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旅日記

(物語)民話と伝説と宝生山甘南備寺−154(佐波家の紛争)

45.佐波騒動

南朝方だった佐波氏は、高師泰の石見討伐隊との攻防で、観応元年/正平5年(1350年)8月に城主の佐波顕連が討ち死にし、青杉城が落城した。

顕連のあとは嫡男の実連が継ぎ、北朝方に下り所領の安堵を受けた。

永和3年/天授3年(1377年)佐波実連は家督を嫡男の行連に譲り、二男の常連には赤穴庄を、 さらに粕渕の久保、吾郷の明塚などを庶子に分与した。

佐波行連は応永21年(1414年)に死去するが、嫡男の清連がすでに世を去っていたため、分家の常連の二男正連が宗家の家督を継承した。

この、正連の子が元連である。

元連は七歳をもって家を継いだ。

佐波家で元連幼少の頃に起った事件は、およそ応永32年(1425年) 前後のことであった。

この事件の詳細は永正2年(1505年)の赤穴久清(郡連)の置文に述べてある。

置文【おきぶみ】 

現在および未来にわたって守るべき事柄を特定の社会集団で定めた文書。

寺院の規式や掟、公家・武家が子孫に残す遺訓や書置等の類である。

その概要を以下に述べる

 

45.1.明塚隼人正の反乱

当時祖父行連の兄弟に吾郷の明塚を領していた明塚隼人正の一族がいた。

彼は元連が幼弱をもって家を継いだ機会に佐波本家の横領を企み、一族家臣を抱き込んで計画を進めていた。

この企みを赤穴弘行(当時37歳前後といわれている)が察知する。

赤穴弘行は、常連(佐波実連の二男)の嫡孫である。

地名の赤穴を取って、赤穴氏と称した。

赤穴弘行は本家の危機を察し、ひそかに元連を伴って上洛し、実情を幕府に訴えた。

幕府はしばらく佐波元連を京都にとどめて保護し、弘行を帰国させて佐波領の統制に当たらせることにした。 

帰国した弘行は佐波本家の統制をはかるとともに、謀反者討伐の準備を進めた。 

準備の体制が整ったところで弘行は元連を京都から呼び戻した。

弘行は明塚討伐に、赤穴家の重臣で飯石郡赤名の杉谷城を預っていた漆谷兵庫や山田氏を派遣することにした。

弘行は、自分の家臣だけでは他の誤解を招く心配もあるので本家の家臣も加えたいと考えた。 

元連は自分が幼弱でもあり、しばらく京都に滞在していたので家臣の気心も分らないから、赤穴家だけで事件処理に当たることを希望した。

だが、弘行はどうしても本家の家臣の参加が必要であると主張し、佐波家の家臣である亀兵庫を参加させた。

 

かくて、赤穴・佐波の討伐軍は明塚隼人正を攻めて、ついに佐波郷の、おやの原において自殺させ、内紛は一応落着した。

ところが、落着したと思ったこの事件が、再燃する。

 

 

45.2.佐波郷高畑城事件

明塚隼人正の家臣奥山某 (奥山周防守の父、名は不明)が主謀者となって、元連暗殺の陰謀が企まれるのである。

これが、佐波郷高畑城事件である。

赤穴弘行は、元連と一緒に高畑城(邑智郡美里町高畑)に出かけていた。

その夜元連を夜寝所に案内しようとする侍女を、弘行は見かけた。

しかし、その侍女の姿・挙動に不審を抱いた弘行は、ひそかに元連の寝所に行き、元連を起こした。

弘行は、元連をその場から脱出させ、寝所をあたかも人が寝ているかのように寝具を装った。

そして弘行は、後に残って何者が窺い忍ぶのかを確かめんと、身を隠して待ち受けた。

はたして、元連を案内した侍女が忍び現れ、二刀三刀と寝所の寝具を刺して立ち去った。

弘行はこれをみて、密かに小門から脱出した。

そして、追手が来ることを考え、被官を監視役に残し、弘行たちが「角目谷」まで逃れるまで監視するように命じて立ち去った。

奥山の陰謀は終に成らず、狂人となり獄に投ぜられ、牢死したという。

 

以上が郡連の置文の大要であるが、この事件は多分に佐波本家をさしはさんでの赤穴・明塚両分家の勢力争いが感じられる。 

元連の父正連は赤穴家から入って本家を継いだものであるから、 赤穴家の本家に対する発言力は他の分家に比して遥かに大きい。

しかも行連は後嗣無くしてすでに没していたので、たてまえから言えば赤穴・明塚両家の言 い分は同格のはずであり、 明塚家は佐波発祥の地ともいうべき下佐波郷にあるのだから、領域外の出雲赤穴家から本家にすわられることには不満であったに相違ない。

従って、この時邑智郡内の一族家臣の多くは明塚党であったわけで、置文に述べているように他の誤解を招く心配があるという理由で亀兵庫の参加を求めるなど、極めて慎重な行動に出たのも頷かれる。

 

45.3.神領横領事件

文安5年(1448年)10月ごろ佐波元連が飯石郡赤名にある、京都石清水八幡社赤穴別宮領を横領するという事件が起こった。

これに対し幕府は出雲守護京極持清に命じて討伐させた。

この事件に関して、管領細川勝元より、周布和兼に対して、京極持清に協力するよう命じている。

恐らく、佐波氏の所領に近接する、邑智・邇摩郡両郡の諸族にも同様な指令が発令されたものと思われる。

その結果元連は敗れ、捕らえた元連の弟は首を討ち取られ、その首は京に送られ晒されたという。

宝徳元年(1449年)7月のことである。

幕府は元連の所領を取り上げ、石見守護山名清教の預かりとした。

この合戦にあたって、赤穴幸重(弘行の子)は、本家を守るのではなく、守護方となって惣領元連を攻めている。

ただし、赤穴幸重は元連の所領が、石見守護預かりとなったことに対して、事件後佐波郷を領有することは、本家に対して忍びないとして、常連以来赤穴家が相伝してきた片山(邑智郡美郷町)の領地をその間(石見守護預かりの間)一旦放棄した。

「惣領元連ぼつらくの間、さハ本領わけかた山ふんをハすてたり、然間、石見の守護より知行し給ふ、これ惣領へのとゝけなり、惣領の下としてもちたる所をかかえ候得ハ、惣領への不儀に成候とてすてられたり」 


やがて社領横領の一件は、 佐波庶家の井本・明塚両家の煽動であって、元連は全く無罪であることが判明したので、旧領は復活されることになった。

しかし、赤穴幸重が一旦放棄した佐波郷内の片山分は、当然赤穴家返還されるべきであったが、元連は片山の領地は自分の物にして返さないばかりか、赤穴荘まで押領せんとした。

佐波家と赤穴家両者の間で争いが始まった。

この争いは、数年続いたが、結局幕府の口入によって、和解し片山分は幸重に返還され落着した。 

 

<続く>

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