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旅日記

石見の伝説と歴史の物語−166(応仁の乱−3)

54.応仁の乱(続き)

54.6.応仁の乱(3)

54.6.1.朝倉孝景の寝返り

文明3年(1471年)5月21日、斯波義廉(前管領)の宿老で西軍の主力であった朝倉孝景が、義政による越前国守護職補任を受けて東軍側に寝返った。

その条件というのは、朝倉孝景に越前の守護職を与えるというものであった。

下剋上

本来越前守護職は斯波氏のものであったが、これが臣下のはずの朝倉氏に与えられ越前一国の支配権を公認された形となった。

まさに、幕府が下剋上を承認し実行したのである。

 

朝倉孝景が越前国を平定したことにより、戦況は大きく変化した。

これまで、西軍は日本海側から越前経由で兵士や物資を確保することができていたが、これが、ほぼ不可能になったのである。

また、その後京都南部の大山崎も東軍の赤松政則が押さえたため、瀬戸内海からの補給路も絶たれることとなった。

 

これにより、東軍の優勢が決定的となったのである。

西軍の主力の移籍により、東軍は決定的に有利となり、東軍幕府には古河公方足利成氏の追討を再開する余裕すらも生まれた。

一方で西軍は8月、擁立を躊躇していた後南朝勢力の小倉宮皇子と称する人物を擁立して「新主」とした(西陣南帝)。

 

56.6.2.厭戦感情

文明4年(1472年)になると、細川勝元も山名宗全も戦いを終わらせたいと思うようになっており、和睦の機運が高まってきていた。

しかし、和睦に反対する者がいた。

それは、西軍では畠山政長を徹底的に潰したい畠山義教、大軍を率いて上洛したがまだ十分な功績を上げていない大内政弘、東軍では今戦争を止めたら山名氏に守護を奪われかねない赤松政則達だった。

彼らは、まだ戦争を続けることが得であると思っていた。

このため、和睦に至ることはできなかった。

しかし、細川勝元は和睦の道を諦めなかった。

3月に勝元は猶子勝之を廃嫡して、実子で宗全の外孫に当たる聡明丸(細川政元)を擁立した後に剃髪した。

政元の母は山名宗全の養女であり、宗全にとっては孫にあたる。

勝元は山名宗全の血縁者に家督を譲ることで、戦争を止めようという意思表示をしたのである。

このメッセージを受け取った、5月のある事件後に山名宗全も家督を孫の政豊に譲った(嫡男の教豊は1467年9月に戦死)。


宗全が自殺を図って制止され、家督を嫡孫政豊に譲り隠居する事件が起きたが、これは手打ちの意思を伝える示威運動であったと見られている。

山名宗全(持豊)には次男の是豊がいたが、父宗全と対立しており、応仁の乱では東軍の細川方につき西軍と戦っている。

応仁の乱の中心人物だった二人が政治から身を引くことにより戦乱を終わらせようとしたのである。

しかし、自分たちで戦乱の幕を引く前に二人共死去したのである。

宗全は文明5年(1473年)3月18日に、勝元は5月11日に死没した。

 

56.6.3.足利義政の隠居と和睦交渉

文明5年(1473年)12月19日に、足利義政も政治から引退する。

将軍職は当時9歳の足利義尚が就いた。

足利義尚の後見人となったのが、母の日野富子である。

<足利義尚>

 

管領は義尚の将軍宣下に合わせて畠山政長が任じられたものの、一連の儀式が終わると辞任してしまう。

そのため、富子の兄である公家の日野勝光が幕府の役職に就かないまま、管領の職務を代行することになった。

こうして、富子の勢力が拡大し、義政の実権は失われていった。

興福寺別当尋尊は「天下公事修り、女中御計(天下の政治は全て女子である富子が計らい)、公方(義政)は大御酒、諸大名は犬笠懸、天下泰平の時の如くなり」と評している。

文明6年(1474年)3月、義政は小川御所(上京区小川町)に移り、花の御所には富子と義尚が残った。

<小川御所>

足利将軍家の邸宅の1つで、京都市上京区の宝鏡寺の隣地にあったと推定され、現在は同寺の敷地の一部になっている。

義政が移った2年後の文明8年(1476年)、室町御所の焼失とともに義政正室の日野富子、義尚、そして応仁の乱を避けて室町御所に避難中であった後土御門天皇が退避した。

その後、富子の為の居室が増築されたが、義政・義尚ともに富子との不仲から最終的にはこの御所から離れ、文明15年(1483年)以降は富子のみの居宅となった。

<宝鏡寺>

 

文明6年4月3日(4月19日)、山名政豊と細川政元の間に和睦が成立する。

しかし、戦いを止めたくない勢力もあり、その後も東軍は細川政元・畠山政長・赤松政則、西軍は畠山義就・大内政弘・土岐成頼を中心に惰性的な小競り合いを続けていた。

また、赤松政則は和睦に反対し続けていた。

 

56.6.4.終息

文明9年(1477年)に入ると幕府は東軍による大内領攻撃を禁じるとともに、山内政弘が和睦の要件としていた河野通春の赦免に応じたことで一気に戦いは収束に向かった。

主戦派の畠山義就は大内政弘の降伏によって孤立することを恐れ、文明9年(1477年)9月22日に河内国に下国した。

11月3日、大内政弘は東幕府に正式に降参し、9代将軍足利義尚の名で周防・長門・豊前・筑前の4か国の守護職を安堵された。

大内軍は11月11日に京から撤収し、能登守護の畠山義統や土岐成頼も京の自邸を焼き払って帰国した。

義視・義稙(後の10代将軍)親子は正式な赦免を受けないまま、土岐成頼や斎藤妙椿と共に美濃国に退去した。

翌文明10年(1478年)7月10日に義政に赦免される。

こうして西軍は解体され、9日後の11月20日、幕府によって「天下静謐」の祝宴が催され11年に及ぶ京都における大乱の幕が降ろされた。

なお、西陣南帝は「諸将みな分国に帰り、京都に置き去りにされてしまわれた」とされているものの、その後の消息は不明となった。

 

日野富子

富子は東軍側にいたが、東西両軍の大名に多額の金銭を貸し付け、米の投機も行うなどして、一時は現在の価値にして60億円もの資産があったといわれる。

この資産が幕府の財政を支えていた、と考えられている。

  

千本釈迦堂(京都市上京区)

室町時代の1467年から11年間に渡って"京都の町がほぼ焦土と化した"といわれる応仁の乱。しかし、大報恩寺の国宝・本堂は奇跡的に戦火を免れた。

 

56.6.5.応仁の乱経時記録

 

 

<続く>

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