<鎌倉末期の石見豪族達の大まかな分布図>
(図の点線は現在の市町村の境界を示す)
27.6. 平田氏
平田氏は文治4年(1188年)平田嘉貞が伊賀国平田邑より移って今井城に居住したのが始まりとされる。
平田氏は六代続いたが、観応元年・正平5年(1350年)北朝方の高師泰によって攻められ落城して滅亡、翌正平6年(1351年)には信濃国西那荘より佐々木兄弟が地頭として入部し、弟佐々木行連が都治氏を称し、兄佐々木祐直は川上の地頭として松山城に入り河上氏を称した。
大永元年(1521年)尼子経久が攻め入り都治氏は滅亡するが、その後、河上隆行が都治氏を再興する。
27.7. 都野氏
都野正隆が嘉元年間(1303〜1306年)に都野郷に来住し都野氏とする。
正隆の父は宇都宮勝助(近江浅井郡の人)である。
27.8. 内田氏
石見内田氏は遠江国内田庄を発祥とし、承久の乱後、内田致茂が新甫地頭として石見国長野荘内豊田郷(益田市)を宛がわれており、致茂-致員-致親-致直-致景- 致世と続き、致景の代に豊田城を築いたとされている。
27.9. 川上氏
築城年代は定かではないが鎌倉時代末期に川上房隆によって築かれたと云われる。 川上氏は弘安の役の後、宇都宮宗綱(中原宗綱)の次男中原宗秀の後裔中原房隆が近江国より地頭として下向し、川上氏を名乗ったことに始まるという。
南北朝時代に川上氏は南朝方となり、度々北朝方の攻撃を受け、観応元年・正平5年(1350年)高師泰の攻撃によって落城、川上五郎左衛門は同族の都野氏を頼って落ちた。
翌正平6年(1351年)には信濃国西那荘より佐々木兄弟が地頭として入部し、兄佐々木祐直は川上の地頭として松山城に入り河上氏を称し、弟佐々木行連が今井城・佐賀里松城に入り都治氏を称した。
天文年間(1532年〜1555年)に河上氏は本明城主福屋隆兼の攻撃を受けて落城、福屋隆任が城主となり川上氏を名乗った。
永禄4年(1561年)福屋氏は毛利氏に叛して尼子氏につき、福光城を攻めたが、逆に毛利氏によって攻撃され松山城は落城した。
福屋氏は滅亡しその後は小笠原長旌の所領となった。
27.10. 波多野氏
長野庄内美濃地・黒谷郷に承久新恩地頭として補任する。
その後、吉見清秀が細川勝元の命を受けて母方の波多野を名乗る。
そして、政元の代、多紀郡の小守護代に任じられ丹波多紀郡に下向した。
27.11. 吉川氏
石見吉川氏の祖は鎌倉時代後期の武士である吉川経茂である。
経茂は吉川経光の子として生まれる。
妻に石見国の国人の娘を迎え、妻の所領である石見永安別符に入って、家中を取り仕切っていた。
兄から石見津淵荘の地頭職を与えられ、石見吉川氏の初代となる。
娘を甥であり安芸吉川氏当主の吉川経盛に嫁がせている。
このことからも安芸吉川氏を補佐する役割として宗家からも重要視されていたことが窺える。
27.12. 高津氏
吉見頼行の八子、興次源長幸が、美濃郡高津町小山城主になり、高津氏と称す。
性格は忠純で、三隅兼連、佐波顕連、都野信保等と相通じ皇事に勤しむ。
元弘3年閏二月後醍醐天皇は隠岐より船上山に遷幸する。
この時、佐波、三隅等は船上山に参じたが、長幸は後醍醐天皇の綸旨を受け、長門探題北条時直を攻めて九州に追っ払った。
27.13. 田村氏
那賀郡来原別符地頭。
鎌倉初期に東国から入部してきた御家人と考えられる。
27.14. 越生氏
越生有政は那賀郡来原別符地頭田村資盛の子である。
有政は、武蔵七党児玉党の武蔵国越生郷地頭有平女子と結婚し、越生郷内岡崎村を譲られ、ここで岡崎氏と称していた。
この越生有政は承久の乱(1221年)に参陣する。
そして、その勲功として、貞応二(1223年)に那賀郡(浜田市)宇豆の田数三町八反半を獲得し、移住する。
27.15. 乙吉氏
乙吉氏は本来は曽利氏と名乗って飯田に拠点を持っていた武士と考えられている。
その後、曽利氏は益田荘乙吉郷を所領に持つようになって、当地の「乙吉」を名字に冠し、鎌倉期には益田氏と婚姻関係を結んでいくようになる。
