36.南北朝動乱・石見編
36.2.動乱のはじまり
中世の美濃郡(現益田市)は、おおよそ益田荘(凡そ益田川以東)と長野荘(凡そ高津川下流周辺)という2つの荘園によって構成されていた。
そこでは益田氏、高津氏・乙吉氏・内田氏・俣賀氏などの武士たちがそれぞれ領主として各地域を支配し、連携と抗争を繰り広げていた。
<益田市誌より>
<高津城、神主城、一本松城、来原郷、宇屋賀浜、波佐谷、他関係城の凡その位置図>
36.2.1. 高津城
正慶2年/元弘3年(1333年)3月高津長幸は、後醍醐天皇の綸旨に応じ、長門探題北条時直討伐軍を率いて戦功を上げた。
この功績により建武元年(1334年)2月、高津長幸は従五位播磨権守に叙せられ、「播磨権守」に任じられた。
その後、高津城(益田市高津町)を築き居城とした。
石見の西部に当たる美濃郡長野荘の美濃地一帯に於ける地頭の争いから端を発し、建武2年(1335年)正月、高津長幸は益田弥二郎兼広と安芸の吉川経秋(経明とも)の連合軍に囲まれ、高津城 に立て籠っていた。
美濃郡長野荘は高津川を挟んで高津、飯田、安富、豊田、白上、美濃地、黒谷の七郷よりなる土地で、附近には那賀郡の周布兼茂や福屋孫太郎らの飛び領があり、その下流の川口の高津郷は高津長幸の所領であった。
この長野荘内の地頭は、高津の長幸、豊田の内田兼成、美濃地と黒谷の波多野孫三郎は宮方党であり、長野荘惣政所の虫追左衛門尉政国と、白上地頭の金子清忠らは武家方党であった。
こうした荘内の領地争いから紛争が拡大し、武家方党を助けて益田兼広と吉川経秋の連合軍が高津長幸を攻めたのである。
石見宮方の中心で那賀郡三隅郷に本拠地を持つ三隅兼連は、高津の援護をしようとした。
しかし、そんなとき三隅兼連は朝廷より「尊氏叛乱」の檄文を受けたので、兼連は戦さを止めて石見軍と共に京に向かったのである。
高津長幸は孤立無援におかれて苦戦に陥った。
高津長幸は遂に城を放棄して城兵を四散させ、自分も命一つで抜け出した。
建武2年(1335年)正月13日のことであった。
城を抜け出した長幸は三隅兼連の三隅城に逃げ落ちた。
これが口火となって、やがて南北朝における石見の騒乱へ移行していくのである。
逃げ落ちた高津長幸は、その後宮方軍の支援を受けて復活し、高津城で勢いを取り戻している。
この時期は、はっきりしないが、恐らく数ヶ月後には戻ったと思われる。
というのも、
翌年の建武3年(1336年)5月10日、上野頼兼の横山城侵略の報を知った高津長幸は、三隅兼連の嫡男・兼雄、波多野彦六郎、難波中務入道、周布兼茂、内田兼家らと呼応し、高津を出発、白上(高津川の支流白上川沿い)を経て黒谷に向かった。
そしてその日の10日から11日の2日間、頼兼の旗下にあった吉川経秋らの軍と山の手において激戦に及んだ。
と「吉川家什書」に記録されているからである。
高津長幸はその後、宮方軍として石見各地を転戦する。
高津城落城
暦応4年/興国2年(1341年)2月18日、高津城は上野頼兼らに攻められ落城する。
高津長幸は城を脱出し、一時行方をくらましていたが、12年後(1353年)北九州に走り、阿蘇・菊池両氏の間に往来して、戦陣の間を馳駆して居たことが知られている。
長幸は最終的には再び石見の国に帰ることはできなかったが、最後まで戦いをし続けた武将である。
落城して340年後の1681年(天和元年)に津和野藩主亀井茲親が、高津城跡地に柿本神社を高津松崎から移築した。
これが、現在の「高津柿本神社」である。
36.2.2. 吉川家について
高津長幸を攻めた、吉川経秋は安芸吉川氏である。
吉川家はこの後の話にも出てくるので、少し詳しく見ていきたい。
吉川家の祖は吉川経義である。
経義は寿永2年(1183年)に源頼朝から駿河国吉河荘(現在の静岡市清水区)を得た際に吉川氏を名乗るようになる。
4代目の経光は「承久の乱(1221年)」に北条氏に属して上洛軍に加わり、宇治橋の戦いにおける勲功により、安芸国大朝本庄の地頭職に補任された。
正和2年(1313年)5代経高の時に、駿河吉河村から安芸の大朝本庄へ移住していった。
経高には四人の弟がいた。
長弟経盛は播磨国福井庄の地頭職となって播磨吉川氏の祖となった。
二弟経茂は大朝庄内鳴滝村の地頭職となり、のちに石見国邇摩郡津淵郷(大田市温泉津町井尻周辺)地頭職を得て石見吉川氏の祖となった。
三弟経信は大朝本庄内の境・田原・竹原の地頭職となった。
