42.足利直冬(2)
42.2.石見銀山
42.2.3.「石見国銀山旧記」(2/2)
42.2.3.1.石見銀山の古伝説
石見銀山には古くから、次のような伝説があったという。
推古天皇の28年(621年)、銀山の主峰仙の山の山頂、俄に光をはなち、霊妙仏が現れた。
人々は恐れおののき、山頂に出来た池を朝日ヶ池と尊称し崇めた。
これが『銀が隠されている』という天の啓示、銀山発見の伝説の始まりだった。
しかし、このことは「石見銀山旧記」には書かれていない。
42.2.3.2.石見銀山旧記
「石見銀山旧記」は、数多くの伝説などを基に江戸時代に書かれたものである。
石見銀山に関する既述は、推古天皇から時を経ること700年の延慶2年(1309年)から始まる。
第94代花園天皇の御代に、鎌倉幕府に不満を抱いた、周防の大内弘幸は、蒙古に援軍を頼み幕府を攻めようとした。
石見に着岸した蒙古軍をみて幕府は驚き、天皇の仲介をもって大内弘幸と和睦する。
しかし、蒙古軍側はかつての「弘安の役」の怨みも有り、それに応じようとしなかった。
困り果てた大内弘幸は大内家代々の守護神である防州氷上山に祭る北辰星(北極星)から託宣を受けた。
その託宣は、石州の仙山(銀峯山とも云う)多くの銀がある。
この銀を採って百済の軍兵に与えてなだめ帰らせよ。
ということであった。
弘幸が神のお告げにしたがって銀峯山に登ったところ、山の下から上まで白く輝き、積雪した冬山の雪を踏むかのようであった。
弘幸は多量の粋銀を得て百済の軍兵に与えたところ、蒙古は怒りを鎮め、喜んで国へ帰った。
42.2.3.3.石見銀山旧記に思うこと
石見銀山旧記をみると、「流石にこれは」と思うところや、理解できない所もあるが、伝説とはこういうものなのであろう。
1.「北条貞時が執権の時、幕府に恨みがあった周防の大内弘幸は、謀反を起こして蒙古に援軍を頼んだ。
蒙古は鎌倉幕府への昔の恨みを晴らそうと、軍兵2万騎が数千艘に分乗して石州に上陸した」
「蒙古が軍兵2万騎が数千艘に分乗して石州に上陸した」というのは、史実にないから、これは盛った話であろう。
あるいは、似たような話があったかもしれない。
ただ、その石州に上陸したのは、蒙古軍ではなく、百済の海賊たちで、数百の軍勢だったが、それを誇張したのかもしれない。
しかし、これは注意を引くための前降りと思えば、そんなに目くじらを立てる必要はないかもしれない。
しかし、この時代は「倭寇」が勢力を拡大している頃である。
防府にも倭寇の拠点があったという。
ひょっとしたら、「倭寇」を通りのいい「蒙古軍」として鎌倉幕府を脅していた可能性さえ考えさせられる。
火のないところに煙は立たぬ、の言葉どおり何らかの原因があったように思える。
一方、大内弘幸(あるいは父の大内重弘)と北条貞時(鎌倉幕府第9代執権 在職:1284年〜1301年)が対立したという記録は見当たらない。
ただし、元寇後にも薩摩沖に異国船が出現するなどの事件もあり、永仁4年(1296年)には鎮西探題を新たに設置するとともに、西国の守護を主に北条一族などで固めるなどして、西国支配と国防の強化を行なっている。
この辺りが大内氏と揉めたのであろうか。
