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旅日記

石見の伝説と歴史の物語−62(元寇−3 文永の役)

 

26.2. 文永の役

フビライは、文永10年・至元10年(1273年)4月に日本に派遣した6回目の使者も返書を持ち帰らないことが分かると、日本侵略の準備を始める。

文永11年(1274年)1月、フビライは高麗に対して日本遠征するため造船命令をだした。

高麗はそのための人夫3万5千人と食糧、材料の木材を出すことになり大変な出費となった。

僅か10ヶ月の間に大型船300艘、中型船300艘、給水用の小型船300艘、あわせて900艘の船を造るのは大変なことだった。
そこで高麗は、船は頑丈な中国式ではなく、簡単な高麗式で造ったという。


文永11年6月、戦艦300隻を含む軍船大小合わせて900隻が出来上がり、8月に日本侵攻軍の総司令官になる、クドゥンが高麗に着任した。

文永11年10月3日、元・高麗軍は水夫を含む4万人の兵士を乗せて、朝鮮半島の合浦(現在の韓国昌原市)を出港し日本へ向かった。

 

  

10月5日

元軍は対馬に襲来し対馬勢を破って、島内の民衆を殺戮、あるいは捕虜とした。

10月9日頃

蒙古来襲の報は、博多の総司令官、小貳景資のもとに届いた。
驚いた景資は京都へ飛脚を送るとともに、九州の御家人へ向けて早馬を出し、博多に集結するよう連絡した。

この時点で博多には、異國警固番役のみで、兵は1,000騎前後しか居なかった。

10月14日

元軍は壱岐に上陸した。壱岐は対馬と同様の惨状となった。

日蓮宗の宗祖日蓮はこのときの惨状について、次のような伝聞を伝えている。
去文永十一年(太歳甲戌)十月ニ、蒙古国ヨリ筑紫ニ寄セテ有シニ、対馬ノ者、カタメテ有シ総馬尉等逃ケレハ、百姓等ハ男ヲハ或八殺シ、或ハ生取ニシ、女ヲハ或ハ取集テ、手ヲトヲシテ船ニ結付或ハ生取ニス、一人モ助カル者ナシ、壱岐ニヨセテモ又如是。
【島内の民衆を殺戮、あるいは捕虜とし、女性の「手ヲトヲシテ」つまり手の平に穴を穿ち、これを貫き通して船壁に並べ立て、あるいは捕虜とした】

 

矢田一嘯(安政5年12月19日(1859年1月22日) - 大正2年(1913年)4月22日)は明治時代に活躍した洋画家)による蒙古来襲図。福岡県うきは市本仏寺所蔵(矢田一嘯による油絵14枚)
<対馬に上陸した元軍の様子>


10月16、17日、

元軍は肥前沿岸の松浦郡および平戸島・鷹島・能古島の松浦党の領地に襲来した。肥前沿岸の惨状は壱岐や対馬のようであったという。

10月19日

朝、元軍は博多湾にせまった。日本軍は約5,000騎(ただし徒歩の従士を含めると、この5〜8倍の人数になる)まで増えていた。

元軍は夜中から上陸を開始する。上陸地点は百道、箱崎、今津の3箇所である。

10月20日

合戦は午前8時ごろから日没まで続いた。

日本軍がまずめんくらったのは、蒙古軍の集団戦術であり、毒を塗った強力な短弓および「てつはう 」(鉄火砲とよばれる手榴弾にあたる炸裂弾)であった。日本軍はこの戦闘法の相違や新兵器に、戸惑うが、盛り返す。

日本軍の司令官は鎮西西方奉行の少弐資能で、その子供少弐景資が総大将を務めた。
そのほか日本軍には蒙古襲来絵詞で有名な御家人の竹崎季長、御家人の菊池武房、白石通泰などがいた。

 

(戦況についてはさまざまな説があるが、元軍本体の動向はだいたい次のようである)

博多の西にある早良郡の百道原に上陸し、麁原山(そはらやま)を占領して、そこに本陣を置いた。
そして、その東にある赤坂山を占領する。現在の福岡城の位置である。ここは古くから警護所がおかれていた防衛拠点である。刀伊の入寇のときも赤坂の警護所をめぐって戦闘が行われた。

元軍の狙いは太宰府の占領である。

日本軍の本隊は博多で待機して、そこで戦おうとしていた。
しかし西の赤坂近くに陣を敷いていた菊池武房の軍勢100騎が赤坂の松林の中に陣を敷いた元軍を攻撃して、上陸地点の近くの麁原山へと敗走させた。
「蒙古襲来絵詞」に先駆けをしようとして移動中の竹崎季長と、勝利して帰還中の菊池武房と遭遇したことが、書いてある。

麁原山に向かって敗走中の元軍に対して竹崎季長は、僅か5人で、鳥飼汐干潟あたりで部下の止めるのも聞かずに敵に突入した。
この突入の時に、竹崎季長が乗っている馬に元軍の放った矢が当たったり、季長は負傷する。
この場面も「蒙古襲来絵詞」に書かれており有名なシーンである。
その時に白石通泰率いる100騎が到着して元軍に突入したため、元軍は麁原山の陣地へと退いた。

