、部内に凶徒盗賊などがあった時はこれを追捕して守護に交付するのがその職務であり、京都や鎌倉の大番役なども勤めていた。
ところが、地頭も守護と同じく、荘園に色々干渉し、掠奪することも多々あったという。

「承久の乱」の戦功によって補せられたもの、及びそれ以後のものを「新補地頭」といい、これに対して従前の地頭を「本補地頭」と言った。
数人で分領している地頭を総括したものを「総領地頭」といい、 庄園の一部を領するものを「半分地頭」、「三分一地頭」などと呼び、地頭 の役所を「地頭政所」または「地頭所」とも言った。 

君谷や三原の田窪の地頭所はその名が地名に残ったものである。

地頭の収入を「地頭得分」といった。
その取り分は、後堀河天皇の御代に宣旨により、十町毎に免田一町を給し、一段毎に加徴米 五升を充てる事とした。 
地頭は必ずしも武家に限らず、 婦女を補した事もあり、また他人に譲渡する事もあって、一種の財産のようなものでもあった。

 

益田氏

現在の益田市、浜田市の殆どを益田氏一族が治めていたようである。

益田氏の家祖は御神本国兼と言った。
国兼は伊甘の郷(現在の下府)に居を定めて勢力を張っており、国司に任ぜられたという伝承もある。

家系は国兼、兼実、兼栄、兼高、兼季、兼時と続く。
寿永三年(1184年)源義経からこの兼栄、兼高親子に与えたという「御下文」があるという。
この「御下文」には美濃・那賀を中心に石見国全域に渡って、22箇所の領地を認めている。

4代目の兼高は建久三年(1192年)美濃郡益田に移住して御神本を改め益田氏を名乗り翌年七尾山上に七尾城を築いた。
記録には残っていないが、 七尾の築城を契機に益田氏は石見全域に拡がるその領地に何等かの防塁を構築していったようである。

三隅氏

寛喜元年(1229年)、益田兼栄の子兼信が分家して、三隅氏と名乗った。
兼信は、三隅、木束(現在、浜田市弥栄町木都賀)、永安(現在、浜田市弥栄町長安本郷)などの地頭であった。

福屋氏

天福元年(1233年) 益田兼栄の子兼広が分家して、福屋氏と名乗った。
兼広は、福屋 ( 現、浜田市旭町今市)、 鳥井(現、大田市鳥井)、福光(現、大田市温泉津町福光)の地頭であった。

周布氏

益田兼時の弟兼定は文永年間(1264〜1274年)に周布郷 (現、浜田市周布町)に移居し、 周布家を創立した。

同じく兼時の弟兼直は末元氏を、兼忠は丸茂氏を、兼政は田村氏を、経は越生氏と称するようになった。

 

佐波氏

三善義連が正治元年(1199年)常陸国矢貝より、邑智郡下佐波庄矢谷に来住し佐波氏と称したという。

久永氏

文治2年(1186年) 「久永某」 が久永庄の地頭職に補任されたという。

平田氏

文治5年(1189年) 平田四郎嘉貞が都治郷(那賀郡)の地頭職に補任されたという。
この平田四郎嘉貞は前述の、頼朝が派遣した「国掃という武士」の内の一人である。

富永氏(後に出羽氏に改名)

久永の庄(邑智郡邑南町)に富永祐純という男が近江国の野洲郡から来住した。
富永祐純は元、近江国野洲郡三上庄の荘官平家であったが、平家に逆らい石見国邑智郡久永荘に流罪に処されたものである。

佐々木定綱は石見国守護に補任されると、富永祐純を久永庄および出羽郷の地頭職に取り立てた。佐々木定綱は近江国守護でもあり富永祐純とは知己の間であったと思われる。

富永祐純は甘南備佐木庄の地頭の佐々木由綱の娘を娶り、朝輔が生まれる。

祐純は地頭として、瑞穂・石見両郷の支配にあたることになり、その勢力を伸長していった。

貞応二年(1223年)、祐純の跡を継いだ朝輔は二つ山(邑南町鱒淵)を築いて本城とした。


大場氏

日和の地頭であったと思われる


三宅氏

矢上の地頭であったと思われる。熊が峠城(矢上森脇谷)を築城する。

 

天野氏

市山(桜江町)の地頭。
承久の乱後に長門守護として貞応元年(1222年)天野和泉守政景が補任する。
この関係で市山の天野氏もこの時期に来住したとものと思われる。

 

桜江町誌より

「石見国の守護 ・地頭につき桜江町市山地区に別所雅丸氏所蔵の文書には次のごとくしるされている。
石見の守護・地頭文治四年に船越安芸守、郡上八郎、高橋源五、 宇佐美式部次郎、平田四郎、金子十郎、 瀧川喜次、生駒主馬女正、 江馬遠江守石見に下る。 

文治五年正月、一郡一人の地頭制をとりその責を明らかにす。 平田四郎は那賀郡、 金子十郎は安濃郡に移る。建久三年(1192年) 御神本兼高は美濃郡に移る。 

その支流は多く、皆それぞれに別れて一地方により数多き地頭となる。 
天福年中(1233年) 大内氏鹿足郡の地頭となり、嘉禎年中 (1235〜1237年)内田教員は美濃郡の地頭となり、弘安年中(1278〜1287年) より鹿足郡に移り本蘭の地頭となる。 

正和中 (1312〜1316年) 佐和実連は常陸国より邑智郡に移り地頭となり、小笠原長親は阿波国より邑智郡に移り南山に居る。 

その他邑智郡には天野氏、富永氏、高橋氏あり、那賀郡には佐々木氏、都濃氏、 岡本氏、邇摩郡においては吉川氏、久利氏、安濃郡においては富永氏、朝倉氏等が居た。」

等が記されている。これは前述の都治根元の話と一部重なる。

    

    <鎌倉初期の石見地方の地頭の大まかな配置図>

  

 

25.3.参考

参考として石見誌に記載されている守護職、地頭職の任命記録を以下に載せる。

ただし、この任命記録は鎌倉から室町時代の分まで含んでいる。

1.石見守護職任命記録

(石見誌より)

 

2.石見地頭職任命記録 

石見地頭職の任命記録(石見誌より)

 

<続く>

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