北条貞時は執権を退任したが、実権は保っている。
しかし、幕府の内外に問題を抱え、貞時の政治は次第に精彩を欠いて情熱は失われている。
貞時は次第に政務をおろそかにして酒宴に耽ることが多くなり、御内人の平政連(中原政連)から素行の改善を願う趣旨の諫状を提出されているほどであり、晩年は乱れており、評判は悪かった。
大内氏のこと
推古朝の時代に百済の聖明王の第3子琳聖太子が日本に移住し聖徳太子より多々良姓を賜ったのに始まるとされている。
「大内氏実録」によると、
百済国の第三王子、琳聖太子は周防国、多々良の浜に上陸し、いったん難波(大阪)へ行って聖徳太子と対面し、この後再び周防へ下向し大内懸に住んだという。
このため、大内氏は多々良を名乗った。
しかし大内氏の祖を琳聖太子とする説は享徳2年(1453年)に大内教弘が朝鮮国王端宗に呈した一書の中で自称したのが最初であり、大内氏は朝鮮との交易を有利にするためにあえて百済王の子孫を仮託したものと考えられている。
2.「北条貞時と大内弘幸の抗争の和睦のため陽禄門院を弘幸の子、弘世に嫁がせた」
北条貞時の生涯は文永8年(1272年)〜応長元年(1311年)である。
一方大内弘幸は、生誕は不詳〜観応3年/正平7年(1352年)で、北条貞時と抗争したとするには、少し時代が離れすぎているように思えるが、あり得ない話ではない。
だが、大内弘幸の息子の弘世の生涯は正中2年(1325年)〜康暦2年/天授6年(1380年)であり、北条貞時が死去した後に生まれているため、この話は無理がある。
一方、陽禄門院(正親町三条 秀子)は光厳天皇の典侍であり、崇光天皇・後光厳天皇の生母であり、大内弘世に嫁いだということは、あり得ない話である。
なお陽禄門院の生涯は応長元年(1311年)〜観応3年11月28日(1353年1月12日)である。
但し、弘世の妻は三条家から来た、という説があり他の女性の名前を取り間違った、いうことも考えられる。
3.「弘幸が神のお告げにしたがって銀峯山に登ったところ、山の下から上まで白く輝き、積雪した冬山の雪を踏むかのようであった。弘幸は多量の粋銀を得て百済の軍兵に与えたところ、蒙古は怒りを鎮め、喜んで国へ帰った。」
神のお告げに関しては、内面のことであり、あれこれ云うことはないが、「弘幸が周防から東石見の銀峯山までやって来た」というのは本当か、と思わざるを得ない。
しかし、「銀山」という宝の山のことを、大っぴらにするわけにもいかず、隠密にことを運んだ、と思えば、それなりの納得はいく。
松江市殿町出身の郷土史家・石村勝郎氏は、これらに関して次のように推測している。
石村勝郎氏
松江市殿町出身で郷土史家で、石見銀山、三瓶山、出雲神話に関する著書がたくさんある。
石村勝郎氏は、この「神のお告げ」について、石村勝郎氏は著書の「石見銀山 戦国の記」のなかで、大内弘幸はこのような情報を修験者によって得たものであると推測している。
銀山旧記と同じころ書かれた「銀山之事」という文書には
石見国邇摩郡佐摩村銀山は、 役優婆塞踏分給う霊窟にして、修験の行者順道入峯、今の大峯に等しく行いける由、
古老の言伝うる所也。 三上山、 銀峯山、 葛城山、金剛山、鬼村杯と号する処顕然たり!
