2.1.3. 那賀郡下府
前出の二宮村史には恵良から下府に移転したときの逸話が載っている。
麻田陽春という人が石見守であった時(聖武天皇天平十一年から十六・七年頃迄の間)、国分寺(僧寺と尼寺)を建立せよと、お上から御触れが来た。入費は、国の租税から出るのではあるが、何分仏教が地方に染込んで居らぬ上、献上夫は近まはりの者に多くかかるので、オイソレト出来ぬ。
仏教が日本に渡って、大方二百年近くもなるので、都や支那朝鮮往来の港は、神国変じて仏国となるという者がある位に変わっていっても、田舎ではそうは行かず中々国分寺の建立がむつかしい。
殊に、我が角の郷(後の都農、都於二郷)地方は、遠き神代から諸方の神のつどうた處で、人皇の世になって、祟神の御世に、神邑、神戸を我が里に定めなされてからは、いやが上に、石見国の神都として自らも高くとまり、他からも敬われた。
それで、石見でイチ早く仏教の来た地は、我が神村の伝仏というところの瓦葺でありながら、僻遠狭小な地で、僧尼も居たり居ざったり、居た所で、渡り神、はやり神とて、好奇の目で儀礼読経の様を見る迄で、教理を聞く者などは一人も無く、人民の費は少しも無かった。
それが国分寺となると、広い土地、大きな建物、沢山な費用、多くの人夫が入るので、地方人は聞いただけでも、ドダマをぬかす。
(以下要約)
加えて地元の有力者は皆神社関係の人達であるから寺の創建には全く乗り気にならず、内々邪魔をするくらいであった。
天平十九年冬、石川年足という朝廷の使いが造寺の催促にきた。
そして石川は土着の郡司に三年間で造寺できたら、郡司の職を世襲にしてやると言った。
時の大領久米臣村部がその餌に釣られて造寺のことを引き受けた。
ただし、角の郷では、動かせぬ仕来りがあることや、土地が狭いことなどから、伊甘の郷に建てることにした。
この国分寺造営と前後して国府も伊甘に移転した。
この村史に書いてあることは、
国分寺、国分尼寺の建設には多大な費用がかかる上に、二宮の有力者は神社関係の者であること等もあって、遅々として進まない。そこで土着の郡司を、世襲という餌で手懐けて、建設が容易な伊甘に建設した。また国府もこれに引きずられて伊甘に移った、ということである。
<伊甘神社>
2.1.4. 国府の場所について
石見国府の所在地は前述のような説があるが、話としては、一つのストーリーとして繋がっているのではないかと思う。
つまり、最初は仁万に国府があり、それが恵良に移転し最終的に伊甘に移ったのではないかということである。
ただし何故仁万から移転したのか分からない。
この理由を大胆に推測すると、仁万は石見の国の東端のため、もう少し中央寄りの場所に国府を置きたかったのではないかと思われる。
というのも、百済復興を目指す百済遺民と日本の連合軍が天智2年(663年)白村江(はくすきえ)の戦いで百済唐・新羅の連合軍に惨敗した後、唐軍の襲来に備え、長門から石見にかけての海岸線の軍事力整備が重要視されていたので、国府の位置が見直されたのではないかと、思われるからである。
2.2. 石見の国司
石見国とは、今の大田市から益田市までの範囲で、安濃郡、邇摩郡、邑智郡、那賀郡、美濃郡、鹿足郡を含む地域を言う。
国司とは、地方行政単位である国を支配する行政官として中央から派遣された官吏たちを指し、四等官である守(長官)、介(次官)、掾<じょう>(属官)、目<さかん>(属官)たちのことをいい、具体的な仕事の内容は、戸籍の作成や班田収授、税の徴収、兵士の招集、裁判などであった。
国にも大・上・中・下の四等級があり、中国には介が置かれず、また下国には掾も置かれなかった。
石見の国は中国であり、守の職田は二町(1.98ヘクタール)であった。
次に邑智郡誌に掲載されている「石見国守表」の最初の部分を載せる。これによると、万葉集のスーパースターの一人である柿本人麻呂が最初に載っている。
この柿本人麻呂については次節以降で述べる。
<続く>