46.石見神楽
神楽は日本の神道で神事の際に、神様に奉納する歌舞のことである。
神楽の語源は「神座(かみくら・かむくら)」が転じて神楽となったと言われ、神座は「神の宿るところ」を意味していて、この神座に神様を降ろし、巫女が神がかりして人々と交信する場での歌舞が神楽と呼ばれるようになった。
神楽の起源は、日本最古の書物である古事記・日本書紀の「岩戸隠れの段」という神話からきているといわれている。
神楽は各地方によって様々に変化し伝承されている。
神楽の舞は大きく分けて「御神楽」と「里神楽」に分かれている。
御神楽は宮中での儀式として行われる神楽である。
一般公開はされず、大嘗祭などで行われている。
これに対して、里神楽は一般人が目にする、神社やお祭りなどで行われる神楽である。
里神楽はさらに次の4つに分類される。
1.巫女神楽(みこかぐら)
巫女の舞う神楽で、神楽の起源と言える神がかりのための舞が様式化し、祈祷や奉納のための舞として行われるようになった。
2.出雲流神楽
採物神楽(とりものかぐら)とも呼ばれ、出雲国・佐陀神社から広まった神楽である。
日本神話を劇化した舞となり、演劇性・娯楽性を高め、芸能としても見応えのあるものになっている。
その題材ごとに様々な採り物を持って舞われる。
3.伊勢流神楽
伊勢外宮の摂末社の神楽役が行ったものが各地へ広まった神楽である。
湯立神楽(ゆだてかぐら)とも呼ばれ、湯立てとは、釜で湯を沸かし、巫女や神職が自身や周囲にその湯をかけて清める儀式で、これが神楽と結びついたものとなる。
4.獅子神楽
獅子舞の一種で、獅子頭と呼ばれる獅子の頭部をご神体として、各地を周り、祈祷やお祓いを行う。
東北地方では山伏神楽、伊勢地方では太神楽と呼ばれている。
46.1.石見神楽
石見神楽は、出雲流神楽の流れで島根県西部の石見地域で演じられる神楽である。
その由来は古く、平安末期から室町時代に石見一円で、 農耕神的なものとして村々に祀られる集落の神「大元神」を信仰した田楽系の行事が原型と言われている。
往時、この神楽は神の御心を和ませるという神職によっての神事であったが、明治政府は神職の演舞を禁止した。
このため、この神事のうち舞踏や演劇的なものはもっぱら土地の百姓等が担当し、神職は神事的なもののみ担当することになった。
これが現代にも受け継がれ、民俗芸能として演舞されるようになった。
神楽は石見人の気性をそのままに、大太鼓、小太鼓、手拍子、笛を用いての囃子で演じられ、見る人を神話の世界に誘う。
そのリズムは、旧来型の六調子の他に、勇壮な八調子とよばれるテンポになるなど、改革も活発化していった。
石見神楽が全国にその名が知れ渡ったのは、昭和45年(1970年)に大阪で行なわれた日本万国博覧会のメインステージにおける石見神楽の演目「大蛇(おろち)」の上演がきっかけだった。
「大蛇」は八岐大蛇(やまたのおろち)神話を元にした演目で、それまで1頭から2頭の「大蛇」が出てくるのが一般的だったが、大きなステージで魅せるため、初めて8頭以上の「大蛇」に挑戦し、その迫力で観客を圧倒したという。
これを機に多くの「大蛇」が出てくるようになり、県内外に知られるようになったほか、個々の神楽団体での活動だけではなく、神楽団体が連携して神楽公演を行う体制づくりができたといわれている。
「大蛇」あらすじ
高天原を追われた須佐之男命(すさのおのみこと)が出雲の国 斐の川(斐伊川)にさしかかると、嘆き悲しむ老夫婦と稲田姫に出会った。
嘆き悲しむ理由を尋ねると、八岐の大蛇が毎年現れ、娘を攫うという。
既に7人の娘が攫われ、残ったこの稲田姫もやがてその大蛇に攫われてしまうと説明した。
これを聞いた須佐之男命は、一計を案じる。
種々の木の実で醸した毒酒を用意する。