駿河国吉河村は末弟の経時が残って、駿河吉香の相続者になった。
吉川氏惣領家は経高が隠居したため経盛が継承した。
吉川家の南北朝
建武の新政後の吉川一族の様相は少し込み入っている。
経盛は建武2年(1335年)後醍醐天皇に叛旗を翻した足利尊氏に味方して、一族とともに各地に転戦する。
しかし、経盛の従兄弟である吉川経兼・経見父子は南朝方に帰順し、また観応の擾乱では足利直義方に味方して、足利尊氏方の経盛には従わなかった。
経長も南朝方に参加し、その子実経も新田義貞の御教書を奉じて、九州へと敗走した足利尊氏方の残党討伐に参加している。
経盛は一族の身勝手な行動に憂慮し、貞和6年/正平5年(1350年)に嫡子の経秋に家督を譲った。
惣領家を継いだ経秋は男子に恵まれなかったため、経見を娘の婿に迎えて家督を相続させた。
経見は、自領に加えて惣領家の領地を併せたことで、吉川氏の支配領域は拡大され、その基礎も確立されることになった。
戦国時代以降
年を経て戦国時代、毛利元就の子元春が吉川家を継ぐ。
吉川元春は主に山陰方面の軍事を担当して父親の毛利元就を支えた。
毛利家は中国地方の覇者となるが、豊臣秀吉に下り参加となる。
その後毛利家は関ヶ原の戦いで破れ、防長の二カ国に追いやられる。
しかし、吉川家は徳川家康と誼を通じていたため、吉川家は岩国藩主として続くことになる。
36.2.3. 田村盛泰
同じ年(建武2年)の2月、周布家の一族である田村盛泰 (那賀郡来原郷)は総本家益田氏とともに武家方に党したので、本家の周布兼宗らは来原郷(浜田市金城町)を急襲して盛泰を追放してしまった。
当時那賀郡は三隅、 周布、福屋の益田分家三氏によって大半領有されていたので盛泰の叛乱を許せなかったのであろう。
「田村四郎盛泰ハ(周布)兼定弟(周布)兼政ニ四代孫 也」と「萩藩閥閲録」にあることから、田村盛泰は周布家から田村家に養子に行ったと思われる。
なお、石見田村氏は鎌倉初期に来原別府地頭として東国から入部してきた御家人と考えられている。
田村氏は、ここで周布氏と姻戚関係をもち勢力を張った。
「那賀郡誌」に田村四郎盛泰に関して
二月より来原に合戦ありしが五月十一日上野方田村四郎盛泰等宇屋賀濱に来り戦へり。
八月二十五日波佐谷合戦ありき。
との記述があるが、詳細は記していないので推測するしかない。
田村盛泰は、前述の宇屋賀浜の戦い、波佐谷の戦いで軍功を挙げたが、まだ領地回復までには至らなかった。
・「上野」とは足利尊氏が石見の宮方党の討伐に差し向けた上野頼兼のことである。
しかし、この時点では上野頼兼はようやく防府から美濃郡に到着したころであり、ここ那賀郡にはいなかった。
・「宇屋賀濱」とは現在の敬川浜のことであり、この地域は昔「宇屋川村」と呼ばれていた。
明治22年(1889年)の町村制施行により、波子村と合併して川波村となり、昭和27年(1952年)に周りの町村と合併して江津市となる。
恐らく、津野氏の神主城(江津市二宮町神主)の攻防戦がこの浜まで展開されたものと思われる。
・「波佐谷」は浜田市金城町波佐にある。
この戦いは波佐の一本松城を巡る戦いで、波佐の馬場町内が戦場になったといわれている。
このときの城主は小笠原大学公光で、宮方として武家方に抗していた。
小笠原公光は、小笠原長光の子で、長光は石見小笠原氏初代の長親の子である。
田村盛泰は、これより暦応4年/興国2年(1341年)8月の雲月峠(広島県と島根県の県境:山県郡北広島町土橋)の戦で、一時宮方が壊滅して旧領が回復するまで、五ケ年間放浪しながら、益田氏や小笠原氏の支援をうけて戦っている。
36.2.4. 足利尊氏の石見征討軍
足利尊氏が再挙して九州から東上する折り、上野前司頼兼を石見守護に命じ、石見の宮方党の討伐に差し向けた。
この討伐軍は、上野頼兼を大将、 田村盛泰を副将として、長門守護の厚東武実と周防の平子親重や永富季有、 安芸の守護武田信義などの周防、長門、安芸の三国軍を援軍として率いていた。
尊氏が上野頼兼を石見守護に命じ防・長・芸の三国軍を石見征伐に差し向けたのは、石見の宮方党の勢力は強く、これらの精力を背後に残して、京都へ攻め上るのは危険であったからである。
同じ山陰でも出雲国では、武家方の勢力が強かった。
これを味方に引き入れることが出来たならば、 安芸・出雲に散在する宮方も押えることが出来ると計算したからである。
石見討伐軍は周防から石見に入った。
以後、宮方と武家方の攻防戦が各地で勃発し、戦線が拡大していく。
<続く>