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旅日記

石見の伝説と歴史の物語−130(観応の擾乱−3)

39.観応の擾乱

越智伊賀守が直義に思いもよらぬ提言をした。

「このままでは何とも仕様がない、ここは思い切って一旦吉野朝に下って、身の安全を確保してから、体勢の挽回を考えたらどうか」と。

 

39.5.直義、南朝に寝返る

直義も最初はビックリしたが、暫く考えると、「なるほど、それもそうだ」とこの提案にあっさり乗った。

 

39.5.1.南朝、直義と和睦する

 <賀名生吉野朝、旧皇居>

 

直義は賀名生(奈良県五條市)の吉野朝に特使を派遣し書状を提出した。
​​

元弘初、先朝為逆臣被遷皇居於西海、宸襟被悩候時、応勅命雖有起義兵輩、或敵被囲、或戦負屈機、空志処、慧源苟勧尊氏卿企上洛、応勅決戦、帰天下於一統皇化候事、乾臨定被残叡感候歟。

其後依義貞等讒、無罪罷成勅勘之身、君臣空隔胡越之地、一類悉残朝敵之名条歎有余処也。臣罪雖誠重、天恩不過往、負荊下被免其咎、則蒙勅免綸言、静四海之逆乱、可戴聖朝之安泰候。

此旨内内得御意、可令奏聞給候。

恐惶謹言。
  十二月九日     沙弥慧源
 進上四条大納言殿

「元弘年間の初め、先帝(後醍醐天皇)陛下は、逆臣(北条高時)により、西海(隠岐島)に遠流の身となってしまわれました。

ご苦悩の中にあられたこの時に、先帝陛下の勅命に応じて、義兵を起す者もおりましたものの、あるいは敵に囲まれ、あるいは戦に負けて気力を屈し、打倒鎌倉幕府の志も、ついに空しいものとならんか、という状態でありました。

そのような中にあって、いやしくも私(足利直義)は、尊氏卿に上洛を勧め、勅命に応じて決戦し、再び天下を、皇室のものならしめたのでした。

このことは今上天皇陛下に必ずやご記憶に留められ、喜び下さっておられることと、存じあげます。

その後、かの新田義貞の讒言により、(足利兄弟は)罪無くして勅勘を受ける身となってしまい、君(天皇)臣(足利兄弟)は、吉野と京都に別れて疎遠の度を増すばかり、わが足利一族は悉く、朝敵の汚名を受ける事になってしまい、これはどんなに嘆いてみても、嘆き切れぬ事でございます。

私の罪は、まことに重いものがあります。しかしながら、ここに伏して、御朝廷に、以下の如くお願いいたします。

私の罪はまことに重いといっても、帝のご恩で過去をお咎めにならないのなら、そして罪を深謝してその罪をお許し下さるなら、すぐにお許しのお言葉をいただき天下の大乱を鎮め、帝の世の安泰を願う所存です。

以上の旨、なにとぞ、内々に陛下のお耳にお伝えしていただきますように、ここにつつしんでお願いいたしす次第です。

十二月九日     沙彌慧源(出家後の足利直義の号)

大納言・四条隆資殿」


吉野朝では、早速諸卿が参内して、このことをどうされるべきかと協議がなされた。

直義の云うことは、今まで彼がしたことを考えると、とてもでないが信用できない。
いま、幸いにも降参することを願い出ている。

この機会に乗じてこれを処罰し、首を皇居の門前に曝すべきである

という強硬意見がでた。

しかし、最後は北畠親房が、中国の漢・楚の争いを例に出して言った。

高祖がついに天下を手中に収められたのは、外交と戦争の双方を、柔軟に駆使できたからである。陳平と張良の進言に従って、いったんは、項羽と偽りの和睦を結んだ、これが大いに功を奏したのである。

だから、ここはひとまず、足利直義の言う通りに、彼との連合を組んでおく。

そうしたら、我らの態勢は一気に挽回でき、京都を奪還することができるであろう。

帝の徳が天下に広まり兵達が皆帰服したならば、その権威はすぐに広まって、そこで逆臣らを滅ぼすことは容易いことである。

この北畠のいう通りに、一旦直義と和睦することになったのである。

  <北畠親房>

  

「足利直義赦免」の宣言が発せられた。

陛下よりのお言葉、以下のごとく伝えるものなり

故を温、新を知る者は、明哲をよくする所なり。

乱を収め、正しきに復する者は、良将の先んずる所なり。

かの元弘年間の旧功を忘れず、帝の大命に、今また従う事を決意するとは、まことにあっぱれな事、ほめてつかわす。

かくなる上は、すみやかに義兵を挙げ、天下に静謐をもたらすための策を、運(めぐら)すべし。

陛下よりのお言葉、以上の通り。ここにたしかに、申し伝えるものなり。

正平五年十二月十三日  左京権太夫正雄 奉ず

足利左兵衛督入道殿

 

「太平記」ではこのことを次の様に批評している。

是ぞ誠に君臣永不快の基、兄弟忽向背の初と覚へて、浅猿かりし世間なり。


まさにこの時をもって、その後長く続く、君主と臣下との離反、兄弟背反しての骨肉の争いが始まってしまったのであった。

いやはや、まことにあさましい世の中になったものである。

 

策略、計略、陰謀、権謀、罠等、思いを遂げるため、生き残るためには何でもするのが武将が持つべき性格の一つのようである。

直義も、南朝方も目の前の敵を倒すため、宿敵と取り敢えず手を組み、相手の力を当面の間利用しようと考えた。

もちろん、いつかは又敵となるであろうことは承知の上のことである。

命をかけて戦う武将の多くは極めてリアリストである。

 

39.5.2.三河南朝説

余談ではあるが、吉野南朝は賀名生(奈良県五條市)ではなく、三河に移ったという説がある。

三河吉野朝は、南北朝時代に南朝第96代後醍醐天皇から後村上天皇、長慶天皇、後亀山天皇にいたる57年間の都が大和吉野朝のみでなく、三河国(愛知県東三河地方)にもあったとする説である。
(当然ながら、三河吉野朝は、日本の正式な歴史としては認められてはいない)

三河吉野朝の建都計画は、延元4年(1339年)8月15日、後醍醐天皇崩御後、義良親王が大和吉野朝で践祚すると、南朝の宮廷は、京都の武家方に対抗しうる新たな国都を建設するという決意を込め、翌延元5年(1340年)4月28日、「興国」と改元し、三州宝飯郡御津府(愛知県豊川市御津町)に新都建設を決した。

三河吉野朝の新都を定めるに当たって、南朝宮廷(北畠親房)は、卜占の結果、熊野本宮と伊勢神宮との串呂線上に、廟社神明宮(蒲郡市大塚町)、後醍醐天皇副陵・天皇山(蒲郡市相良町)を建立し、その串呂東方にある三州宝飯郡御津府(現・愛知県豊川市御津町御馬長床)に新都を建設することとした。

山口保吉の『三河吉野朝の研究』(山口究宗堂、1940年)にその経緯が示されている。
(山口 保吉は、愛知県豊川市御津町生まれの郷土学者)

御所を現在の愛知県豊川市御津町御馬長床に建立したとある。

また御所守護神として、伏見稲荷、日吉山王宮、神明社、蔵王権現、愛宕社、上賀茂社、下鴨社などを建立した。

 

さて、南朝の後ろ盾を得た、足利直義は勢力を盛り返し、尊氏、高師直・師泰兄弟を追い詰めていくのである

 

<続く>

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