51.戦乱の時代へ
51.1.第6代将軍足利義教
第6代将軍足利義教は嘉吉元年(1441年)6月、猿楽を鑑賞していた時に、乱入してきた赤松家の武士に首をはねられ殺害された。
享年48(満47歳)であった。
そして、世の中は戦乱の時代に突入していくのである。
足利義教(よしのり)
応永元年(1394年)6月13日、第3代将軍足利義満の子として生まれた。幼名は春寅。
第4代将軍義持は兄である。
春寅は応永10年(1403年)6月21日に出家し、青蓮院に入室した。
応永15年(1408年)3月4日に得度して門跡となり、義円と名乗った。
応永26年(1419年)11月、153代天台座主となり、「天台開闢以来の逸材」と呼ばれ、将来を嘱望されており、一時大僧正も務めたこともある。
第6代将軍の誕生
第6代将軍足利義教はその将軍になった経緯が変わっている。
第5代将軍・足利義量(義持の子)が応永32年(1425年)享年19、満17歳で急死する。
政治は、法体の第4代将軍だった義持が行なった。
その義持も応永35年(1428年)1月に病を得るが、危篤に陥っても後継者の指名を拒否したのである。
<第4代室町将軍足利義持>
義持が後継者を指名しなかった理由としては、「義量死亡の後に一度石清水八幡宮で籤を引き、その際に男児誕生の結果が出た。
さらにその日には男児誕生の夢を見た。
それなのにもう一度籤を引くことは神慮に背くことになる」と義持が語り、このため養子も猶子も定めなかったとしている。
一方、
それは、「俺が決めたところで、お前らが覆すのだろう!」という思いがあったからだろうともいわれている。
足利義持は、守護大名たちが、自分の命令に素直に従わないことに気がついていた。
義持は父義満と違って、根回しや、脅しなどせず、ただ命令するだけで、部下たちの評判は悪かったのである。
自分の言うことを聞かなくなっていく過程で、足利義持は自分の権力のなさに気がついていくのだった。
足利義持は幕府重臣のお飾りであったことに気がついてしまい、拗ねた結果がこういうことになったのである。
こうして、後継者を足利義持が決定せず、幕府重臣に任せるということになった。
困った幕府重臣は足利義持の意向に対して評議の結果、足利義持の弟4人から1人をくじ引きで定めることが決まり、足利義持もこれを了承した。
くじ引きの対象者は義持の兄弟4人を対象とした。
しかし、義持はこのくじ引きを、自分が引くことを拒否する。
あくまでもお前らが決めろということであった。
足利義持はくじ引きの条件として自分の存命中にくじでの決定をするな、自分の死後にくじを引くようにと言った。
しかし、幕府重臣や諸大名らは、くじを取るまでの後継者不在は混乱を起こす可能性があるからと、1月17日の内に幕府重臣はくじを作って内々に神前で引き、足利義持死後に開封することを決めた。
1月18日、足利義持は死去する。享年43であった。
1月19日、くじの結果が判明する。
これにによって将軍職は同母弟の足利義教が継ぐことになった。
<第6代室町将軍足利義教>
このことから、足利義教は世間で「くじ引き将軍」と呼ばれるようになった。
3月12日、義円は還俗して義宣(よしのぶ)と名乗り、従五位下左馬頭に叙任された。
4月14日には従四位に昇任したが、将軍宣下はなかった。
このため鎌倉公方足利持氏が将軍となるという流言が走り、京都に不穏な空気が流れた。
4月27日、長く続いた応永の元号が改められ、正長元年となったが、これは義宣の強い意向によるものであった。
翌年の正長2年(1429年)3月15日、義宣は義教(よしのり)と改名し、参議近衛中将に昇った上で、征夷大将軍となった。
征夷大将軍の任命が1年遅れたのは次の理由による。
将軍就任が決まった足利義教だが、出家していたため俗官を持っておらず、法体であった。
そのため、征夷大将軍の任官は義教の髪が伸びて元服が行えるようになってから、と判断され待つことになったのである。
これまで朝廷では、無官で元服前の者が征夷大将軍に任官すると不吉だという慣習があったのである。
