30.3.元弘の乱
30.3.7.後醍醐帝の隠岐行在所(続き2)
30.3.7.2.国の史跡と県の史跡指定
隠岐国分寺跡が国指定であるのに対して、隠岐西ノ島黒木御所跡は県指定となっている。
昭和9年(1934年)に国は、国分寺と黒木御所を史跡に指定した。
しかし、昭和32年(1957年)黒木御所は国の遺跡指定を外された。
その後島根県は、後醍醐帝にまつわる伝承は、この地にしか残っていないことから、黒木御所跡を後醍醐帝行在所として、昭和38年(1963年)8月に県の指定史跡とした。
現在は島根観光ナビで「黒木御所」をPRしているせいか、西ノ島の黒木御所のほうが有名のようである。
皇族方が隠岐を訪問された時は、両方に参拝されるようである。
後醍醐帝の行在所の記錄について
ところで、不思議なのは、天下人であった、後醍醐帝が1年間過ごした場所の記錄が見当たらないことである。
変わらぬ毎日が只々過ぎていくだけであれば、なんら記錄する必要もない、それほど鄙びた所で、時間が止まったような場所であったのかもしれない。
しかし、まるっきり何の記錄もないというのは想像し難い。
ひょっとしたら、隠岐国分寺にこれらに関する記録があったかもしれない。
この国分寺は明治2年(1869年)廃仏毀釈騒動によって、本堂・三重塔が焼失して廃寺になっている。
このとき、様々な史料が失われている。
この焼失した中に、後醍醐帝に関する資料があったかもしれない。
例えば、前述したように「元弘2年8月19日、鰐淵寺の頼源大師が伺候、宸筆の願文を賜る」とか。
なお、この国分寺はその後
昭和25年(1950年)本堂が再建
平成19年(2007年)2月25日、本堂が焼失
平成26年(2014年)本堂再建
という経過をたどっている。
30.3.7.3.黒木御所
島根県が「黒木御所」を県指定史跡としたことに興味が湧いてくる。
「島根懸史」は大正十年に発行されている。
島根県の史跡の指定は県の教育委員会が行う。
教育委員会は当然、「島根懸史」に国分寺が後醍醐帝の行在所であると断定した、記述があることを承知しているはずである。
それなのに、何故「黒木御所」を後醍醐帝の行在所であると、国に逆らうように県の指定史跡としたのか?
県指定した理由として、「後醍醐帝にまつわる伝承は、この地にしか残っていない」ことを挙げている。
確認できる後醍醐帝にまつわる伝承が文字にされたのは、前述したように、江戸時代である。
しかし、文字起こしされるまでは、口承されていたにちがいない。
地元の人々は、長いこと口承されてきた後醍醐帝との関係を打ち切られることは、それこそ自分たちの歴史を否定されるようで耐え難いことだったのかもしれない。
地元の有力者を中心に、復活の声が上がってきたのではないだろうか。
県の教育委員会は地元との関わりが強い。
ひょっとすると、これらの声に影響されたのだろうか、という考えも湧いてきた。
しかし、つらつら考えるに、増鏡や太平記の記述は、後醍醐天皇の行在所は「黒崎御所」とも取れるようなところもある。
承久3年(1221年)に後鳥羽院が隠岐に配流された先は、隠岐中ノ島の海士(あま)町であった。
そうなると、後醍醐帝がその中ノ島の直ぐ近くの西ノ島(黒木御所のある島)に配流されても不思議はないし、その方があり得るような気がする。
そう考えると、黒木御所は海沿いであり、「増鏡」(久米の佐良山)の後醍醐帝が在所から海を眺めて詠んだ歌
心ざす 方を問はばや 浪の上に 浮きてただよふ あまの釣舟
この歌の「あま」とは黒木御所から見える隣の島の海士(あま)のような気もする。
また、同じく「増鏡」(久米の佐良山)に
後醍醐帝が隠岐に着いた時、後鳥羽院のことを思い出し悲しまれた。
そして今また、こうして同じくこの地に着いたのも、後鳥羽院と同じように、鎌倉幕府を亡ぼそうとし、失敗したからだ。
さぞかし、後鳥羽院も苔の下で悲しまれておられるであろう。
と、後醍醐帝の気持ちが書かれている。
「かの島におはしまし着きぬ。昔の御跡は、それとばかりのしるしだになく、人の住処も稀に、おのづからあまの塩やく里ばかり遥かにて、いと哀れなるを御覧ずるにも、御身の上は差し置かれて、先づかの古いにしへの事思し出づ。
かかる所に世を尽くし給ひけん御心の内、いかばかりなりけんと、哀れに辱(かたじけな)く思さるるにも、今はた、さらにかくさすらへぬるも、何により思ひ立ちし事ぞ。
かの御心の末や果たし遂ぐると思ひし故なり。
苔の下にも哀れと思さるらんかしと、万よろづに書き集め尽きせずなむ。」
このことから、後醍醐帝が隠岐に到着したときに、後鳥羽帝が住まわれていた中ノ島を眺めていた可能性が伺われる。
中ノ島の後鳥羽帝跡を眺められるのは、「黒木御所」があったとされる、西ノ島で、国分寺があった、島後島からは見ることができないからだ。
やはり後醍醐帝は短期間とはいえ、一時期黒木御所に住まわれたのではないかと思われる。
「島根懸史」では否定していたが、「隠州視聴合記」に書かれていたことは、事実を含んでいるような気がしてくる。
すなわち、後醍醐帝は黒木御所から逃走して、隠岐脱出をしたのではないかということである。
これについては、隠岐の口碑伝説や吉川英治の「私本太平記」の記述を例にとり後で述べることにする。
後醍醐天皇の隠岐配流によって天下は一応平穏に治まったかのように見えた。
しかしその余燼は、100年間地方にて臥薪嘗胆していた宮方の勢力や、幕府に不満を持つ非御家人勢力に、密かに勢いを蓄えつつあった。
この導火線に火が付けば、一気に燃えあがり国家を二分するほどのポテンシャルに高まっていく。
一方、阿波の水軍岩松党と出雲の鰐淵寺は、密かに島内の宮方武士と気脈を通じ、後醍醐帝を救出するために虎視眈々と機を窺っていた。
天皇配流の隠岐の島
承久3年(1221年)の8月に後鳥羽院(第82代天皇)が隠岐に配流となり、鎌倉幕府の北条執権政治が確立した。
後鳥羽院は、都への帰還がかなわぬままかなわぬまま19年隠岐で過ごし60歳で崩御する。
それから、111年後の元徳4年/元弘2年(1332年)4月に、後醍醐院(第96代天皇)隠岐に配流となった。
この後醍醐院は、1年後に隠岐を脱出して北条氏率いる鎌倉幕府を滅ぼすことになる。
何かしら、鎌倉幕府の栄枯盛衰は、天皇の隠岐配流と連動していたような気がしてきた。
<続く>