見出し画像

旅日記

石見の伝説と歴史の物語−153(邑智郡の寺領荘園)

44.室町期の邑智郡の寺領荘園

室町期に川本の小笠原氏による寺領の寄進があったと、島根縣史、邑智郡誌などにある。

 

日本に仏教が伝来したのは飛鳥時代のことである。

当初の仏教は国を守るための宗教として、鎮護国家の役割を担っていた。

奈良時代から平安時代には国策として仏教が取り入れられ、朝廷を中心に信仰が広まる。

 

海外伝来の知識が含まれている仏教は学術的な側面も持ち合わせていたことから、平安時代の仏教の信者は、ほとんどが貴族階級などの知識層であった。

しかし、平安時代後期からは武士が台頭しはじめ、政権が朝廷から武家へ移行すると、これまで貴族中心であった文化が武家にも浸透するようになり、仏教も同様に、これまでの知識層から武家や庶民へ広がっていったのである。

 

鎌倉時代に入ると、新興の宗派が続々と生まれてくる。

浄土宗や浄土真宗、時宗、日蓮宗、臨済宗、曹洞宗などの、いわゆる鎌倉新仏教と呼ばれる宗派が次々と誕生したのである。

いつ命を落とすともわからない時代、神仏こそが拠り所だったのである。

戦場においても、武士たちは名号(仏の名)・法号(仏門に入った者の名・法名)を記した御守りや本尊を持って戦場に行った。

これはいつ死ぬともわからない戦場で仏に守られて成仏するためであり、また神仏に加護を祈るためのものでもあった。

武将たちは仏と神祇の違いを重視してはいなかった。

両者を「神仏」とひっくるめて語って、仏と神祇の違いは彼らにとって特別意味のあるものではなかった。

とくに、戦勝祈願に有効と思ったものについては篤く信仰していた。

とにかく戦においては信仰が大事であり、どんな武将も神仏の加護を頼りにしていたようである。

 

44.1.甘南備寺領

甘南備寺は江津市桜江町坂本にある、真言宗の古刹である。

甘南備寺略縁起より

当山は、 古義真言宗宝生山甘南備寺と称し、 その開基は行 基菩薩で聖武天皇の天平18年 (746) に創設、 もとは法相宗でしたが、弘法大師巡錫のおり真言宗に改宗、 爾来法灯絶える ことなく今日に及んでいます。

御本尊は、創設の時に行基菩薩みずから刻まれた仏像ともう1体は仏師定朝の作(秘仏) と伝えられています。

昔、当山は「渡りの山(甘南備寺山)」 の山頂台地から山腹 にかけて諸伽藍の軒が建ち並んでいましたが、元亀年間に大火により焼失。 

それまで伝わっていた古文書・古什器・財宝等に至るまですべて類焼しました。

その後、堂塔が復活し、寺運も興隆に向かっていましたが、 明治5年(1872) の浜田地震により山中での飲料水が枯渇したことから、明治17年 (1884) に山ふもとの現在地に移転しました。

甘南備寺を紹介する動画がyoutubeに投稿してあったので、それを載せる。

22番甘南備寺 Discover ancient JAPAN along 33 pilgrimage paths around IWAMI GINZAN(No22 kannami-ji temple)

 

小笠原氏の甘南備寺への寺領の寄進

島根懸誌より

邑智郡川下村にある寶生山甘南備寺は有名なる古刹にして小笠原家の信仰篤く應永十六年(1409年)に至りて左の如く寺領寄進を見る、應永年中は本書記載の期間を終りたる後なれど左の寄進状に見る如く先例に任せとあれば寺領は以前より存在せしものならん。

奉寄進

石州邑智郡河本郷内甘南備之寺領事
右四ヶ村内三原、吉路原、名田、畠山山野屋敷等之事、任先例寄進申候也、於子々孫々可守此旨、仍可被致祈禱精誠候、寄進釈如件、
應永十六年九月三日
            源長宣(小笠原長教)(花押)
院主行圓御房

  ​​寄進免状之次第
石州邑智郡本郷内甘南備寺敷地はうやうの事
一、こかねの口事
一、こまこうしの事
一、くわうつしの事
一、けんたんの事
一、寺領のよそよりし​​ゝ(猪)おいこ(追越)したらんには捨へき事
一、東ハうづまき(渦巻)をかきる(限る)
  西ハ櫻井
(大貫と思われる)をかきる
  南ハ大河
(江の川)をかきる
  北ハこまさう三原をかきる、大松の曽根

此寄進狀之趣於子々孫々可被守彼旨候仍免状如件、
應永十六年九月三日
           源長宣(花押)
院主行圓御房

とあれば其範圍を知る可し、次いで應永廿一年(1414年))小笠原長義は又松原名を寄進せしこと左の如し。

奉寄進

石州邑智郡河本鄉內松原名
右彼所者爲二世安穩之願望甘南備寺所寄進也、仍祈禱可被致精誠狀如件、
應永廿一年正月十三日
           長義(花押)(川本町誌では長教の誤りとしている)