この酒樽を見つけた大蛇は、これを飲み酔っ払い眠りこけてしまう。
そこで須佐之男命はこの大蛇を退治した。
そのとき、大蛇の尾から出た剣を『天の村雲の剣』(あめのむらくものつるぎ)と名づけ、天照大御神に捧げ、須佐之男命は稲田姫と結ばれる。
桜江町 川越中学校同窓会 石見神楽8
石見神楽の演目は「大蛇」を含め、 30 種類以上にのぼり、例祭への奉納はもとより、各種の祭事、祝事の場に欠かすことのできないものとなっている。
また、東京・大阪などで行われる県・市・町の同人会や、同窓会などにも演舞が披露されている。
昭和30年(1955年)11月 桜江町の神社で行われて神楽の写真
<大江山> 大貫:御嶽神社
<恵美須> 田津:諏訪神社
46.2.大元神楽
大元神楽は古くから島根県の西部に広くあった大元信仰に由来し石見神楽の原型とされている。
一種の農耕神的なものとして村々に祀られる集落の神「大元神」を祀って行う式年神楽(ところにより4年、5年、7年に一度)で、大元神楽特有の演目や石見神楽と同様な演目があり、ゆったりとした六調子で舞う。
氏子の舞だけではなく、神社の神職さん達によって舞われる神事舞が受け継がれており、この中でも「託舞」と呼ばれる神がかり託宣の古儀を伝承されている事が一般の神楽に見られない大きな特徴である。
伝統のある神楽であるが、それぞれの土地の神様に捧げられる神楽の性格上、その地を離れて演ずることは出来ない。
そのため、古くから伝わる神楽でありながら、他の地域の人にはそれ程知られていないのが現状である。
江津市では桜江町小田地区と川平町で7年に1度、桜江町市山地区では6年に1度大元神楽が行われている。
大元神とは
大元神とはそもそも大元神楽のその大元という名の拠りどころとなっている神詞は、おおむね石見の国を中心として、西は周防、長門、東は出雲の西部、南は備後、 安芸の一部にも点々と祀られている。
しかしこの多くは集落の守護神といった形をとっている。
すなわち村の産土神という形である。
産土神は、神道において、その者が生まれた土地の守護神を指す。
その者を生まれる前から死んだ後まで守護する神とされており、他所に移住しても一生を通じ守護してくれると信じられている。
産土神への信仰を産土信仰という。
ただし、その村や集落に八幡神や諏訪神や祇園神といった名の通った神社がある場合には、それがその村の氏神になり、大元神はただ神木にシメ縄を巻いただけの、いわゆる祠の形をとるに留まる。
が、他に神社がない場合には、この神になりに社殿を構え、大元神社と呼ばれるまでになっている場合も少なくない。
だからこれはどうも、いわゆる流行神勧請以前の村氏神、開拓祖神であったようである。
同じような性格のものを出雲、伯耆、備中、美作、隠岐あたりではもっばら荒神と呼んでいる。
ただ大元神の中にはその祭神名を国常立尊とする例が多いこと、また明細帖や差出帳の上ではこれは大元尊神と書いている例の少なくないことから、かの吉田神道でいう大元尊神と無縁のものではないと、思える。
国常立尊(くにのとこたちのみこと)と大元尊神(だいげんそんしん)
『古事記』において神世七代の最初の神とされ、別天津神の最後の天之常立神(あめのとこたちのかみ)の次に現れた神で、独神であり、姿を現さなかったと記される。
『日本書紀』本文では天地開闢の際に出現した最初の神としており、「純男(陽気のみを受けて生まれた神で、全く陰気を受けない純粋な男性)」の神であると記している。
他の一書においても、最初か2番目に現れた神となっている。『記紀』ともに、それ以降の具体的な説話はない。
伊勢神道では天之御中主神、豊受大神とともに根源神とし、その影響を受けている吉田神道では、国之常立神を天之御中主神と同一神とし、大元尊神(宇宙の根源の神)に位置附けた。
