4.3. 人麻呂の終焉の地
柿本人麻呂の終焉の地については大和・近江・石見等の諸説がある。
人麻呂の終焉の地は次の歌を根拠にして探し、推理が展開されているが、決定的な論説は出ていない(恐らくこれからも確証は出てこないだろう)。
題詞:柿本朝臣人麻呂在石見國臨死時自傷作歌一首(柿本人麻呂が死に臨んで作った歌)
・鳴山の岩根しまける われとかも 知らにと妹が待ちつつあらむ (巻二・223)
題詞:柿本朝臣人麻呂死時妻依羅娘子作歌二首(柿本人麻呂の死を知って、妻依羅娘子が作った歌)
・今日今日とわが待つ君は石川の貝に(一に云ふ、谷に) 走りて ありといはずやも (巻二・224) 注)「一に云ふ」:或いは
・ただ 直逢いは 逢ひかつましじ 石川に 雲立ち浸れ見つつ偲ばむ (巻二・225)
この歌の内容から、人麻呂はこの石見の国のどこかで亡くなっていることが想像でき、そして場所の決め手になるのが、歌の中の「鴨山」だといわれている。
また、妻の歌も題詞どおりにうけとめると、妻は人麻呂の臨終の場所とかなり離れた場所でこの歌を詠んだようである。
石見地方においても、昔から美郷町湯抱・江津・浜田・益田等の各地のそれらしき場所を鴨山であるとして柿本人麻呂の終焉の地として個々に石碑や案内板・説明板を立てている。
4.3.2. 美郷町湯抱・江津・浜田・益田以外の説
鴨山は甘南備寺山(白石説)
終焉の地に関する従来の説に対して、鴨山は甘南備寺山であった、と今までにない説を唱える人が現れ、それに関する書籍を発行していた。
その人の名前は白石昭臣である。
白石は昭和10年(1935年)島根県大田市生まれ、國學院大学文学部卒業後、矢上高校・江津高校・大田高校・出雲高校などの教諭、鳥取大学・島根大学兼任講師、島根県立国際短期大学教授、日本民俗学会評議員、日本口承文芸学会理事、島根県文化財保護審議会委員、島根県地名研究会代表などを歴任した。
白石は昭和63年9月に「江の川流域の民族と伝承ー鴨山にも触れてー」を発行し、この中で柿本人麻呂の終焉の地は甘南備寺山であると説いた。
前後の文脈は省くが、白石の本の中の一部を次に記す。
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鴨山について私見を述べて、この終焉歌の地をここと定めるものである。これを具体的に言えば、
①柿本族は山中を他界とする一族
②挽歌にはその根底に二分化の論理がみられ、人麿挽歌群もこれに該当する。
③叙上の点から、鴨山は島根県邑智郡桜江町の甘南備寺山である。
という三点に要約できる。
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ともあれ、この甘南備山を中心に周辺は開かれていったであろう。 この地は水陸両方の要地でもあったと思われる。 江川の古名をこの周辺では石川ともいうが、この山はまた山と水両様の信仰をもつ聖なる山でもあったろう。
柿本人麿は、石見で実際にみまからむとするに当っては、石見の国魂や祖霊の鎮ります鴨神の宿るこの邑智郡桜江町川越の甘南備山、鴨山を詠い籠めずにはいられなかったと考えられる。この山は県とあるように宮廷との関わりは濃く、それ故に終焉歌は鎮魂の意味を籠めながら伝承され、留魂鳥鴨鳥の飛び行くように宮廷にも運ばれる。 そして二分化の論理の働くままに歌群をなし、やがて万葉集にも定着したろう。あるいは終焉歌の誕生時に、そのいくつかは作製されていたとも考えられる。いずれにせよ、その鴨山こそ、この甘南備寺山に他ならないと、私はいまここに定めるものである。
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鴨山は矢上にある(蓮沼説)
平成4年(1992年)に蓮沼徳治郎が「人麻呂渡し」という本を書き、その中で「柿本人麻呂の終焉の地は邑南町の八上である」との説を唱えた。
蓮沼は明治41年の生まれで、昭和7年に早稲田大学文学部を卒業後、昭和27年から京都府立城南高校の国語教師として勤務、昭和50年に退職した。
蓮沼がこの考えに辿り着いたきっかけは、人麻呂が江ノ川の西側から東側に渡った地点にある道標を見た時から、だそうである。
その道標には「柿本人麻呂が上来の途此処で江川を渡ったと昔から伝えられている」と記されていた。
これを見て蓮沼は山陰道を行くつもりなら、高角山を降りた後、何故人麻呂が江西駅(現在の江津)を目指さずに、ここで江川を渡ったのかを考えた。
そして蓮沼はこの道標に記載されている「上来」の意味を考え、「上来」とは刑を執行するための行程と考えたのである。
その結果、出した結論は、人麻呂は刑の執行のために「国府であった恵良→高角山→人麻呂渡し→谷住郷→三原→坂本→渡田→牛の市→弓張→中野→八上」まで旅し、八上の鴨山で処刑された、という結論に達した。
邑南町八上には今も鴨山と名付けられている山がある。
また、矢上から江川に注ぐ支流の濁川は古来石川とも呼ばれ「屋上の山」として一連の八上の山が周辺に聳え立っているので、この場所が人麻呂の終焉の地と考えても、根拠のないことではない。
さらに、蓮沼は、
人麻呂は大和生まれの大和育ちで、妻の依羅娘子も大和出身の子女であった、と考えた。
そして蓮沼は、当時は流罪が確定したら、妻妾を同伴しなければならないという律令条文があり、人麻呂の流刑に依羅娘子も石見に同伴したものと考えた。
それで、石見に来たのは処刑されるために来ただけであり、石見には10日前後の滞在しかなかったので、浜田も益田も人麻呂とは全く関係がなかった。
と述べている。
柿本人麻呂の終焉の地の論争はまだまだ続きそうである。
<続く>