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旅日記

石見の伝説と歴史の物語−81(後醍醐天皇−9 赤坂城の攻防)

30.3.元弘の乱

30.3.8. 赤坂城の攻防

元徳3年/元弘元年(1331年)楠木正成とその弟楠木正季は、下赤坂城で孤軍奮闘するが(下赤坂城の戦い)、幕府軍の総攻撃を受け、ついに10月21日に落城する。

楠木兄弟は生死不明となる。

後醍醐天皇は翌年3月、隠岐に流され、元弘の乱は終結したかに見えた。

ところが正慶元年/元弘2年、自害したと思われていた楠木兄弟が突如姿を現し、下赤坂城を攻略して奪還した上に、敵城主湯浅宗藤とその一族まで味方につけた。


30.3.8.1. 赤坂城(下赤坂城)奪還

 

赤坂城は元徳3年/元弘元年(1331年)の赤坂城の戦いの功により地頭職を与えられた湯浅宗藤が守備していた。

元徳4年/元弘2年(1332年)4月3日、その赤坂城を行方をくらましていた楠木正成が急襲した

湯浅宗藤は戦争の準備など全くしていなかったため、赤坂城内にある兵糧は少なかった。

そこで、湯浅宗藤は領地の阿弖河荘(あてがわのしょう)から総勢5,6百人で兵糧を運び、夜陰に乗じて城に運び入れようとする。

楠木正成はそれを聞きつけ、ある作戦を立てた。

兵糧を運ぶ道中を襲って兵糧を奪い、そして自軍の兵を兵糧を運ぶ人夫やその警護の兵になりすまし城内に入る作戦である。

 

兵糧を奪った正成は、その俵に兵糧の代わりに武器を仕込んで、味方兵を人夫や護衛兵に装わせ城内に入り込もうとする。

この時更に、正成は演出し、これらの偽の護衛兵と正成軍の兵で戦いを演じさせ、あたかも正成軍が兵糧を奪い取ろうとしているように見せかけた。

これを見た湯浅宗藤は食料を奪われないようにと援軍を出して、楠軍を追い払う。

まんまと、城内に入った楠軍は、俵から武器を取り出して鬨の声を上げ、城外の軍勢もまた同時に城の木戸を破った。

 

湯浅宗藤は城内、城外に敵がいると気づき仰天する。

そして湯浅宗藤は一戦も交えることなく降伏した。

こうして、楠木正成は赤坂城を奪い返したのである。

なお、湯浅宗藤はこれ以降、正成に従い、幕府軍と戦うことになる。


楠木勢は湯浅氏を引き入れたことで勢いづき、瞬く間に和泉・河内を制圧し、一大勢力となった。

湯浅氏

湯浅氏は、主に平安時代末期から南北朝時代にかけて勢力のあった紀伊国の大豪族。

本姓藤原氏を称し、藤原北家魚名流の一流秀郷流の後裔という伝もある。

鎌倉時代には御家人身分の武家だった。

広義には同族的結合である湯浅党の全体を湯浅氏と称する。

 

30.3.8.2. 下赤坂城、上赤坂城の陥落

やがて、北条高時は畿内で反幕府勢力が台頭していることを知り、9月20日に30万余騎の追討軍を東国から派遣した。

これに対し、楠木正成は赤坂城の2km南東に上赤坂城、6km南東に千早城など数々の軍事拠点を造り幕府軍を待ち受ける。

そして金剛山一帯に点々と築いた要塞の総指揮所として千早城を活用し、千早城、上赤坂城を以て幕府に立ち向かうことにした。

京都についた幕府軍は兵力を赤坂城、千早城、それに後醍醐天皇の第二子である護良親王が立て籠もる吉野城を攻める、3つの軍勢に分けて攻めることにした。

 

赤坂城は平野将監と楠木正季が守備していた。

正慶2年/元弘3年(1333年)2月2日午の刻(午前12時頃)戦いが始まる。

幕府軍の阿曽弾正少弼は八万余騎の軍勢を率いて赤坂へ押し寄せ、城の500m四方を雲霞のごとくに取り囲んで、鬨の声を揚げた。

平野将監と楠木正季らは、多勢の幕府軍相手に奮戦する。

この時、糞尿を敵にかけた奇策は「糞谷(くそんど)」という地名になって残っている。

 

大軍の幕府軍は抵抗する城内軍に新手を入れ替え入れ替え10日以上攻めたが、城中は少しも弱らないように見えた。

この時播磨国の住人、吉川八郎という者が、次のように進言した。

「この城の様子をみれば、武力で攻めても、容易に落ちそうにない。

楠はこの一、二年の間に和泉、河内から、たくさんの兵糧を取り入れているそうであるから、兵糧も容易にはなくならない。

しかしよくよく考えると、この城は三方が谷が深くて土地が途切れており、一方は平地でしかも山は遠く離れている。

だからどこにも水があるとは思えない。

だが、火矢を射ると、水鉄砲で消したりしておるところを見ると城内には水がたくさんあるようである。

これは、きっと南の山の奥から地面の底に樋を埋めて城中に水を引き入れているかと思われる。

人夫を集めて山の麓を掘って探して下さい」

 

大将はなるほどと思って、人夫を集めて城に続く山の麓を一直線に掘り切った。

すると、思った通り土の底六mあまりの深さの所に樋を伏せて引いていたため、すぐにこれを壊し水の補給を絶った。

この水を止められて以後、城中では水が乏しくなってくる。

その上、恵みの雨も降らなかった。

寄せ手は、水を絶ったことに、力を得て絶え間なく火矢を射ち、正面の櫓二つを落とした。

城中の兵は水を飲めない日が続き、もはや気力が尽きて防ぐべき手立てもなかった。

渇きに苦しんだ城兵たちは、2月27日ついに平野将監以下将兵282人が降伏した。

それは、今降伏して出ていってもひどい扱いはされないだろうと思ったからである。

降伏した城兵らは、安に相違して、六波羅に送られたのち、全員が六条河原で処刑され、その首は獄門にかけられた。

楠木正季ら8人は、降伏せずに千早城に遁走している。

降伏した者が処刑されたことを伝え聞いた吉野・金剛山(千早城)の兵達は猛り立ち、誰一人降伏しようとは考えなくなった、と次のように記している。

是を聞てぞ、吉野金剛山に籠りたる兵共も、彌(いよいよ)獅子の歯噛して、降人に出んと思ふ者は無りけり。

 

 

上赤坂城の構造は大きく三つに分かれる。
一つは西側の本丸跡と呼ばれる曲輪をピーク(標高約350m)として約100mの細長い尾根に曲輪と横堀が設けられている。
二つ目は二の丸とよばれる曲輪をピーク(標高約340m)として北と北東に曲輪が接続し、そろばん橋付近は大規模な堀切が設けられている。
三つ目は両所をつなぐ茶碗原と呼ばれるところで大きな曲輪で堀切が設けられている。(千早赤阪楠公史跡保存会)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

<続く>

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