重要無形民俗文化財
1.邑智郡地方の大元神楽は、古くは大元舞と称して、大元神の式年祭に行なわれるもので、 神がかり託宣の古儀を伝承して来たことを貴重とされ、昭和二十七年十月二十九日、国の 無形文化財として選定された。
2.その後文化財保護法の改正によってその選定は自然消滅したため、とりあえず昭和三十六年六月十三日付で、島根県無形文化財として選定された。
3.その後昭和四十九年十二月四日付で、国の選択民俗芸能として、記録作成等の保存措置を 講ずべき無形文化財として選定され、翌五十年十一月十五日、桜江町八戸八幡宮社殿に於いて、現地公開を行なった。
4.昭和五十四年二月三日付の官報告示により、国の重要無形民俗文化財の指定を受け、同月二十四日東京虎ノ門共済会館に於いて指定証書の交付式が行なわれた。
このことによって五十四年度以降三ヶ年間、国費等の補助金により、伝承者の 養成、現地公開、記録作成及びその刊行を実施することとなった。
そのため第二年度の昨 一年三月二十一日に桜江町小田八幡宮社殿に於いて現地公開を行ない、第三年度の本年三月 二十一日、桜江町コミュニティセンターに於いて伝承者の発表会を執行することとなった。
大元神楽とは
大元神楽保存会のサイトより要約
<自然を敬う気持ちから生まれた>
桜江町には国の重要無形民俗文化財に指定されている大元神楽がある。
この神楽は、古くから島根県の西部に広くあった大元信仰に由来する。
大元信仰とは、恵みを与えて下さるカミさまへ感謝の気持ちを表し、奉ることである。特に自然と深いつながりのある農山地では、大切な神様として信仰され広まっていた。
大元神楽は、六年に一度の神楽年に田畑での収穫を終えた晩秋の頃、夜を徹して行われる。
大元神楽は、カミさまをお招きし、楽しんでいただき、そしてカミさまのおつげをいただくまでが一貫して舞われる。
カミさまから言葉をいただくという託宣の儀があるのが、一般の神楽には見られない大きな特徴である。
明治時代に入ると、神職の舞は禁じられ、神がかりも禁じられたが、桜江町などの山間地域では、目も届きにくかったため、古くから伝えられた神楽の姿は密かに受け継がれてきた。
「託宣の古儀」のある神楽は近年にはほとんど失われてしまったが、昭和五十四年になると、今度は逆に国の重要無形民俗文化財として指定を受けることになった。
<昔からの神楽のかたちが色濃く残された>
大元神楽には他の神楽にはもう見られなくなったさまざまな特徴がある。
第一の特徴は、大元神楽には、カミさまが降りてこられ、神がかりになることもある点である。
大元神楽では、現在多くの神楽で見られるような氏子の舞だけではなく、神社の神職さん達によって舞われる神事舞が受け継がれているが、このなかでも「託舞」と呼ばれている神がかり託宣の場となるわら蛇の舞が、神職舞として中核を占めるものである。
大元神楽のこの部分は、いま神がかりに至るまでの手順と方法を正確に残す数少ない神楽であるといえる。
いつでも神がかりがあるというわけではないが、舞手の気持ちがひとつになるとき、神がかりすることも確かにある。
第二の特徴は、桜江町の大元神楽が六年に一度の神楽年に行われることである。
もともと大元様は、ご先祖様を祭る祖霊神だったと考えれており、非常に多くの場所で祀られている。
同じ集落にいくつもの大元様が祀られていることもある。
これらの小さな神々を古くからの集落単位でくるんで、合同の大元祭祀が行われている。
第三の特徴は、古い舞方を伝えている点である。
幕末から明治期にかけて石見地方の西部で起こった新しい神楽の様式は従来の神楽と比べてテンポが早く、大元神楽など古い型の神楽を六調子、比較的新しい石見西部の神楽を八調子と言う。