やがて日本軍の本隊も到着して麁原山と赤坂山の中間にある鳥飼汐干潟で激戦が繰り広げられた。
日本軍が総力を挙げたこの戦いで元軍を押し戻す。

元軍は百道原まで後退した。

日本軍はさらに追撃して百道原の戦いで少弐景資の部下の放った矢が元軍の副司令官劉復亨に命中し負傷させた。

百道原のさらに西にある姪浜でも日本軍は元軍を破った。

その夜、蒙古軍はみな軍船に引き揚げた。

10月21日

朝になると、元軍は博多湾から撤退し姿を消していた。

 

10月21日「朝になったら敵船も敵兵もきれいさっぱり見当たらなくなったので驚いた」というような記述が残っている。
つまり、日帰りツワーのように1日だけ九州博多に上陸し、そこらじゅうを荒らし回って引き上げたのである。

 

元軍の撤退

暴風雨(いわゆる神風)により元軍船は壊滅状態に陥ったと言われていたが、最近の研究では、文永の役は元軍の敵情視察と威嚇攻撃に過ぎず、もともと数日で撤退する計画だったと考えられているという。

だが、いかにもこれは考えにくい。
せっかく、1000隻近い船を建造して、荒海を越えてやって来て、たった1日だけ戦闘し、目的は達成したので引き上げるというのは、「元軍は負けていない」と言うためのこじつけであろう。

元軍は、割と気楽にやって来たのではないだろうか。
戦力差を見せつけて、日本軍が恐れて降伏すればそれで良いし、長期戦を戦う気はなかったのではないかと思われる。

ところが、日本軍は降伏するどころか、果敢に戦いを挑んできた。それに意外と強い。

そして元の大軍に、数百機で戦いを挑んでくる、日本の武士達に気味悪さを感じるようになった。

慣れない船旅で船酔いをし体調を崩して、満足に戦うことも出来ない兵士も沢山いる。
また多くの食料などの日常消耗品は現地調達するつもりだったが、これができそうもない。

これは話が違うと感じ始めた。すると色々、不安が湧き上がってくる。

戦闘を継続する意思が急激に衰退していった。


このままでは、持たないと思ったのか、元軍は夕方になると全員船に引き上げた。

副司令官劉復亨が負傷などがあり戦意も落ちており、戦況が思わしくないこともあり、司令官達は、相談し撤退を決めた。

冬の玄界灘は強い北風が吹き続けることが多く、朝鮮方面に戻るのは何十日も南風を待つことがあるらしい。
このことは、当然元軍も知っていた。
だから、一旦日本に来ると数ヶ月の滞在は覚悟の上であり、数日で撤退する計画などはありえないのである。
太宰府を占領し、そこを拠点としようとしていたのである。

ちょうど南風が吹き出した。

元軍は、これぞとばかりに引き上げたのだろう。

しかし、そううまくいかなかった。この南風は長くは続かなかったようである。

「高麗史」には夜半に大暴風雨があったこと、多くの船が海岸のがけや岩にあたって傷んだことが書かれているという。

元軍船団が帰る途中に南風は暴風雨を伴う北風に変わり、大打撃を受けたようである。

難をのがれた者は、1ヵ月以上もかかって11月27日、高麗の浦に帰着したという。九州における元軍敗退が京都へ伝えられたのは、11月6日 のことであった。

 

神風

文永の役において元軍は神風で壊滅し日本側が勝利したという言説が流布する。

元軍を撃退できた要因は折伏・祈祷による神力・神風であると神社等は宣伝し、幕府に対して激しく恩賞を求めたという。

 

 

蒙古襲来絵詞

「蒙古襲来絵詞」は鎌倉時代の肥後国御家人竹崎季長が作成したもので、文永・弘安の役の様子が絵と詞書に克明に記録されている。宮内庁所蔵、国宝。

「竹崎季長」

生年:寛元4(1246年)、没年不詳

肥後国(熊本県)の竹崎郷の領主として文永の役に従軍した。
季長は止めるのも聞かず先駆けの功を果たしたが、危うく蒙古軍の手に掛かるところを命拾いする。

季長は恩賞を求めて、建治元年(1275年)6月に馬などを処分して旅費を調達し、鎌倉へ上った。
同年8月に恩賞奉行である安達泰盛と面会して、直訴する。

この結果、肥後国海東郷の地頭に任じられた。

泰盛は季長を「奇異の強者」と述べたという。
その後弘安の役でも菊池武房らと共に合戦に加わり、敵船に乗り込んでの活躍をして分捕りの功をあげる。

『蒙古襲来絵詞』は季長の戦いぶりと恩賞を求めた様を描いたもので、恩賞のために力を尽くしてくれた安達泰盛を記念して作成されたという。

<竹崎季長と、菊池武房の遭遇>

<三井資長「肥後国竹崎五郎兵衛尉季長」、蒙古兵を撃退する>

<馬を射られて苦戦する竹崎季長「肥後国竹崎五郎兵衛尉季長」>

 

<続く>

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