鎌倉御家人としての乙吉氏は、建長7年(1255年)3月15日北条時頼書状案によると、石見国御家人乙吉小太郎兼宗が益田庄内乙吉・土田村を安堵されている。
この時頼書状は乙吉兼宗の訴えに応じて、執権北条時頼が鎌倉幕府の裁判を担当している引付衆に指示を与えたものである。
この書状から、乙吉氏と北条得宗家との深い関わりが想像される。
乙吉氏は得宗勢力に連なる武士だった可能性もある。
27.16. 虫追氏
源茂国の子孫と考えられる南北朝期の虫追政国が長野庄惣政所を称した。
虫追政国は貞応年間(1222年〜1223年)に新補地頭として虫追を領して虫追城を築城する。
虫追政国は南北朝時代には北朝方として活躍した。
27.17. 土屋氏
土屋氏は相模の国中郡土屋郷を本拠とした桓武平氏を始めとする。
この子孫が相模国大住郡土屋(神奈川県平塚市土屋)で、土屋氏を称し土屋宗遠(父は中村宗平で源頼朝の乳母はこの中村氏)と名乗った。
鎌倉幕府成立後、一族は出雲国持田荘や大東荘、法喜庄・末次庄・忌部保・千酌郷などの地頭職、そして石見国安濃郡大田北郷(大田市)などの地頭職を得ていた。
南北朝動乱の時期、土屋氏は北朝武家方で南朝公家方と争っていた。
土屋氏は自ら恩賞を見つけようと決意し、領地が接し南朝宮方の大覚寺門跡領に侵攻し強奪し邑智郡桜井庄(江津市川戸)を手に入れた。
そして、石見守護の上野頼兼を通じて幕府将軍、尊氏に桜井庄領有権を主張した。
幕府は延元3年・暦応元年(1338年)土屋氏の申し出通り領有を認め地頭とした。
この地は海外交易を行うに適した良港があり、土屋氏は以前より狙っていた土地だった。
土屋氏はその後、応永21年(1414年)の都治家騒動で幕府に征伐され、土屋領は没収された。
しかし、土屋氏はその後朝鮮交易などで次第に勢いを盛り返して小地域ながら支配地を持つようになった。
宝徳4年(1452年)土屋氏は谷住郷の地に宇佐から住江八幡宮を勧請し、自らその大檀那となった。
*都治家騒動については後述する。
27.18. 南北朝石見軍記より
「南北朝石見軍記」は昭和51年(1976年)12月1日初版発行された軍記である。
著者は山田木母(本名:山田吉太郎)で石見の人である。
山田吉太郎は昭和26年頃から,石見の歴史に取り組み、石見軍記に関する史書や伝説を集めたという。
ところが、昭和40年7月23日の江川大水害の時に、当時川本町にいた山田は屋上冠水に遭い、多くの資料が流出した、と悔やんでいた。
この軍記は、歴史小説で南北朝動乱期の石見での合戦模様を記述している。
資料は、石見6郡の市町村史や地元の伝説が主体であるという。
その内容は史実として確認できない点もあるが、これまで点としてだけ記録されてきた石見の軍記を有機的に結びつけ、物語として生き生きと表現されており、当時の石見の状況を忍には、格好の書物である。
この軍記によると、元寇への出陣の行賞として石見に新地移封された者が、前に記載した者以外にあったとしている。
ただし、このことは、他の史料では確認することが出来なかった。
ともあれ、それらの名前と移封地は次のとおりである。
いずれも、元寇で戦功のあった九州の肥後の武家である。
ただし、実際に来住したのは、彼らの代理人と思われる。
長瀬七郎武成(邑智郡谷住郷村)
重富与一武村 (那賀郡和田村)
高崎越後守(邑智郡小田村)
狭間大炊助(邑智郡後山村)
佐伯弥四郎政直(邑智郡川戸村)
阿蘇氏の一族で竹崎季長(邑智郡日和村)(注)達である。
(注)竹崎季長は、文永・弘安の役の「蒙古襲来絵詞」を描かせた人物である。
これらの飛領へその一族が入封した。
これらの土地は邑智郡桜井郷で朝廷の荘園領であり、ここに新補地頭が入封したのだから、旧地頭との間で領地争いが当然のように起こったという。
また、西部の美濃郡高津川流域で長野荘を中心に同じような紛争が絶えなかったという。
<続く>