4.2. 人麻呂さんと邑智郡
柿本人麻呂は景雲二年(705年)の頃に石見の国守として那賀郡の恵良(現在の江津市二宮町)に赴任してきたと伝えられている。
石見国とは、今の大田市から益田市までの範囲で、安濃郡、邇摩郡、邑智郡、那賀郡、美濃郡、鹿足郡を含む地域を言う。
国司の主な仕事は、戸籍の作成や班田収授、税の徴収、兵士の招集、裁判などであった。
人麻呂が国司として、どのようなことをしたのか史料が見当たらないので、想像するしかない。
人麻呂は石見守の職務の一つとして、石見国の六つの郡の郡庁を定期的に訪れその土地の状況を見聞したと考える。
邑智郡(延喜式は邑智、和名抄と拾芥抄では邑知と書く)
邑智郡は五郷に分けられていた。各郷を現在の旧町村名を当てて区分すると次のようになる。
1.神稲(くましろ)郷
田所・出羽・高原・阿須那・口羽
2.邑美郷(おふみ)
矢上・中野・井原・川本・祖式・川下・三谷・三原・川越のうちの大貫、渡利、鹿賀
3.桜井郷
日和・日貫・長谷・市山・川戸・谷住郷・川越のうち田津・市木・那賀郡の都川及び和田の大部分
4.都賀郷
布施・都賀・都賀行・谷
5.佐波郷
沢谷・浜原・粕淵・吾郷・君谷
白雉3年(652年)4月
戸籍を作り、50戸を里となし、里毎に長一人を置き戸口を検校し、農桑を課殖し、非違を禁察し、賦役崔駈を掌らしむ。
とある。里は郷と同じであり、一郷は50戸単位で構成されていることが分かる。
邑智郷は5郷であるので、推定戸数は250戸であったと思われる。
但し、1戸の人口に定数は無く、1戸30〜60人であり、多い場合は100人を超すときも会ったという。「一戸の内、たとい十家あるも、戸をもって限りとなす。家の多少は計らざるなり」である。
中国地方の花崗岩系諸岩は磁鉄鉱を含んでいるのが特色で、風化のはげしい山陰では、真砂、埴土の中に含まれた鉄を採集して製鉄業が早くから行なわれており、江戸時代ま では、日本中の鉄の八割までをこの中国山脈の一帯で産出していた。
邑智郡も、砂鉄作業や、たたら製鉄の盛んな土地柄だった。地名にも「釜」や「鍛治屋」などのつく名が今もたくさん残っていることや、石見全体が古代より産鉄が盛んであったと考えられている。
たたらという語は鞴の古語ということになっており、元来は吹子が風を起す装置を意味したが、のちにはそれによって鉄を湧かす炉、 またはその作業場を総称するようになり、高殿と書いてたたらと読ませるようにもなった。
柿本人麻呂は役人として、これらの事業の視察監督をするために巡回していたと思う。
邑智郡の郡庁
人麻呂は視察時には、まず郡庁に訪れ近況を聞き、その後事業現場を回って確認した。
邑智郡の郡庁は、いまの矢上に置かれていたという。
石見町誌(昭和47年5月10日発行:石見町は現邑南町)では、
矢上の苅屋原に郡山(こおりやま)城址があり、その麓に近い田圃に郡石と名づけるかなりの大きさの岩石がある。柚木谷に「高下(こうげ)」の地名が残っている。郡司の住居を郡家、こほりのみやと称したが、高下はこうりのみやけのつまったものと考えられる。
・・・・(中略)・・・・
したがって、矢上の郡山周辺が郡司の所在した中心の場所と決定し得られると思う。
と、矢上に郡司があったと推定している。ただし、この地区に江津の恵良にあるような、郡庁跡とか、郡家跡とかを示す標識はない。
<この八上地区で、春と秋に雲海が発生する>
人麻呂が恵良の国府から矢上の郡庁に行く道筋は二つあったと思う。
一つは、跡市から旭、日貫を通り矢上に行くルートである。
もう一つは、島の星山を抜け、江西駅(現在、人麻呂渡し江西駅と呼ばれている)で江の川を渡り、都治、井田、三原を通り坂本で再び江の川を渡り、牛の市を通って矢上に至るルートである。
柿本人麻呂が坂本で江の川を渡ったことを思うと、1300年前の遥かな昔の万葉の時代のことではあるが、舟に乗って甘南備寺山を仰ぎ見る人麻呂さんを彷彿させ、いろいろな想像が湧いてくる。
柿本人麻呂との関係を匂わす因習もある。
・今は廃れているが、戦後の暫くまで坂本では正月、床の間に、しめかざりをし、餅、海藻と共に柿( 干したもの)を供え、これを拝んでから、雑煮を食べる。その時は、「正月様ござった、どこまでござった、しだを身にきて、つるの葉を笠に来て、門杭を杖について、寺の下の柿の木にとまった」と言って始めていた。
・長谷地区では柿の種を人丸さんとよんで粗末にしないようにしていた。
<続く>