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旅日記

大分、山口、広島周遊(11)6日目-1 広島

広島観光-1

 

呉、江田島巡り

7時にホテルで朝食を取りました。

素晴らしい朝食で満足しました。

7時半にチェックアウトしました。

 

呉(大和ミュージアム、海上自衛隊呉資料館)

駐車場はすぐに見つけることが出来ました。

大和ミュージアム

体温測定と連絡先を提出して入場券を買いました。入場料は500円です。

大和ミュージアムは愛称で正式名は「呉市海事歴史科学館」と言うそうです。

戦前・戦後の呉市における船舶製造技術を主たる展示内容としており、旧日本海軍の超大型軍艦「大和」の建造と軍事活動が中心となっています。

 

海上自衛隊呉資料館

道路を挟んで「海上自衛隊呉資料館」があります。ここへの入場料は無料でした。

前に潜水艦が置いてあり、この中も見学が出来ましたが、内部の撮影は禁止でした。

機雷の掃海の展示がありました。

潜水艦内部の施設の一部が展示されていました。

 

江田島(海上挺身戦隊戦没者慰霊碑)

海上挺身戦隊とは

大東亜戦争で特攻と言えば旧海軍の神風特別攻撃隊、回転特別攻撃隊(人間魚雷)、震洋((小型特攻ボート) マル四と呼称)はよく知られていますが、旧陸軍にも海上挺身隊(マルレと呼称)という特攻がありました。大本営陸軍部・海軍部は四式肉薄攻撃艇/マルレ(陸軍)とマル四(海軍)をあわせてと呼称しました。

昭和19年7月24日に大本営陸海軍部として決定された「今後の作戦指導大綱」の基本方針に従い、米軍上陸用船団に対して、海上挺身隊が陸軍航空兵力と並んで洋上攻撃方法として特攻戦闘方法が採用されことになりました。

この方式は人間魚雷的なものを、予め米軍が上陸すると予想される近くに配置し、米軍の上陸時に上陸用船団の側背面から兵員・兵器を満載している米軍輸送船に爆薬を積んで体当たり攻撃する方法です。

海上挺身隊は戦隊長(少佐又は大尉)以下107名で構成されました。

昭和19年9月に第1~10戦隊が編成され、引き続き10月に第11~30戦隊が編成され、小豆島で艇の操縦訓練、江田島の幸の浦で特攻訓練を受け、任地に赴いています。

 

この海上挺身隊に興味を持ったのは、実家の書籍等を整理していた時に、戦友会の資料(手紙や手記)を見つけたときからです。

父はこの海上挺身隊の隊員だったのです。

かつて子供の頃、父親から一度だけ「儂は特攻の生き残り」であると聞いたことがありました。

父は陸軍であったので、この特攻の意味を今まで良く分からぬまま深く考えもしませんでした。

 

戦友会の資料の中に、海上挺身隊で生き残った人たちが当時の状況を手記にして冊子にしているものがありました。

この冊子を読んで、海上挺身隊がどのようなものであるか知ることが出来ました。

 

父は海上挺身隊第四戦隊(宮古島が任務地)に所属していました。

そして訓練の状況や、任務地に行く途上で米軍戦闘機に襲われたことや、多良間島に漂着したこと、宮古島に到着後、マラニアに罹り病身で終戦を迎えたことを手記にしていました。

座間味島から宮古島までは100トンぐらいの木造機帆船に攻撃艇を積み込み数隊に分けて向かったそうです。途中悪天候に会いまともに宮古島に到着したのは数隻で、中には台湾に漂着した船もありました。

台湾に漂着した船は戦況がら再度宮古島を目指すことが出来ず、終戦は台湾で迎えたそうです。

 

結局米軍は宮古島に上陸せず、沖縄本島を直接攻めたため、海上挺身隊は出撃することはなかったようです。

 

この海上挺身隊員の慰霊碑が江田島の幸の浦海岸に建てられていることが分かったので、今回訪れようと思いました。

 

慰霊碑を見つけるのに苦労しました。

凡その検討をつけて来たのですが、直ぐに見つけられず30分くらいそれらしき場所を行き来しました。

慰霊碑は道路の直ぐ傍にありました。運転しながら探していたため、道路脇を見落としたようです。

慰霊碑に黙祷を捧げました。

これから安芸高田市に向かいます。

<続く>

 大分、山口、広島周遊 目次 

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