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旅日記

石見の伝説と歴史の物語−167(応仁の乱その後−1)

55.応仁の乱その後

応仁の乱は、足利義政と足利義視が東西に別れて戦った。

この兄弟にはもう一人兄弟が関東にいた。

前述した、初代の堀越公方である足利政知である。

義政、義視、政知らにはそれぞれ息子がいた。

以後、彼らの息子が順次将軍に就任していき、室町幕府は消滅していくのである。

文明5年(1473年)、西軍の山名宗全、東軍の細川勝元の両名が死んだことを契機に、義政は12月19日に将軍職を子の義尚へ譲って正式に隠居した。

義政の後を継いで将軍となったのが、義政の子足利義尚である。

しかし、この義尚は長享3年(1489年)3月26日に死没する。

享年25 満23歳であった。

足利義視と足利政知に我が子を将軍にする絶好な機会が訪れたのである。

こうして、足利義稙(この頃は義材(よしき)→明応7年(1948年)義尹(よしただ)→永正10年(1513年)義稙と改名)と足利義澄の間で将軍の後継者争いが始まるのである。

足利義稙を支持したのは日野富子で、日野富子は義稙の母(日野良子)の姉である。

足利義澄を指示したのは細川氏第12代当主の細川政元(勝元の子)だった。

この争いは足利義稙側の勝利となる。

延徳2年(1490年)正月に義政が死去すると、義視の出家などを条件として義稙が第10代将軍に決定し、同年7月5日に就任した。

<足利義稙>

 

55.1.足利義稙将軍就任

足利義稙の将軍就任が決定後、日野富子と足利義視の関係が悪化していく。

7月5日、義稙は正式に朝廷から将軍に任命され、義視も准三宮の地位を与えられ、しばらくは父子による二頭体制が続くかと思われた。

だが、11月に義視が腫物を患い、必死の看病も虚しく、延徳3年(1491年)1月7日に死去した。

将軍就任間もない義稙にとって、大乱中に西軍の盟主として政治的経験を積んできた義視は頼もしき存在であり、その死が与えた影響は大きかった。

そのため、義稙は自身の政治的立場を固めるため何らかの方策を考えざるを得ず、近臣たちと相談のうえで出した結論が、反抗的な大名を討伐し権威を高めることであった。

それが「第二次六角征伐」である。

これは、中断となっていた六角征伐を復活させたものである。

六角征伐は、前将軍の足利義尚の時にも行われており、その時を第一次六角征伐(長享元年(1487年)9月〜長享3年(1489年)3月)と呼ぶ。

第一次六角征伐

応仁の乱が収束したのち、各地では守護や国人らが寺社領や公家の荘園などを押領して勢力を拡大していた。

旧西軍に属していた近江守護・六角行高も荘園や奉公衆の所領を押領していた。

しかし、長享元年(1487年)7月、奉公衆の一色政具の訴訟案件が幕府に持ち込まれ、これをきっかけとして他の近江の奉公衆も六角行高に対し訴訟を起こした。

さらに寺社本所領押領も発覚、幕府はその威信回復を企図して六角氏討伐の兵を挙げ近江に遠征した。

義尚はこの第一次六角征伐の時に、体調を崩し陣中で死去している。

このため、第一次六角征伐は中断となっている。

 

義稙は前将軍義尚の政策を踏襲し、丹波、山城など、畿内における国一揆に対応するため、延徳3年4月に近江の六角高頼(初名行高)討伐の大号令を発し、軍事的強化を図った。

この六角征伐は細川一門をはじめ多くの大名が参加し、圧倒的な武力で高頼を甲賀へ、さらに伊勢へと追い払い、成功裡に終わった。

 

六角氏

近江源氏と呼ばれた佐々木氏の4家に分かれた家のうちの1つで、鎌倉時代より守護として南近江一帯を支配していた。

六角氏と名乗ったのは、京都六角東洞院に六角氏の祖となる佐々木泰綱が屋敷を得たからと言われている

    

 

 

 

55.2.明応の政変

55.2.1河内征伐

六角征伐で味をしめた、義稙は更に人望を集めようとした。

しかし、これは結果的にはやりすぎだったようである。

 

明応2年(1493年)正月、義稙は河内の畠山基家討伐するために大号令を発し、再び大名たちへ出兵を要請した。

これは元管領であった畠山政長が敵対する基家の討伐のため、義稙に河内への親征を要請したことに起因する。

政長は応仁の乱で従兄弟の畠山義就と家督をめぐって激しく争い、義就の死後はその息子の基家と争いを続けるなど、畠山氏は一族・家臣が尾州家と総州家で二分して争っていた。

義稙は二分された畠山氏の家督問題を政長優位の下で解決させるため、そして政元への依存を減らすため、政長の願いを聞き入れる形でこの出兵に応じた。

そして、京には義稙の命令を受けた大名が多数参陣したが、細川政元は河内征伐に反対し、この出兵に応じなかった。

義稙は政元の反対を振り切り、2月15日に討伐軍を京から河内に進発させた。

そして、2月24日に義稙は河内の正覚寺に入り、ここを本陣とした。

大名らもまた、畠山基家が籠城している高屋城(誉田城)周辺に陣を敷き、城を包囲した。

そのため、基家方の小城は次々に陥落し、3月の段階で基家は孤立を余儀なくされ、義稙や政長の勝利は目前となった。

しかし、京都から京都から義稙に驚愕の知らせが届いた。

細川政元が足利義澄を新将軍として擁立したという知らせであった。

そして、その仲間には、伊勢貞宗や赤松政則などの有力者に混じり、日野富子も加わっていた。

戦を繰り返す義稙を見限ったのである。

 

 


55.2.2.細川政元の挙兵

4月22日夜、政元はついに挙兵を決行した。

クーデターである。

足利義澄をすぐ遊初軒(細川政元の邸宅)に迎え入れて保護し、義稙の関係者邸宅へと兵を向けた。

その兵によって、23日には義稙の関係者邸宅のみならず、義稙の弟や妹の入寺する三宝院・曇花院・慈照寺などが襲撃・破壊された。

更に当時の記録によると、富子が先代(義政)御台所の立場から直接指揮を執って、政元に京を制圧させたと記録されている。

同日、政元は義稙を廃して義澄を新将軍に擁立すること、また政長を河内守護職から解任することを公表し、事態を収めようとした。

そして、4月28日に政元は義澄を還俗させて11代将軍として擁立した。

<足利義澄>


この報を聞いた義稙や諸大名、奉公衆・奉行衆ら将軍直臣は激しく動揺した。

その上、伊勢貞宗から義稙に同行する大名や奉公衆ら将軍直臣に対して、新将軍に従うようにとする内容の「謀書」が送られると、大名や将軍直臣は27日までにほとんどが河内から京都に帰還してしまった。

その後、直臣は京の義澄のもとへと参集し、大名も畠山政長を除いて義稙を支援した者はいなかった。

政元は軍を河内国に派遣して義稙と畠山政長を打ち破り、政長は自害した。

義稙は尊氏以来足利将軍家に伝わる家宝の甲冑「御小袖」と「御剣」だけを携えて政元の家臣・上原元秀の陣に投降し、京都に連れ戻されて5月2日龍安寺に幽閉された。

しかし、足利義稙の波乱万丈の人生は、まだまだ続くのである。

 

<続く>

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