院主行圓御房

 

行圓とは甘南備寺第五世住職行圓賢賀のことである。

文章の内容はよく分からないが、この中で寄進する領地の範囲を記しているのは分かる。

さらに、島根縣史は、137年後の天文15年(1546年)にも小笠原氏が甘南備寺に寺領を寄進したことを述べている。

 

以上の寺領は時代稍下れるも天文十五年六月十七日小笠原長徳、同長雄が寺領安堵をなしたる際下したる左の坪付に於て明白なるを以て参照の爲め左に抄出す。

  坪付
河下(川下)之內
一、所坂本分錢七百文   任先證之旨檢斷不入也
同所(河下(川下))
一、所志賀之分錢五貫五百文   御役之事
  可爲先證之旨幷爐山手免之
同所(河下(川下))
一、所うすまき分銭壹貫五百文
同所(河下(川下))
一、所松原名分錢九百五十文
三原村之內
一、所吉路原名分錢五貫五百文  此内鐘衝免有之
同所(三原村)
一、所大道迫分錢五百文
同所(三原村)
一、所萩原分錢壹貫文
佐木村之內
一、所石井迫分錢五百文
同村(佐木村)
一、所鑄物屋名分錢三貫文  此内七百文救聞持堂免
都賀西地
一、所常樂寺分錢七百文   屋敷分三貫三百文に混之 

(以下略)

天文十五年六月十七日  
            彈正少弼源長德(花押)
              源朝臣 長雄(花押)
進上甘南備寺宥桓阿闍梨御房

 

宥桓阿闍梨は、甘南備寺第十一世住職で宥桓晃意のことで、宥桓晃意は第12代小笠原家当主・小笠原長隆の三男である。
寄進者の小笠原長徳(第13代)、小笠原長雄(第14代))は、それぞれ、兄と甥に当たる。

 

 

44.2.莊嚴寺領 

荘厳寺は邑智郡川本町三原に在った(現在は廃寺)、臨済宗の寺である。

「石見社寺案内」に、

「本尊延命地蔵大菩薩、往昔は天台宗なりしも、正安三年(1301年)十月三日、北条左衛門尉臨済宗に 改宗し、地方鎮護之祈願所となせり。

本尊は弘法大師の御作と伝ふ、寺宝として正広作の太刀一振、 小笠原長徳公の 寄附、其他寄進状、 下知状 免田状四通、 外に古文書を蔵す」

とある。


小笠原氏の荘厳寺への寺領の寄進

島根懸誌より

邑智郡三原村莊嚴寺は小笠原家の信仰篤き寺院なり、殊に當寺の地蔵尊は佛徳日に輝き早く已に正安三年左衛門尉時景より五段の田地を寄進せしこと左の如し、 

石見國四箇村內三原村地藏田事

合伍段者

右於田地者代々無相違國上者於當御代時景不及子細申、幷可爲佛神田良皎房之領知者也、
可被致天長地久御願圓滿殊關東御息室武家繁昌之御祈禱之忠者也、仍爲向後寄進之狀如件、

正安三年十月三日
          左衛門尉時景(花押)

次で應安五年(1372年)七月に至り祖掌を以て地藏堂住持に定めらる。 

石見國三原鄉四ヶ村內地藏堂住職事
爲由緒上者祖掌御房へ所奉候也、任先例可致御祈禱精誠狀如件、

         山城守佛度(花押)
應安五年七月一日
         

應安八年(1375年)に至り更に大般若免田八段を寄進せり、そは

石見國大家庄內四ヶ村莊嚴寺々領佐紀下白地大般若免田八段打渡寺家雑掌方申候了仍渡狀如件、

應安八年三月六日

         盛光(花押)
         經氏(花押)

然るに此佐紀下白地八段に付ては大家右馬助立歸り押妨をなせしを以て早く寺家雜掌へ引渡す可き旨を裁許せること左の如し。

石見國大家庄四ヶ村莊嚴寺住持祖掌申佐木下白地大般若經免田八段事、有先日沙汰落居處大家右馬助立歸押妨云々、 爲事實者太無謂、早止彼違亂可被沙汰付寺家雜掌方、若有子細者可被注進之由候也、仍執達如件 

康曆元年(1379年)九月十二日
           沙 彌 (花押)
           佐渡守(花押)
山田彈正左衛門尉殿
波多野藏人次郎股

以上によれば、當寺領は南北朝期末に於て田壹町三段歩の寺領を有せしことを知る。


現在、荘厳寺は廃寺となっている

 

 

甘南備寺と荘厳寺の位置

 

<続く>

<前の話>   <次の話>

名前:
コメント:

※文字化け等の原因になりますので顔文字の投稿はお控えください。

コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

 

  • Xでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

最新の画像もっと見る

最近の「物語(伝説と歴史)」カテゴリーもっと見る

最近の記事
バックナンバー
人気記事