62.戦国の石見(続き−3)
62.3.温湯城攻防の伝承
赤城と温湯城の争奪戦に際し、先ず小笠原方は村之郷方面より撤退し、井原方面の合戦に敗れて戦力弱体化に進む中、城兵は勿論のこと食糧の備蓄や生産体制に一層の力が入いる。
又、物資の輸送や温湯 赤城の間に数本の道をつけたり、 街道を中心とした集落間の小道(間道)を多くつけ、攻めるにも、守るにも都合のよいように体制を整えて長期戦に備えた。
これら小笠原氏の守備態勢を地元の領民は必死に支援した。
城兵・領民一体となって毛利に抗戦しており、それは伝承として残っている。
62.3.1.温湯城攻防戦
川本から山を超えて都賀行に行く道路(県道31号線→県道296号線)がある。
その途中の芋畑という集落の南に笠取という地名がある。
恐らく、この笠取という地名は、永禄元年(1558年)の温湯城攻防戦が由来する、と思われる。
笠取峠
永禄元年(1558年)2月2日、毛利軍は安芸新庄小倉山城主吉川元春を先発として先ず出羽二ツ山城主本庄越中守を攻め、 進んで高見城(邑南町)を攻略、続いて八色石の銭宝城を攻めてこれを降した。
その後、福屋氏、佐波氏を第一陣として温湯城周辺の城や砦を攻めたが攻防容易に決せず、同年5月元就、隆元、隆景ら七千余騎が来援し、吉川勢と合して総勢一万三千余騎を以って温湯城を囲んだ。
5月29日隆元、笠取山に陣を移し温湯城背後の穀倉地である村之郷、布施、宮内、都賀、都賀行との道を遮断して兵糧攻めを敢行した。
これによって、 小笠原氏代々の城主が造成した小笠原街道(運搬道)は機能不能に陥り、小笠原方の勢力は減退の止むなきに至った。
地元の領民は平素の恩に報いるのはこの時とばかり峻険な山嶺を伝い食料や資材の運搬に必死になって従事した。
毛利方の兵糧攻めは宮内より笠取横手経由の道も遮断したので、主として都賀行より大槇谷を経由して芋畑へ出る間道、 日平から芋畑へ出る确道を利用する間道、 畑野から会下谷を潜る間道などから、あの手この手で潜入していった。
領民は被り物(笠)の下に米を入れて運ぶので、毛利方は躍起となって 村人たちを見れば「笠を取れ」と大きな声で誰何した。
このように、城兵・領民一体となっての抗戦も水口を押さえられるなど次第に危機が迫ってきた。
その様な中でも、容易に屈しない武将や、畑野、中倉、芋畑周辺の領民達は「毛利に従うものか」と戦意は衰えなかった。
しかし、「和議色、城の内外に漲ると抗戦派は悲憤慷慨、気力抜けて山野に逃げ込む者多し」と伝えられている。
この、兵糧を策略を以て城内に持ち込む様子が「丸山伝記」に見て取れる。
広汲寺
南大門(温湯城)の外会下の段仏日山参内寺は小笠原代々菩提所なり、上総介長隆の時宝林山広汲寺と改む、
七堂伽藍なり、 金銅の十六羅漢山門にあり、然る処、毛利武略を以ってかの広汲寺を馳走す、住持極意ありて毎日大般若を繰り法儀を以って敵味方参詣催ほす、
その年も暮れに及び、明る二月、毛利武略を以ってかの広汲寺門前に遊女町を立て遊興を催す、永籠城(ながろうじゅう)故城中兵粮詰まる、
弾正武略を以って若武者大勢広汲寺へ参詣させ、あるいは遊女町思ひ思ひの遊山なり、
兼ねて日限相究め北の門の内に狼煙を上げ大旗小旗を靡かせ軍兵多勢相図の貝鐘を鳴らしエイ、エイと北の門扉を開く、
兼ねて相図なる故、かの狼煙を見て宮内・村之郷の百姓、笠取山伝ひに南門より兵を入れんとす、
敵これを入れさせじと互ひに競り合ふ処へ、若武者大勢遊山より戻り、寄手の旗色を見て北の門目掛けて集る、相残る軍勢南の門へ討って入る時、福原・大久保・和田・平田・福井・富岡・松田・熊谷・三宅・田儀・久保田・志谷・市川・三田・本田・佐々木・渡部・波多野銘々一度に討って出で、敵味方入り乱れて、白刃・長刀・棒・素鑓、兵粮持相添え、さながら兵乱市をなす、元枝、寺本・加賀・志谷跡を押し、思ひの儘に兵粮を入れければ城中静まりける。
水源を止められ、水涸れ攻撃をうけたが音を上げずに戦った、ことが伝えられている。
参内寺(美郷町村之郷)→広汲寺(川本町会下谷)→長江寺(川本町湯谷)
