14世紀末から15世紀にかけて平良を拠点としていた、
与那覇勢頭豊見親の孫、大立大殿は、父の泰川大殿が重い病のため隠居し、
二人の兄も早くに亡くなったため、
家督を継いで首長として宮古島を納めていた。
ある日、大殿は部下を伴いピキャズへ漁に行く途中、
畑で使用人たちに見事な指揮をしている子供を見かけた。
その子供に興味を持った大殿は声をかけた。
「お前はどこの家の子か?」
「私は根間の大親の養子で空広(そらびー)と言う者です。」
この時空広は7歳。
先ほどの指揮ぶりといい、堂々とした受け答え、
面白い子供に出会ったと喜んだ大殿は
空広を誘ってピキャズに漁にむかった。
この日の漁は大漁で、大殿は空広の知恵を試そうと
「とれた魚を人数分に配分せよ。」
と申し付けると空広は見事に公平に配分した。
空広の聡明さに大殿は感服し、それからは自分の子供のように
空広を可愛がって教育を施し、やがて政務を
手伝わせるようになった。
こうして大殿の元で教育を受けた空広は、
のちに大殿の後継者となり、宮古島を納めるようになった。
この空広というのが仲宗根豊見親のことである。
宮古島の歴史に仲宗根豊見親が最初に登場してくる話し。
ピキャズというのはパイナガマビーチの先端にある
「通り池」のような、規模の小さい陥没ドリーネのこと。
円形の穴が開き、アーチ状の横穴で海と繋がっている。