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旅日記

(物語)民話と伝説と宝生山甘南備寺−45(武士)

18. 武士

18.1. 武士の発生

古代には、武力を行使する武官と云う国家に認められた軍人組織があったが、武士はこれとは異なっていた。

武人として名高い征夷大将軍の坂上田村麻呂(奈良時代末期〜平安時代初期)は、貴族であり、武官であるが、武士であるとはいえない。

武官は「官人として武装し、律令官制の中で訓練を受けた常勤の公務員的存在」である。
武士は荘園をきっかけに発生したと考えられてきた。

11世紀半ばに荘園の一円化が進み、諸国の荘園公領間で武力紛争が頻発するようになる。

そうなると荘園および公領である郡・郷・保の徴税、警察、裁判責任者として、軍事的に対応できる能力を有する武士が荘園の荘官や公領の郡司・郷司・保司に任命されることが多くなってきた。

そして、武士はこれらを領地とする所領経営者として成長していった。

一方、武士の起源は都であるとする見解もある。

武士の起源は律令制下の武官にあり、近衛府を経由して10世紀以降、源氏や平氏らに武芸(馬術や弓術)が継承された。そして平安京の治安を護り、天皇を守護する人たちを、朝廷が職業として認めたものが武士の起源だという見解である。
(これは企業が警備組織を自前で持たずに、警備専門会社等に外部委託することと似ている)

恐らく武芸を家業とする者たちが都で発生し、その者たちが地方に土着し、武芸集団となり家業として伝えるようになったのではないかと思う。

平安時代は、個人的に武芸に優れているだけでは武士と呼ばず、特定の家や血統に属していることが必要条件であったという。

すなわち、武士とは職業のため或いは生活や領地を守るために、武芸を身につけた人々であって、それは家業として代々伝える人々である。

そして、これらは「武芸の家」と呼ばれるようになった。
また、武士は「兵(つわもの)」「武勇之人」等と呼ばれることが多かった。

[平家物語 敦盛最期]

一の谷の戦い(寿永3年(1184年))で、騎馬で海上の船に逃げようとした敦盛を、熊谷直実が「敵に後ろを見せるのは卑怯でありましょう、お戻りなされ」と呼び止める。
敦盛が戻ると、直実は敦盛を馬から組み落とし、首を斬ろうとするが、自分の子供である直家と同じ年頃の若者の顔を見ると躊躇し、名前を尋ねる。
しかし敦盛は「お前のためには良い敵だ、名乗らずとも首を取って人に尋ねよ。すみやかに首を取れ」と答えた。
直実は敦盛の首を切る。

熊谷直実は平家の若武者(平敦盛(16歳))の首を取った後、泣きながら言う。

「あはれ、弓矢とる身ほど口惜しかりけるものはなし。武芸の家に生れずは、何とてかかる憂き目をばみるべき。情けなうも討ちたてまつる物かな。」

               

この武士たちは、やがてグループを作り成長していく。このグループを武士団といい、指導者を棟梁といった。


18.1.1. 武士の棟梁

国司となって実際に領地におもむいた者を「受領」という。

都にいた時は中流の貴族や皇族でも、ひとたび地方へ行けばとても位の高い、血筋の良い人だった。

国司の中には任期が終っても都へ戻らず、国司だったときに得た自分の領地に残る者がでてきた。

こうした人々の中に、天皇の末裔であった「平氏」や「源氏」がいた。
前述した平将門の祖父高望王がその例である。

地方豪族の武士軍団は、互いに手を結ぶことが自分達の安全を保証するものであると思うようになる。

しかし、地方豪族たちはほぼ同じくらいの身分なので、「ドングリの背比べ」となり、なかなか一つにはなりにくかった。
そこで、豪族たちは自分達より身分が高い「平氏」や「源氏」を自分達のリーダーに選び集団を結成するのである。


18.2. 武家

18.2.1. 貴族

飛鳥時代に中国から、儒教、仏教、等が伝わり、これらの思想や宗教を会得するためには漢文で書かれた書物を読む能力が必要となった。

これらの書物を基に理想的な政治を行う研究も進んで行った。

これを進めたのが聖徳太子で、全ての人に等しく教育を説き、理想の実現と人間平等の考えを示した。

そして聖徳太子はこれらの研究の結果として推古天皇11年(603年)に中国や朝鮮の制度を参考にして官位12階を制定した。

この官位制度は、大宝律令(大宝元年(603年))、養老律令(天平宝字元年(757年))により、位階制度として整備された。
位階制度は、本来は能力によって位階を位置付け、その位階と能力に見合った官職に就けることで官職の世襲を妨げることを大きな目的とした。

しかし、制度というものはほっておくと、利権を生み、当初の目的と大きく乖離するようになる。

平安時代の初期には人材登用制度としての位階制は形骸化して、一部の上流貴族に世襲的な官職の独占を許すようになる。

この位官の制度により、貴族という言葉が生れる。

位階の三位以上を「貴」、四・五位を「通貴」という。

「貴」は貴人を意味し、「通貴」は貴人に通じる階層を意味した。

これら「貴」、「通貴」、及びその一族を貴族と呼んだ。

「貴」と「通貴」では与えられた特権に差があったため、「貴」は上流貴族、「通貴」は中流・下流貴族に位置づけられていた。


18.2.2. 武家と公家

平安時代中期の官職や職能が特定の家系に固定化していく「家業の継承」が急速に進展していた。

しかし武芸を職能とする下級貴族もまた、「兵の家」として武芸に特化した家柄を形成し、その中から軍事貴族(武家貴族)という武士の中核的な存在が登場していった。

これらの家系・家柄を指して「武家」もしくは「武勇の家」「武門」とも呼ばれている。

軍事貴族でも清和源氏と国香流桓武平氏の家系は、諸大夫の身分の中でも高位である四位以上に叙されたため、これらの家系がいわゆる「武家の棟梁」の資格を持つと認識されるようになった。

その後、東国に鎌倉幕府が成立すると、幕府や鎌倉殿が「武家」と称されるようになった。

幕府は朝廷に対し武力面で奉仕すると約束した。朝廷はその見返りとして、幕府および鎌倉殿の軍事警察権などを公認したのである。

「武家」という呼称に対して、朝廷に仕える文官の総称としての「公家」が登場する。

 

<続く>

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