とある。
これは仙の山が聖地だったことを、いわんとしており、また次の地を修験の聖地としてあげている。
三上 山は三瓶山、金剛山は大田市静間町の金剛山安楽寺、鬼村は大屋町鬼村のことである。
鬼村の鬼岩では修験者が行を したところがある。
ただ葛城山になぞらえてあるのは、どこかわからないが、 三瓶野城の円城寺のことかと考えられ る。
こんなことから、三瓶山 円城寺 安楽寺→鬼村→久利村 (久利の山地の谷に磨崖仏があり、修行場だった)→清 水寺と結ぶコースは山伏の道だったと連想させられる。
こうした修験聖地だった清水寺で行をした客僧の山伏の何人かは、修験道流布のため諸国を歩き、周防の興隆寺へ 立ちよった者もいた。
仙の山に豊富な露頭銀があるという情報が、客僧によってもたらされた。
興隆寺は大内氏の氏寺であり、興隆寺の僧が石見の仙の山にすばらしい 銀鉱があることを、大内氏に知らせた。
僧が大内氏に伝 えたことから、それがいつしか託宣という形になった! と、私は考える。
4.「銀峯山は引き続き銀を産し、大いに繁栄した。隣国の有力者達がこれを奪おうと狙ったので、山吹山に城を築いて銀山を守った。」
「山吹山」に城を築いて銀山を守った、ということに関しては、鎌倉時代末期に石見銀山が発見されたあたりから山吹城の原型となる砦があったといわれており、まんざら否定もできない。
なお、山吹城の築城についての現地での説明は、次のようなものである。
この銀山は周防の大内氏の支配となるが、戦国時代に石見の国人・小笠原氏に奪われ、再び大内氏が奪還する。
この際に山吹城が防備強化されており、その時を築城として、1533年ごろ、周防の戦国大名・大内氏が築城したとされる」
42.2.3.4.足利直冬に関して
直冬が、どのように銀を掘り取っていったのか、全く文章には残されていないが、推測・想像はできる。
足利直冬が地表にある銀鉱脈を採り尽くしてしまった、という話が本当なら、直冬はこの銀山の情報を大内弘幸の子である、大内弘世から聞いたのであろう。
大内弘世は父親の弘幸からこのことを聞かされており、いつか本格的に採掘しようと考えていた。
そして、大内弘世は、足利直冬を後援すると決めたときに、軍資金の足しになればとこの銀山の話を直冬にしたと思われる。
直冬は石見の三隅に来るとすぐに、秘密裏に石見大森で銀の採掘を行わせた。
銀の採掘は、吉川経兼の手によったものと推測される。
そして採掘した銀を上京用の軍資金にしようとした。
「山吹山」に城を築いて銀山を守った、ということに関しては、
鎌倉時代末期に石見銀山が発見されたあたりから山吹城の原型となる砦があったといわれており、まんざら否定もできない。
山吹城の築城については、
「この銀山は周防の大内氏の支配となるが、戦国時代に石見の国人・小笠原氏に奪われ、再び大内氏が奪還する。この際に山吹城が防備強化されており、その時を築城として、1533年ごろ、周防の戦国大名・大内氏が築城したとされる」
と現地では説明している。
以上のことから、直冬が銀を掘り尽くしたということは、まんざら嘘ではないような気がしてくる。
42.2.3.5.吉川経兼
直冬が頼りにした石見の武将のうち、 銀山にもっとも ゆかりがあるのは吉川経兼である。
吉川には安芸の吉川と石見の吉川がある。 安芸の吉川宗家が本家で、 安芸吉川の初代は大朝本庄地頭の経高で、経高の三番目の弟経茂が、石見吉川の初代である。
この吉川氏の家系については、(36.南北朝動乱・石見編の36.2.動乱の始まり)で既述しているが、その家系図を再掲する。
<吉川家家系図>
石見吉川の本拠地は大家庄殿村(大田市温泉津町福田)に構え、その子に経任と経兼がいた。
経兼は早くから直冬に心をよせていたらしい。 少弐頼尚が九州から貞和6年(1350年)二月十日付けで「急いできてほしい」との書状がある。
また、観応3年(1352年) 二月や四月の直冬の教書では、吉川経兼は三隅城の警固に当ったり、石見各地での転戦、十二月に は安芸や長門で戦って戦功をあげている。
直冬教書に、石見銀山のことが、まるきり出てないのは、石見銀山を「隠し銀山」として、故意に文字に表さなかったためと考えられる。
秘密にすることにより、周辺の武将たちに狙われるのを避けるためで、軍資金としての銀の採掘は、石見吉川氏の手によったものと推測される。
<続く>