佐野元春が好きだから、そのことを書く。
このひとが、1980年代、
説得力に富んだ美学的ロジックでもって、
日本語ロックというジャンルを一変させた人であることは
いうまでもない。
当時の年齢は、まだ20代半ばでしかなかった。
しかも、デビューして数年は鳴かず飛ばずだった。
といって、佐野さんに悲壮感はなかったように思う。
不遇時代のリリックもメロディもじつにあかるく、
世間(シーン)を呪うということもなかった。
それどころかその当時の楽曲は「元春クラシックス」として、
今では絶大なる支持を得ている。
どうも、こんな境地は努力して得られたものじゃなく、
単に佐野さんの性分にちがいない。
このことも、ロックグレイツになった現在からみれば、
ファンである僕たちには悲しみをともなうほど爽やかである。
だから僕は、佐野元春が好きなんだ。
デビューして最初の3~4年で、
佐野元春は佐野元春そのものを確立し、
日本語ロックの基礎的な部分に徹底的な変革をあたえた。
このことは佐野さんらしい陽性の使命感からでていて、
私欲(商業的成功)という夾雑物は微塵もみられない。
欲望というのは、
サブカルチャーやカウンターカルチャーへの好奇心だけだった。
並外れた好奇心の量の多さが、
自らの表現のフェイズを奇跡のように更新しつづけた。
僕は、若いころ、
ヒップホップやポエトリー・リーディングというのがよくわからず、
佐野元春といえばその初期の16ビートだけを愛した。
物や事を、えぐりとった肉塊や目方を量るようにしてつかみつつ、
その表現には虚飾や冗漫がない。
措辞や音律に生きている人間そのままの体温と膚質の湿りを感じさせるという音楽は、
べつの見方でいえば、渋谷揚一のロック評論とともに
日本語ロックの第一期の完成をなしたともいえる。
佐野さんは、大マジメな人だと思う。
が、どこか可笑しい。
知性とユーモアの案配のよさが、
僕たちを佐野元春に惹きつけているのかもしれない。
このひとが、1980年代、
説得力に富んだ美学的ロジックでもって、
日本語ロックというジャンルを一変させた人であることは
いうまでもない。
当時の年齢は、まだ20代半ばでしかなかった。
しかも、デビューして数年は鳴かず飛ばずだった。
といって、佐野さんに悲壮感はなかったように思う。
不遇時代のリリックもメロディもじつにあかるく、
世間(シーン)を呪うということもなかった。
それどころかその当時の楽曲は「元春クラシックス」として、
今では絶大なる支持を得ている。
どうも、こんな境地は努力して得られたものじゃなく、
単に佐野さんの性分にちがいない。
このことも、ロックグレイツになった現在からみれば、
ファンである僕たちには悲しみをともなうほど爽やかである。
だから僕は、佐野元春が好きなんだ。
デビューして最初の3~4年で、
佐野元春は佐野元春そのものを確立し、
日本語ロックの基礎的な部分に徹底的な変革をあたえた。
このことは佐野さんらしい陽性の使命感からでていて、
私欲(商業的成功)という夾雑物は微塵もみられない。
欲望というのは、
サブカルチャーやカウンターカルチャーへの好奇心だけだった。
並外れた好奇心の量の多さが、
自らの表現のフェイズを奇跡のように更新しつづけた。
僕は、若いころ、
ヒップホップやポエトリー・リーディングというのがよくわからず、
佐野元春といえばその初期の16ビートだけを愛した。
物や事を、えぐりとった肉塊や目方を量るようにしてつかみつつ、
その表現には虚飾や冗漫がない。
措辞や音律に生きている人間そのままの体温と膚質の湿りを感じさせるという音楽は、
べつの見方でいえば、渋谷揚一のロック評論とともに
日本語ロックの第一期の完成をなしたともいえる。
佐野さんは、大マジメな人だと思う。
が、どこか可笑しい。
知性とユーモアの案配のよさが、
僕たちを佐野元春に惹きつけているのかもしれない。
えへへ、偉そうな猫で恥ずかしいな。
私はヘッセの詩がとても好きでした。
ロックは今はあまり、聴きません。
サザンがロックなら、昔の曲だけは口ずさめる。
あと、忌野さんは面白い歌でした。
ビート世代って理由なき反抗から、理由ありの反抗になったような感じなのでしょうか?
それも変?ボヘミアンって、放浪する人?特定の社会に属さないで?
コヨーテって、草原の狼とか、砂漠の狼とか言われているそうですね。
そんな感じの人で、そんな感じの歌なんでしょうね。
でも、海まで行ったら、きっと犬掻きでしょ。どうするんでしょうね。
アホなことを書きました。でも少しだけわかるような。ありがとうございました。いい歌だといいです。
機会があったら、聴いてみます。
ヘッセの詩「赤いブナの木」に自作の曲をつけたということらしいです。
僕の独断ですが、アルバム『 COYOTE 』は
ヘッセの『荒野のおおかみ』にインスパイアされて構成されたのではないかと思っています。
ギンズバーグが亡くなる10年ほどまえ(1986年?)、
インタビュアーの
「ビートニクスの流れをくんだムーヴメントや人は、今でも存在していますか?」
の問いに、つぎのように答えていました。
それはね、時代によって呼び方が変わるものなんだ。
でも、基本的には“ボヘミアン”として生き続けている。
ボヘミアンとは、インターナショナル・マナーを持ち、
自分の心、自分の肉体、自分のセックス、自分のアート、自分の結婚、自分の生活、自分の人生
をよく把握している人のこと。
そして自分自身の検閲からも、自分自身の抑制からも自由で、
実験の心を持ち続けている人のことなんだ。
ビートニクス?とは正反対だと思って、両方の価値観や理想が勉強になったわと思っていました。
だけど、違うのかも知れない。
心の芯に、共通するものがある。
一見、正反対なんだけど。抗う自由と、従う自由のような。
二重の虹が、一つの空にあるよう。
今日のネットのニュースの写真のように。
自由が溶け合うような、不思議な邂逅です。
うまく言えないけれど、私は両方に感動します。その溶け合う光を心に刻みたいな。
桐箱やさん、ありがとう。
自分のこれからのことを啓示しているような詩。
これからが今になっている、と、実感するのが大体元春の年齢から+6歳くらいの周期で訪れます。
そこにいつも感銘を受けてしまいます。
>佐野さんは、大マジメな人だと思う。
>が、どこか可笑しい。
そこも重要なポイントですね。
大マジメだけであれば、既に元春の詩は埋もれてしまっているような気がします。
と、佐野さんはザ・ソングライターズのなかで仰ってましたよね。
銀次さんが佐野さんの音楽について、
「詩もサウンド・プロダクションも、時代を超えている」
というようなことを述べていました。
その時代の表現をしてるんだけど、古臭くならない(普遍性がある)みたいな。
「ポピュラー 音楽のソングライターこそが現代の詩人」
とも、佐野さんはいっています。
若いころサウンドや詩の耳障りの格好良さだけで聴いてた歌が、
歳をとるにつれて心に響いたりしますよね。
ブログ、読み逃げばかりしてますが、
いつも楽しく拝見させていただいています。
コメント、ありがとうございました。