49.鎌倉時代と室町時代
49.1.武家の移動
鎌倉時代の初めまでは、人々は遠くに移り住むことは少なかった。
有力な武家でも、分家した一族は惣領の近隣の地に住み、その地を開墾して惣領を支える、というのが一般的であった。
しかし、ある事件により、武家の移動、特に東国から西国への移動が活発になり、石見国にも各地から武家がやって来て住み着くようになる。
彼らの多くは、住み着いた土地の名をとって氏とした。
承久の乱と新補地頭
武家の移動が増えた時期の一つが承久の乱後である。
これは、現在の名字分布にまで影響が残るほどの大移動だったという。
承久の乱は、鎌倉に本拠を置く鎌倉幕府と、京都の朝廷を中心とした勢力が戦ったものである。
戦いは幕府方の圧勝に終わり、後鳥羽上皇ら3人の上皇が隠岐・佐渡・土佐に流されることになった。
承久の乱後、鎌倉幕府は朝廷側の所領約3000箇所を没収した。
これらの土地は西日本に所在しており、新しい地頭として多くの東国の御家人が西日本の没収領へ移住していった。
これを新補地頭といい、それ以前の地頭は本補地頭と呼ばれた。
当初は御家人たちは遠い西日本に赴任せず、代理を派遣して管理していた。
しかし、元寇に際して西日本の守りを固めるために、鎌倉幕府は新補地頭たちに自領に移住するように命じた。
こうして、彼らは一族郎党を率いて西日本の任地に移っていった。
こうした武士達は、東から西に移り住んだことから西遷御家人と呼ばれている。
主なものには、大友氏(相模→豊後)、相良氏(駿河→肥後)、伊東氏(伊豆→日向)、熊谷氏(武蔵→安芸)などがある。
西遷御家人には、やがて地元の有力一族に発展したものも多く、戦国大名の大友氏や伊東氏はこの末裔である。
移り住む武家
石見へ他の地域からの来住者が増加するのは、まず承久の変後、ついで元寇以後の二つの時期である。
またこの頃、地頭たちは自領を子女に分与してやる風習があり、所領の細分化が進み一部の地頭達の経済生活は次第に窮迫しつつあった。
そのため、新領を得れば、直ちに一族を移住させる逼迫した情況であったことも、この移動に拍車をかけた。
弘安の役 (1281年) 後から、北条氏滅亡の元弘三年(1333年)ごろまでの、およそ半世紀のあいだにおけ石見国の政治勢力の変動は、激しいものであった。
国司、郡司はほとんど有名無実となり、地頭としての豪族の勢力は守護職すら制圧しかねる情況であった。
この時期に、つぎの南北朝から戦国時代にかけて石見で活躍する諸豪族が殆ど顔をそろえた。
さらに承久の乱や蒙古襲来などの世の中の激動の影響を受け、既存の権威や権力に対する見方が変ってきていた。
戦闘を繰り返す武家
南北朝の動乱の影響を受けた、石見の豪族たちは石見各地で戦闘を繰り返すことになる。
一方、天皇、将軍、守護などの命令により京都、九州、四国などの遠方に遠征することも多くなっていった。
49.2.鎌倉時代から室町時代へ
鎌倉時代に貴族社会から武家社会に変貌したが、世の中は依然として上流社会のもので、庶民が世に出ることはなかった。
室町時代になると、産業、文化、政治などのあらゆる面に庶民の台頭が顕著になった。
特に貨幣経済の発達と、農業の進歩がそれを後押しした。
当時の貨幣は今の中国から輸入しており宋銭、明銭などが流通していた。
旅をするにも、金さえあれば行く先々で必要なものが手に入る。
生活に必要な食料などを持って歩く必要がなくなった。
このため、人々の行動範囲が広がり、思想を含めた文化や農業・工業などの産業が一気に進歩した。
貨幣経済が発達すると当然貨幣が不足してくる。
戦国時代に突入すると戦費調達に多額の資金を必要とするようになり、小額貨幣である銅貨は用途に適さなかった。
そこで金山、銀山の開発がすすみ、領国貨幣が戦国大名により作られるようになった。
さらに銀が国際的な貨幣であったため、1540年代以降には銀を輸出する貿易が活発となっていき、その範囲は西洋まで及んでいった。
石見の大森銀山を周防・長門の山内氏、出雲の尼子氏、安芸の毛利氏が争うことになる。
また、農業も格段に進歩する。
全国で二毛作が一般化する一方で、畿内などでは、米・麦・そばなど、三毛作が行われるようになっていた。
農耕については、鉄製農具や牛馬を利用した農耕は、鎌倉期よりもさらに普及していた。
肥料では、刈敷・草木灰に加えて、下肥や厩肥が使われるようになって、農作物の収穫の安定化が進んだ。
苧・桑・楮・漆・藍・茶などの栽培も盛んになっており、これらが商品として流通していた。
また谷川の水を網目状に流し水田に安定的に水を供給できるような工夫も行われていた。
49.3.鎌倉幕府と室町幕府の違い
49.3.1.統治体制
鎌倉幕府は全国各地を直接支配していたが、室町幕府の直接支配が及ぶ範囲は、京都を中心とする西日本地域であった。
室町幕府は、全国を異なる統治機関で分割統治した。
中央(西国)を室町幕府が直接統治し、これを除く地方は次のような統治体制とした。
1、関東には鎌倉府が設けられ、東国の統治を行った。
この鎌倉府の長官は、鎌倉公方と呼ばれ、初代公方は足利尊氏の第4子の足利基氏である。
以来、基氏の子孫がこれを継いだ。
2、九州には九州探題を設け、九州各地の守護を統制した。
3、東北を除く各国には守護を設置したが、広域の陸奥国と出羽国には守護より強力な権限をもつ奥州探題、羽州探題を設け、統治させた。
49.3.2.将軍と武士の関係
鎌倉幕府では、将軍と御家人との間で、御恩と奉公の関係で主従関係が構築されていたが、室町幕府では幕府全体が有力大名の連合政権となっている。
室町将軍家は、大名を束ねる盟主として機能していたが、個々の大名が力を持っており、義満の時代を除き、将軍家が幕府の運営を主導できず、政権が安定していたとはいえなかった。
これは鎌倉幕府で、将軍から見れば一御家人に過ぎない北条氏が執権を世襲し、将軍に代わり、その強大な権力の下に幕府を主導したのと対照的に見える。
49.3.3.幕府の場所
源頼朝は、鎌倉の地に幕府を開き、足利尊氏は京都の地に幕府を開いた。
しかし、尊氏は源氏の継承者として鎌倉の地に幕府を開きたかったようである。
なぜ尊氏は、京都に幕府を開いたのか?
