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旅日記

(物語)民話と伝説と宝生山甘南備寺−7 (石見の国府−1)

2. 石見の国府

大宝元年(701年)に制定された大宝律令で、国・郡・里の国郡里制が定められ、地方分権的な律令制が布かれた。

中央政府から派遣される国司には多大な権限を与える一方、地方豪族がその職を占めていた郡司にも一定の権限が認められていた。

国司らが、政務や儀式を行った政治の中心地は国府と呼ばれていた。

 

2.1. 石見国府の所在地

石見国の国府は、3ヶ所の場所を移転したようである。

科学的な根拠は横において、その地方に残された言い伝えから、それらの説を見ていくことにする。

これらの説は地域の言い伝えなどから推定されたものであり、その言い伝えが事実かどうかは確かめることはできない。

 

2.1.1. 邇摩郡仁万説

国府は当初邇摩郡仁万町御門(現在邇摩郡仁摩町)におかれたが後に、那賀郡下府村(現在浜田市下府町)に移ったとされている。

古くは仁万村字御門、「ミカド」と呼んでいた地名(現在の地名は清石)があり、この地の田では、正月元旦に鳥追いの古式が行われている、ことからここに国府が会ったのではないかと考えられている。

仁摩町仁万では他に字名、幸田、馬庭という地名がある。

幸田(こうだ)は「郡田(こおりだ)」が転訛したものと考えられ邇摩郡家が置かれていたものではないかと考えられた。

また馬庭は仁万駅(にまのうまや)を意味するかもしれないと様々な推測がなされている。

なお、これらの地域に隣接して郡家跡があり、雷峠付近に国分寺跡がある。

口伝によると

聖武天皇天平十一年に仁万村雷山の半腹を開き平地となして国分寺を創建した。

また、城天皇大同三年四月中旬酉の日、國分寺霹靂(びゃくらく)神社を寺の境内に安置した。

その後、國分寺霹靂神社は毛利の合戦により焼失し灰燼に帰したため、明神山の嶺に社殿を建立し、元禄年間に遷座したという。

現在の國分寺霹靂神社には石見地方所縁の武将・足利直冬と、石見銀山を支配した毛利輝元・徳川家康を合祀しているという。天正5(1577)年、吉川元春が神楽殿を新造した。

 

 

・霹靂神社について

国分寺霹靂(かんたけ)神社は浜田市国分町にもあり、霹靂(びゃくらく)神社は大田市温泉津町湯里にもある。また大田市五十猛にあった霹靂神社はいまの五十猛神社に合祀されたという。

 

・仁万の古代遺跡

余談ではあるが、この地域は古代から開けていた地域で遺跡も沢山発見されており、古くから栄えていたと思われる。

 

 

坂灘古墳>

潮川河口には縄文時代の坂灘遺跡があり、その直近上流の川向遺跡から弥生時代の石器や土器、鋤や鍬などの農機具が発見されている。




2.1.2. 那賀郡恵良説

江津市二宮町神主地区の恵良という場所におかれ、その後那賀郡下府村(現在浜田市下府町)に移ったという説があり、次のような言い伝え等がある。

・恵良、神村には「殿屋敷」とか「解舎(げや)」という地名が残っており、国司の解由(げゆ)を受けた館跡とも考えられている。

・「郡家」が二宮町神主にあったとされ、跡市には団原といって軍団の練習地があったともされている。

 

昭和6年(1931年)編集の二宮村史(現江津市二宮町)によると、

「国府が伊甘郷(上府村・下府村・国府村)に移ったのは聖武天皇の御世より前ではない。下では国府の跡を御所といひ、津野郷二宮村大字神主字恵良では、殿屋敷といふ。

御所は天子の御住居、殿屋敷は公卿大名などの住居で、何れも国府庁といふ意味には、シックリはまらぬがそこは物知らぬ里人の語であるから、容赦せねばならぬ。恵良の殿屋敷の傍に、ゲヤ(解舎)といふ畑地がある。国司の解任転任された者が、後任者又は担当者に引継終了のゲユ(解由)を受ける迄居た館​​趾である。・・」

 

「大化の改新の後、暫くは角の郷に石見の国府や那賀の郡家のあったことは、古くからいうふことであるが、いつまであって、いつ移転したかは書いたものがない。・・」

(注:「角の郷」とは現在の都野津地域を指す)

 

 

前節の仁万地方と同様に、この恵良周辺も弥生遺跡や古墳も多い。

次の図は遺跡等の所在地を示したものである。

 

<続く>

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