26.3. 朝廷と鎌倉幕府
朝廷
博多の総司令官、小貳景資が元軍来襲を伝える飛脚を京都に送ったのは10月9日前後である。
その急報が京都に届いたのは、10月18日といわれている。
大宰府と鎌倉間の飛脚は早くても12日半掛かったというから、鎌倉に届いたのは、22、23日頃であると思われる。
ただ、その頃には、元軍は既に撤退していた。
当時元帝国はその強さと残忍さで世界から恐れられていた。
当然日本にもその情報は届いていた。
京都の公卿達は、不安や恐怖心や大混乱していたであろうと思われる。
元軍が博多に上陸したとの報が京都に届いたのは10月28日である。鎌倉に届いたのは11月3、4日頃と思われる。
亀山天皇は、11月2日に御書を楯列(奈良市山陵)、山階(京都市山科)、大内(京都市右京区)、圓宗寺(京都市右京区)、大原(京都市左京区)、金原(長岡京市)、淨金剛院法華堂(京都市右京区)の八箇所の御陵に献じて、外敵退散の御祈りをした。
そして、元軍が撤退したとの報は京都に11月6日に届いた。
鎌倉幕府
鎌倉幕府は、対馬への元軍来襲の報を得ても、切羽詰まった様子がない。
『勘仲記』(10月29日条)によると、幕府では対馬での元軍が「興盛」である知らせを受けて、鎌倉から北条時定や北条時輔などを総司令官として元軍討伐に派遣するか議論があり、議論が未だ決していないという幕府の対応の伝聞を載せている。
漸く時宗は元軍の本州上陸に備えて中国・九州の守護に対して国中の地頭・御家人ならびに本所・領家一円(公家や寺社の支配する荘園等)の住人で幕府と直接の御恩奉公関係にない武士階層(非御家人)を率いて、防御体制の構築を命じる動員令を発した。
1)11月1日付けで、安芸守武田五郎次郎に安芸の防御を命じる。
『東寺百合文書』
蒙古人襲来対馬壱岐、既致合戦之由、覚恵(少弐資能)所注申也、早来廿日以前、下向安芸、彼凶徒寄来者、相催国中地頭御家人并本所領家一円地之住人等、可令禦戦、更不可有緩怠之状、依仰執達如件、文永十一年十一月一日 武蔵守在判 相模守在判 武田五郎次郎殿」
蒙古人が、対馬・壱岐に押し寄せて、既に合戦が始まっていると少弐資能から知らせがきた。11月20日までに安芸に下向して、万一凶徒が寄せてきたら、国中の御家人、住人等で防御せよ。
2)11月3日付けで諸将に対して石見国で防御する命令を下す。
『長府毛利家文書』
関東御教書「蒙古人襲来対馬壱岐、既致合戦之由、覚恵(少弐資能)注申之間、所被差遣御家人等也、早来廿日以前、下向石見国所領、彼凶徒寄来者、随守護人之催促、可令禦戦、更不可有緩怠之状、依仰執達如件、文永十一年十一月三日 武蔵守(北条長時)在判 相模守(北条時宗)在判」
3)また、鎮西奉行の大友頼泰に対して、九州の住人等は幕府の御家人であろうとなかろうと、軍功のあるものは、全て褒美を与える旨を遍く通知せよと命じた。
北条時宗の算段
蒙古来襲の報が届いても、鎌倉の時宗には追い込まれた様子が見えない。
ひょっとしたら、時宗は日本軍の勝利を信じていたのであろうか?