足利義教の将軍宣下は、先述の理由で延期されていたため、次第に京都の人々は、足利義教が将軍にならないのではないかと噂するようになっていた。
当時、関東を統治していた鎌倉公方足利持氏が権威を強めていたこともあり、足利持氏に将軍職が渡るのではないかとも考えられていた。
当然、鎌倉公方足利持氏もこの噂を聞き、密かに期待をしていたのではないかと、思われる。
足利義教が将軍就任すると、将軍就任に期待を持っていた足利持氏は、足利義教のことを「還俗将軍」と蔑み、対立関係を深めた。
この幕府と対立していた足利持氏は、幕府との戦に破れ自害するに至る。
これを永享の乱という。
この乱については次節で述べる。
目の敵であった足利持氏を排除した足利義教は、大名に対する支配力を一層強め、圧力でねじ伏せる政策を行っていった。
延暦寺攻撃
比叡山攻撃を行ったのは、織田信長だけではなかった。
織田信長の前に比叡山に攻撃を行った者がいる。
それは、第6代室町将軍の足利義教だった。
永享6年(1434年)7月、延暦寺が鎌倉公方足利持氏と通謀し、義教を呪詛しているとの噂が流れた。
8月、義教はただちに近江の守護である京極持高・六角満綱に命じ、近江国内に多くあった延暦寺領を差し押さえさせ、比叡山一帯を包囲して物資の流入を妨げた。
これに対し、8月23日及び10月4日に延暦寺は神輿を奉じて入洛したが、幕府の兵に撃退された。
11月19日、義教は諸将を派遣し、26日には軍兵が比叡山の門前町である坂本の民家に火をかけ、住民が山上へ避難する騒ぎとなった。
12月6日、延暦寺側が降伏を申し入れ、管領・細川持之ら幕府宿老も赦免要請を行ったが、義教はなかなか承諾しなかった。
10日、持之ら幕府宿老5名が「比叡山赦免が成されなければ、自邸を焼いて本国に退去する」と強硬な要請を再三行った。
すると、12日に義教はようやく折れて和睦が成立し、延暦寺代表の山門使節4人を謁見した後に軍を引いた。
18日には没収した寺領を延暦寺に返付している。
ところが、義教は本心では許しておらず、先の4人を京に招いたが、彼らは義教を疑ってなかなか上洛しなかった。
だが、管領の誓紙が差し出されたため、永享7年(1435年)2月4日に4人が出頭したところ、彼らは捕らえられて首をはねられた。
これを聞いた延暦寺の山徒は激昂し、5日に抗議のため根本中堂に火をかけ、24人の山徒が焼身自殺した。
炎は京都からも見え、世情は騒然となった。
義教は比叡山について噂する者を斬罪に処す触れを出した。
その後、山門使節の後任には親幕派の僧侶が新たに任命され、半年後には根本中堂の再建が開始された。
<比叡山延暦寺・法華総持院東塔>
万人恐怖
当初は義教の周辺には、穏健派がいて、義教の暴走を止めていたが、その取り巻きが亡くなると、恐怖政治が敷かれるようになった。
このような足利義教の行動は、幕府の中でも「悪御所」と呼ばれ、将軍の強権政治は次第に幕臣達の信頼を奪っていくこととなる。
6代将軍足利義教は畠山満家らの穏健派の幕臣が亡くなると、「万人恐怖」と評される恐怖政治を敷き、特に上記三家に対する干渉を強めるようになった。
義教は赤松満祐の同族・貞村を重用し、永享12年(1440年)には一色義貫・土岐持頼が殺害されている。
嘉吉元年(1441年)4月、持氏の遺児の春王丸と安王丸を擁して関東で挙兵し、1年以上にわたって籠城していた結城氏朝の結城城が陥落した(結城合戦)。
捕えられた春王丸、安王丸兄弟は、護送途中の美濃垂井宿で斬首される。
これより先の3月、出奔して大和で挙兵し、敗れて遠く日向へ逃れていた義教の弟の大覚寺義昭も島津忠国に殺害されており、義教の当面の敵はみな消えたことになった。
同年6月、足利義教は、家臣である赤松教康の屋敷に結城合戦の祝勝の宴に招かれた。
足利義教は、猿楽を鑑賞していた時に、乱入してきた赤松家の武士に首をはねられ殺害された。
享年48(満47歳)であった。
墓所は十念寺(京都市上京区寺町通今出川上ル鶴山町)にある。
<続く>