それは、後醍醐天皇との確執にある。
当時は、南北朝時代で京都に勢力を置く北朝と吉野(奈良)に逃れていた後醍醐天皇の南朝に分かれていた。
足利尊氏は、北朝側の天皇に征夷大将軍を認められたので、北朝が倒れては困るのである。
もし、鎌倉に幕府を開いていたら、後醍醐天皇の思うつぼなので京都から離れるわけにはいかなかったのである。
そのため、尊氏は京都の地に幕府を開いたのである。
49.3.4.守護・地頭の権力の移り変わり
鎌倉幕府では、守護の権力は謀反人・殺害人逮捕などの警察権のみで、徴税権を持つ地頭の方が力を持っていた。
しかし、室町時代になると守護の権限が大幅に強化される。
室町幕府は守護の職務に刈田狼藉(かりたろうぜき)と使節遵行(しせつじゅんぎょう)を加えた。
刈田狼藉とは、土地をめぐり争っている当事者の一方が強制的に稲を刈り取ってしまう行為をいい、この刈田狼藉を取り締まる権限を守護に与えたのである。
使節遵行とは土地をめぐる争いが起こった場合、幕府は使節を派遣して裁定を下すが、この権限も守護に与えたのである。
このふたつの権限が追加されたことによって、室町時代の守護は警察権と司法権を行使できるようになったのである。
さらに、荘園や公領の年貢を半分徴収できる権利までが守護に与えられた。
これを半済令(はんぜいれい)といい、当初は軍費の徴収を目的とした一時的な法令だったが、貞治6年/正平22年(1368年)に発令された応安の半済令で恒久化された。
この半済や年貢の徴収を守護が行う「守護請」を通し、公領や荘園が次第に守護領へ変わっていき、守護大名が成立する。
この頃には鎌倉時代の地頭たちは、守護大名の家臣となり吸収されていくのである。
49.3.5.財源
鎌倉幕府は、直轄の荘園や御家人を通して諸国の知行によるものが主な収入源だった。
室町幕府は、貨幣経済の発展を受けて、関所の通行税、港の利用税や京都五山や土倉、酒屋からの献金が大きな財源となっていった。
さらに、国家的行事の際に、守護を通して全国から段銭(土地税)や棟別銭(建物税)を徴収するようになる。
室町幕府自体の直轄領の年貢は、とても少なくほとんどが上記のような収入が主な財源で、貨幣経済や守護の実力に依存した財政だったのである。
50.室町幕府
歴代の将軍
50.1.室町幕府の職制
草創期の室町幕府は、足利氏の譜代家人を中心に主従制という私的な支配関係を束ねた執事が初代将軍足利尊氏を補佐していた。
貞治元年/正平17年(1362年)にわずか13歳の斯波義将が執事に任じられ、父の斯波高経が後見した。
当初は高経が就任を求められたが、斯波氏は足利一門ではあるものの本家からは独立した鎌倉幕府の御家人の家格を誇っていた(つまり形式上は足利本家と同格だった)ため、足利家人の職である執事に就くのをよしとしなかった。
しかし、義詮から「天下を管領してくれ(政治を引き受けてくれ)」と頼まれ、再三の要請に仕方なく応じた。
この時から執事から管領への制度の転換が行われたと考えられている。
応永5年(1398年)以降は、斯波氏・細川氏・畠山氏の3家(#三管領家)から交代で任じられることとなる。
室町時代の有力武家と足利氏との関係図
室町時代には、各地でお家騒動が起こる。
特に、足利氏及びその一族である細川氏、畠山氏、斯波氏、一色氏、渋川氏らが引き起こすお家騒動は全国に大きな影響を与え、争乱の時代へと突入していくのである。
<続く>