八調子神楽の場合、この早い調子に合わせて見せる要素が強調され、衣装や小道具もきらびやかなものになり、見せるための工夫がこらされたが、大元神楽では伝統的な六調子が守られている。
大元神楽の歴史
明治になり、神社が国家の統制を受け、祭式もいわば国定と化するに及んで、大きな社からまず神楽はなくなり、あるいは離れていった。
たまたま大元神の場合は、国が認める神社にまではなっていないことが、幸いして密かに受け継がれたいったのである。
大元神を祭るものはすべて神職であった。
ところが、およそ近世の末頃から、各地の氏子がこれを習い発展した結果、石見だけでも約百団体を数えるほどまで氏子神楽の組は多くなってきた。
しかし、本式の大元神楽となると、どうしても神職の手を借りねばならない。
そこで今では、わずかに邑智とそのごく近まわりの一帯にしか見られぬ形であるが、この地域では何年に一度という本式の大元神楽となると、部内の心得のある神職が集まり、荒神祭に始まり御綱に終わる間の神事舞の役は、もっぱらこの神職の組が担当し、そのあいだに挟んで演ずる演劇風の面神楽は、それぞれの氏子の組がつくっている神楽団がつとめるということになった。
すなわち、神職の組と、氏子の組とが相提携せねば完全な大元神楽にはならないということになるのである。
一般人神楽のみでは俗にいう石見神楽としての形にはなるが、大元神楽と呼ぶ神楽にはなり得ない。
ただ、神職の組のみをもってする場合にはただその筋だけは通るし、一番肝心な大元神をまつる役だけはそれで完全に果たせる。
こうして、明治期におこった神職神楽から氏子神楽への移譲期以来、式年祭としての大元神楽は、神職による、神事舞を核として氏子神楽が添うという、珍しいあり方で保存されることに成った。
昭和54年(1979年)に「国指定重要無形民俗文化財」の指定を受け、「邑智郡大元神楽保存会(牛尾三千夫会長)」が結成された。
平成4年(1992年)に同会は「邑智郡大元神楽伝承保存会」として再発足した。
大元神楽伝承館
大元神楽伝承館は江津市桜江町の市山地域コミュニティ交流センター(旧桜江町立市山小学校の校)内にある。
<県道297号線(桜江金城線)の江尾橋付近に案内板が建っている>
江尾の大元神社
大元神社と称する神社は石見の各地にある。
「大元の神々 大元神鎮座地調査報告書」(島根県邑智郡大元神楽伝承保存会 平成6年7月30日発行)によると、現在その多くは、小さな社か、神木に注連縄をつけているだけのものである。
<邑智郡美郷町都賀本郷松尾山 松尾山八幡宮境内 大元神社>
<邑智郡川本町南佐木 南佐木の大元神社>
<邑智郡邑南町上田所 道免(みちふたぎ)の大元神>
<江津市桜江町小田 小田の大元神>
<江津市桜江町大貫 森の大元神>
江尾の大元神社
江津市桜江町江尾の大元神社は、神社の体裁を持っており、ここにに行ってみた。
桜江町江尾地区南平田山山麓、杉の木立に囲まれた高台に拝殿が建てられている。
昭和26年に建立された。
伝承大元神楽(平成14年11月発行)によると
この社は昭和24年の式年祭において、牛尾管夫氏に神懸りがあり、その託宣を受けて、市山八幡宮からの遷座が決まり、現在地に新しく鎮座願ったものである。
江尾地区52戸の氏神的な社として、氏子組織を作り、式年祭はもとより元旦祭、記念祭、秋祭り、新嘗祭を行っている。
伝承事項
昔田んぼに桟敷を作り神楽が舞われていたとの言い伝えがある。
また、大正の始め日和川沿いに会場(集会場)ができてからは、そこへ大元さんを迎え神楽が行われていた。
当時を知る人の話では、ご神体を白布で巻き、神官は白マスクをし、神々しくお迎えの儀が行われていたという。
この会場は昭和18年水害で流出した。
大元神社の入口に金属柵があった。
これは猪などの侵入を防ぐ目的で設置されている。
<続く>