第3代小笠原長胤が村之郷に入部した時に菩提寺として仏月山参内寺を創建した。
その後第12代長隆が川本町会下谷に引寺して宝林山広汲寺と改名した。
そして、永禄2年(1559年)第14代長雄が毛利と和睦し甘南備寺に閉居したのち、川本湯谷の地に入部した際、長胤以下先祖の墳墓と共に引寺し長江寺と改称した。
長江寺
永正8年(1511年)京都の船岡山の戦いで功を上げた小笠原長隆は、第10代足利将軍義興から従五位下・上総介の官位を与えられ、褒美の品を拝領した。
その内の一つである「獏頭の玉枕」が菩提寺である長江寺に寺宝として現存する。
<長江寺>
<小笠原一族の墳墓>
<獏頭の玉枕>
白米城
永禄2年毛利勢に攻められ飲料が尽きたが、丘上から白米を落して敵に水とみせかけた。
毛利勢は山を堀抜いて水を涸らそうとしたので、味方は石を投じて穴口を塞ぎ、多数を生き埋めにした。
水抜け穴の遺跡も今に残っているという。
62.3.2.赤城
赤城は標高390mの山頂にあった。
城跡の中央には見張り台跡、そのほか城門石段、 空堀、水堀、 馬洗場、広い演習場跡等があり、社や角力場も置かれていた。
当時の畑野(川本町)では城造りの傍ら、集落をあげて畑地を開拓し、兵糧確保に励んでいた。
集落には里人四百五十人位と侍衆二百人位が住んでいたという。
又当地には現有の宮、一社と高源寺、そのほか阿弥陀寺床、法隆寺床の跡がある。
永禄元年(1558年)小笠原氏第14代長雄の時、毛利方の攻撃にあったが、赤城では城兵や里人が力を合わせ必死に戦った。
敵の猛攻にも屈せず、夜陰に乗じて兵糧を運んだり、間道から攻撃したりした。
特に、赤城南面の塞の神沖の攻防は激しく竪堀から石や木 を落として応戦した。
しかし、吉川軍の執拗な攻撃の前に城は落ち、城兵や里人は温湯城に撤退したり、畑野の山 野に隠れて奇襲戦を続けるなどした。
62.3.3.長雄の謹慎
小笠原長雄は温湯城を明け渡したあと恭順の意を示すため甘南備寺に退去した。
伝承に拠れば、その時の様子を次のようなものだったと云う。
「家臣達に守られながら夕闇の中に身を没する如く因原 エボシの瀬を渡り坂本の川岸に着いた。
甘南備寺では、この報に数名の僧たちが下りて来て、数足の草鞋と着替えを丁重に差し出した。
長雄は草鞋を履き替え、 着替えは家臣に受け取らせ、 ゆっくりと参道を歩み出した。
寺では招かれた席には着かず、自ら進んで仏前に礼拝する 大広間の中央に座った。
眼は半眼に閉じ、未だ武装を解かない家臣達を労わるような表情でいつまでも座り続けた」
その後、長雄は毛利軍に従い、 銀山山吹城の攻撃や福屋氏の松山城(江津市松川)攻撃にめざましい働きをした。
その功によって加増され永禄5年3月湯谷(川本町)彌山土居に入った。
しかし、長雄は毛利氏に遠慮したためか山城としての城郭は構えず、殿畑という地名の残っている場所に土居を築いた。
そのほか湯谷地域を囲む周辺の山稜に防禦施設を配置した。
長雄は永禄12年(1569年)湯谷の地で亡くなった。
その後、小笠原氏の根拠地は湯谷から北佐木、南佐木、三原、田窪へと拡大していくとともに一族の土居屋敷が、これらの地域に集中し、やがて丸山築城となっていくのである。
長雄が領主として湯谷の地には、殿畑(館跡)、三味線田(奥御殿跡)、二つ町(家中屋敷跡)、後馬場(馬場跡)、射勝原(弓・鉄砲練習場跡)などの地名がのこっている。
<「石見小笠原氏と伝承」平成13年5月10日川本町歴史研究会発行より>
温湯城が落城した日付について
実は長男が降伏した日付は、多くの資料では永禄元年(1558年)の8月であるように記述している。
しかし、「石見小笠原氏と伝承」(平成13年5月10日川本町歴史研究会発行)には、永禄2年(1558年)8月25日と記載されている。
恐らく、これは「丸山伝記」や伝承などの「三年に渡る籠城」の記述から、温湯城落城は永禄2年が適切であるとの判断だったのではないのかと思う。
したがって、この物語では、温湯城落城は永禄2年8月25日として続けていくことにしたい。
<続く>