30.3.元弘の乱
30.3.5. 赤坂城の戦い
赤坂城の戦いは、河内国・赤坂城(下赤坂城)に於いて、楠木正成が笠置山を落ち延びた護良親王を擁し、寡兵をもって鎌倉幕府の正規軍全4軍とわたり合った籠城戦である。
赤坂城は一ヶ月余り後に陥落したが、護良親王と楠木正成は逃走に成功し、幕府方は目的を果たすことができなかった。
<楠木正成>
赤坂城
鎌倉倒幕を目指す後醍醐天皇が笠置山で戦ったのに呼応して楠木正成は、拠点の河内(現大阪府千早赤阪村)に赤坂城(現:下赤坂城)を築いて挙兵した。
諸説あるが、正成を祭る湊川神社(神戸市中央区)がまとめた『大楠公』によると、後醍醐天皇が正成を笠置山に召し出したのは元徳3年/元弘元年(1331年)年の9月3日といわれている。
正成が下赤坂城で挙兵したのは同月11日である。わずか8日しか準備期間はなかった。
すでに幕軍は笠置山に迫っており、事態はそれほど切迫していた。
赤坂城は金剛山地から延びる大阪府千早赤阪村の標高180mの丘陵に築かれた。
城は三方が平地に続き、一重の堀と一重の塀しか備えていなかった。
“挙兵”といっても正成の兵力はわずか500名であった。
これに対して幕府は数万の討伐軍を差し向けた。
甲冑を着て武装した幕府軍に対し、正成軍の大半は普段農民の地侍であり、兜もなく上半身が裸の者もいた。
正成は、赤坂城防御のため、いろいろな仕掛けを施していた。
油断した幕府兵は各自が勝手に攻撃を始め、城の斜面塀を昇り始める。
ところが、この斜面塀は二重になっており、それを繋ぎ止めていた縄が切られたため外側の塀が崩れ幕府兵は、塀もろとも崖下に落下する。
またその兵士の頭上にドデカい岩や大木を投げ込み、追い打ちをかけた。
鎌倉武士と異なり、地侍たちは集団での奇襲を得意とし、この初戦だけで幕府側は700名も兵を失った。
さらに、正成はゲリラ戦で幕府軍を翻弄し、攻撃をはねのけた。
幕府軍はやむなく力押しをやめ、城を包囲して持久戦に持ち込むことにした。
急な挙兵だったために城は兵糧が十分ではなく、兵糧攻めされた正成軍は20日で食糧が尽きた。
そこへ京都で後醍醐天皇が捕らえられたと急報が入った。
正成は逃亡を決意する。
手勢の物具を脱がせて寄せ手に紛れて落ちさせ、自らは替え玉の焼死体を用意して城から逃れた。
正成は城に火を放ち、火災の混乱に乗じて抜け道から脱出、行方をくらます。
太平記によると
笠置攻めより10日余り経った9月11日、河内国より早馬が楠正成の謀反を伝えてきた。
赤坂山に500余騎で立て籠もったので、軍勢をよこしてほしいという内容であった。同じく13日備後国より早馬があり、桜山四郎入道御所方に寄って謀反し、一宮を城としたという内容であった。
官側にはせ参じたのは700余騎であった。鎌倉にとって厄介な事態になった。
北條高時は驚いてさらに討手をさしのばせるべく、大将軍に大仏陸奥守、金沢右馬助、足利治部大輔、遠江左近太夫、侍大将には長崎四郎左衛門、侍は一門他家の軍勢63人、都合20万7600余騎が9月20日に鎌倉を発った。
晦日には前陣は美濃・尾張に到着、後陣は二村(愛知県豊橋)にいた。
鎌倉から出兵した東国軍はすでに笠置城は落ちたので、楠正成が立て籠もった赤坂城の攻略に向かった。
赤坂城のにわか作りの山城のみすぼらしさに唖然とした鎌倉勢30万騎は堀を越えて城に駆け上った。正成は射手200人を城の中に入れ、舎弟七郎と和田五郎に300騎を添えて外の山に置いた。
猛烈な迎え矢を受けて死者を多く出した鎌倉勢は陣を取って分隊に分かれて合戦をする方針に換えた。
舎弟七郎と和田五郎の軍300騎がどっと山を下って鎌倉勢に戦いを挑んだ。
赤坂状の援護射撃が加わり最初の闘いは楠側の勝利であった。
石垣にとりついた寄り手千騎は上から石を落とされ700人が押し潰された。
これに懲りた鎌倉勢は城を遠巻きにして攻めあぐんだが、20日ほどして城中の食糧が尽き助けの兵も来ないので正成は落ちることに決めた。城に火をかけ正成は自害したかのように見せかけ、必死に逃げ延びた。
同じ頃、急造した「赤坂城」で籠城し、幕府軍と睨み合っていた楠木正成も、物資の少なさから見て長期戦には耐えられないと判断し、自ら城に火をかけて行方をくらました。
後醍醐天皇の2度目の倒幕計画は、これをもって一時休止となる。
千早赤坂村
楠木正成の出自は不詳である。
現在、大阪府南河内郡千早赤阪村水分の地に「楠公誕生地」の碑がある。
この碑の前に説明板があり、次のような記載がある。
ここは、楠木正成公が生誕したという伝承が残る地です。
明治8年(1875年)この地を訪れた大久保利通から、史跡の保護と顕彰を勧められ、「楠公誕生地」の碑が立てられた。
「伝承が残る地」と腰が引けている。
二つの赤坂城
現在、大阪府南河内郡千早赤阪村に赤坂城と呼ばれる城が2城ある。
一つは、現在下赤坂城と呼ばれている、いわゆる元徳3年/元弘元年(1331年)の赤坂城の戦いの舞台となった城である。
もう一つは、楠木正成が翌年の元徳4年/元弘2年に、奪い取った上赤坂城(楠木城)である。
この上赤坂城は山城で標高340mのところに築かれていた。
太平記では、二つの城を区別せずに、両方とも赤坂城としているが、城の様子の記述は異なっている。
①下赤坂城
「にわかにこしらえたりと覚えて、はかばかしく堀もほらず、わずかに屏一重に塗って、方一、二町には過ぎじと覚えたる、その内に、櫓二、三十が程、かきならべたり」
②上赤坂城
「この城三方は、岸高こうして屏風を立てたるがごとし。南の方をばかりこそ、平地につづいて、堀を広く深く掘り切って、岸の額に屏を塗り、その上に櫓をかきならべたれば、いかなる大力早態(はやわざ)なりとも、たやすく攻むべき様ぞなき」
<下赤坂城>
<上赤坂城>
城跡地までの道
<続く>