ただ時宗は、対馬襲来の報を受けたとき、不安が心を過ぎったこともあった。
それは、壱岐・対馬を攻撃の拠点にされて、九州本土を攻撃されることである。
そうなると、ちょっと厄介なことになるかもしれない、という不安である。
ただ、壱岐対馬に大軍を常駐させることは無理であることは分かっていたから、その不安は打ち消した。
元の船団はその数、5百隻以上との報告を受けた。
元の船団は10月3日に合浦を出発したが、900隻がすべて出港するには早くても半日以上かかる。また数団に別れて航行するために船団の総数を正確につかめることは出来ない。
そのため、対馬からの伝令は、船団の数を少なめに報告したのではないかと思われる。
時宗は、敵の兵力を計算する。
仮に700隻として、1隻に50人乗り組むとすると、35000人がやってくる。
この内兵士は、半分の18000人となる。もし1000隻やって来たらならば25000人か。
追い払えない数ではない、と思った。
しかし、これだけ船団の数が多いと、数団に別れ長門や石見に襲来して来ることも考えられるので、その地域の防衛強化もする必要がある。
また、関門海峡から瀬戸内海に入ってくる可能性もあるので、安芸での防衛強化も必要になりそうだ。
時宗は、鎌倉武士の戦闘能力の高さ、気合を信じていた。
いざというときには、闇に紛れて停泊中の元船を焼いてしまえばいい、と思った。
(この作戦は次の弘安の役で実行される)
時宗は自分に言い聞かせた「必ず勝てる」と。
26.4. 八幡愚童訓
八幡愚童訓は、鎌倉時代中期・後期に成立したとされている八幡神の霊験・神徳を説いた寺社縁起である。
著者は不明であるが、石清水八幡宮の社僧・祠官の作と考えられている。
文永の役における本土の戦いは、たった一日のみの戦いであったために戦況の詳細を伝える史料は非常に少なく、不明な点が非常に多い。
この本は、文永の役を詳述した数少ない日本側の文書であるため、学界でも長らく活用されていた。
しかし、八幡愚童訓は実録では無く、蒙古襲来絵詞、福田文書などの第一級史料と多くの矛盾があり、近年史料としての価値には問題があるといわれるようになった。
なお、文永の役は大風で勝利したという戦後の常識は、この「八幡愚童訓」における記述がベースになっているといわれているが、この八幡愚童訓にはそのような記述がない。
八幡愚童訓は基本的には八幡神の大活躍と霊験あらたかさを宣伝するための文書であり、そのために鎌倉武士の無能さや損害を不自然なまでに強調している。
八幡愚童訓によれば、日本の武士はモンゴル軍に対して完敗を喫したとされている。
文永の役では武士たちは戦いのしきたり通り、敵に向かって名乗りを上げながら一騎ずつ進み出て一騎打ちをしようとしたが、モンゴル兵に爆笑され打ち負かされたという。
武力も尽き果て、日本側はもう終わりかと思われたが、夜間に筥崎八幡宮から現れた30人ばかりの白衣の者が蒙古軍の船団に向けて矢を放った。
これで大混乱に陥った蒙古軍は、炎上する筥崎の街の火が海に映るのを見て「海が燃えている」と驚き、我先に逃げ出したため、翌朝には大船団は一隻残らず消えていたという。
このように、超自然的な内容だけでなく地理的にも不正確な記述が多く、これは元寇における八幡神の活躍を宣伝した布教用文書とみられている。
また「八幡愚童訓」には写本が多数あり、内容も各本で異同がある。
<weblio辞書より>
元寇に関する九州での御家人に関する記述についての異同事例を述べる。
菊大路本(鎌倉時代末期)
「九国ニハ少弐・大友ヲ始トシテ、菊池・原田・松浦・小玉党以下、神社仏寺ノ司マデ、我モゝゝト馳集ル。大将ト覚敷(おぼしき)者ダニモ十万二千余騎、都合ノ数ハ何千万騎ト云事ヲ不知。」
東大寺上生院本(文明12年)
「九國ニハ、少貳・多友、紀伊ノ一族・ウスキ・ヘツキ・松浦黨・菊池・原田・兒玉黨已下、神社佛寺之司マテ、我モゝゝト馳集リキ、十万二千余騎ト云フ、都合ノ數ハ、イクラ、何千万騎ト云事ヲ不知、」
文明本(『八幡大菩薩愚童記 下』 愛媛県八幡浜市八幡神社蔵本、文明15年)
「九国ニハ少弐大友(トモ)ヲ始トシテウスキ(臼杵)戸次松浦党菊池原田小玉党以下神社仏寺ノ司マテ我モゝゝト馳集マル。大将トヲホシキ者タニ 十万ニ千余騎都合数ハ何千万騎ト云事ヲ不知。」
筑紫本(『八幡大菩薩愚童訓』福岡県箱崎八幡筑紫家蔵 室町時代中期ないし初期?)
「九國ニ馳集軍丘(ママ)誰々ソ少貳大友菊池原田紀伊一類臼木戸次松浦黨兒玉黨以下神社佛寺之司及モ我モ々ト打立ケル大将軍一万二千余騎都合其勢十万騎ト云ヘ共[米+攵]ヲ不知」
橘守部旧蔵『八幡蒙古ノ記』
「此九國にては、かねて攻来へしと思ひし事なりけれは、来ぬときより、馳参る軍兵は、太宰小貳、大友、紀伊一類、臼杵、戸澤、松浦黨、菊池、原田、大矢野、兒玉、竹崎已下、神社佛寺の司等に至まて、我もゝゝと、はせあつまりたれは、たとひ異敵十萬に及ふとも、何ほとの事かあらんとて、いさましく見えにけり」とあり、「十万」云々は武士勢のことではなく来襲してくるであろう蒙古勢のことになっている。
次の画像は『群書類従』(塙保己一が編纂した国学・国史を主とする一大叢書)に収録されている「八幡愚童訓」での九州での御家人に関する記述の一部である。
塙保己一(延享3年5月5日(1746年6月23日) - 文政4年9月12日(1821年10月7日))
<続く>