北関東の宮彫・寺社彫刻(東照宮から派生した宮彫師集団の活躍)

『日光東照宮のスピリッツ』を受けついだ宮彫師たち

彫工 礒辺家(礒辺流)の系譜

2018年11月27日 | 総論 
ここでは、栃木を中心に活躍した彫工・礒辺家について紹介します (私見が混ざっております)。
花輪出身の高松又八は幕府お抱えの彫物大工棟梁となり、多くの弟子を抱え、江戸時代後期の石原、石川、後藤、小沢の流派につながっていく。
以前、当ブログ 「上州の宮彫師たち(上州彫工集団)とその周辺」で紹介しました。

伊東龍一氏がまとめられた、関東彫物大工の系譜(文献1)は、三代後藤茂右衛門(後藤正常)が、文化7年(1824)に記述し、さらに後世の人間(弟子)が追記した系譜「彫工左氏後藤氏世系図」(系譜①)で、現在原本は東京国立博物館に所蔵されている。寺社彫刻の系譜に関しては第一級の資料である。大変興味深いもので、小沢家の常足の弟子に、「常足門人 信州諏訪和四郎」とあり、これが諏訪立川流の初代立川和四郎冨棟の彫工としての出自になります。

・「彫工左氏後藤氏世系図」(文献1より)


・「彫工左氏後藤氏世系図」の部分(磯辺家)(文献1より)


 この系譜「彫工左氏後藤氏世系図」(系譜①)は、左甚五郎から後藤家につながる系譜を中心に書かれたもので、高松又八の後、花輪を中心として活躍した上州彫工集団の石原吟八郎―常八の系譜は抜けていて、作者の後藤正常が意図的に記述したのではないかと推測される。系譜①で、後藤家と非常に近い間柄であった磯辺家は、優れた名工を輩出しており、栃木を中心として鹿沼周辺の屋台、寺社彫刻を残している。
 今回は、日光例幣使街道の富田宿(現在の栃木市大平町)を拠点とした磯辺(磯邊)家の系譜について、地元郷土史家であった津布楽寅雄氏(文献2)、関忠次氏(文献3)の地元密着の研究成果が、系譜①と一部異なることが明らかにされた。本ブログではそちらを重視し系譜②を作成した。

・系譜②磯辺家とその周辺の系譜(津布楽、関氏の研究から作成)



 系譜②は、伊藤龍一氏の系譜①と多少違う点がある。師弟関係を青線、血縁関係を赤線にした。◆は後藤正常の門人。(★)は、同一人物。
 礒辺家の初代儀左衛門(信秀)であるが、①では、後藤正綱の門人となっているが、結城住の竹田藤重郎(結城在小森村)を師としている。初代儀左衛門(信秀)の二男である秀融は、三代後藤正常に子が無かったために、四代後藤茂右衛門(後藤流本家)を継いだ(系譜①では、四代後藤流を継いだのは、知英の長男としているが、系譜②では知英の弟になる)。磯辺信秀が、後藤正常と懇意であったと考えられ、二男の秀融を後藤家に養子に出しただけでなく、長男の知英(二代儀左衛門)の子3人とも後藤正常の門下に入れている。礒辺家は、長男知英の流れの本家・儀左衛門家と、三男の隆顕の分家・儀兵衛家)に分かれる。各個人を以下に紹介する。

●初代儀左衛門 礒辺信秀(磯辺家の祖)
  上州沼田から富田宿(現栃木市)に移住した刀匠の家。(高松又八も沼田出身)。刀鍛冶のかたわら木彫について、結城の竹田藤重郎を師事し、彫工として磯辺家の礎となった。
 大前神社本殿修復(真岡市)、城宝寺本堂(鹿沼市見野)
 大前神社(真岡市)の本殿扉の上の羽目彫刻に墨書で、「下総国結城領小森村住 彫物師竹田藤重郎門弟 下野国都賀郡富田町住 彫物師磯部儀左衛門信秀 頓主敬白 宝暦十二年午ノ四月二十四日 御本社御彩色仕候以上」とあり(文献6)。-当ブログ「大前神社」の項 参照を
 城宝寺本堂、外陣欄間の背面に「安永三甲午 富田住 儀左衛門 信秀彫刻之」とあり(文献6)。

●二代儀左衛門 磯辺知英 (ともひで:信秀の長男) 寛政四(1792)没
 事績は不明。

●礒辺秀融 (ひであき:信秀の二男) 天保十三(1842)没
 父の初代・信秀の勧めで、後藤正常の養子となり四代後藤茂右衛門を襲名(後藤正響と同一人物)。その後、養家の後藤家を出て絵師の道に入り、法印の位まで上り詰めている。号 五楽院等随。
・大平山神社随身門の天井画(写真:「等随」の印、「礒辺法眼」銘あり)



●初代儀兵衛 礒辺隆顕 (信秀の三男) 文政四(1822)没
 彫工に専念した。磯辺家分家として初代儀兵衛と名乗るが、吉信、英信、左木斎、左甚五郎十二世とも名乗る。文政四年没。
 ・真壁八柱神社本殿、大川島神社本殿(小山)、久我神社本殿(鹿沼)
 八柱神社本殿 彫刻裏面に「下野国都賀郡 富田駅住 彫工 磯辺義兵衛 英信 旹天明五巳年三月吉日」墨書あり(文献6)


●礒辺秀重(知英先妻の子) 宝暦十(1760)生
 後藤正常門人。二柱神社本殿(佐野市)が代表作。三代儀左衛門を継ぐも辞して、諸国遍歴し、没年は不明。
 二柱神社(佐野市、写真)、日吉神社(鹿沼市下南摩町)
 ・二柱神社本殿琵琶板裏に「奉敬彫刻鏡板 獅子花三彫之 干時 天明二壬寅末春大吉辰」「武城神田 後藤正常 門弟 埜刕都賀郡 富田住人 磯邊信秀 三世孫 主祢正藤原秀重 行歳二十三歳彫刻之」の墨書あり(文献6)。


 ・日吉神社向拝龍の裏面に、「同国富田住 後藤氏門弟 磯邊信秀三代千治秀重 行歳二十二歳 彫刻ス」と刻銘あり(文献6)。

@二柱神社本殿が天明二年に、初代信秀の孫 秀重により作られ、三年後の天明五年に八柱神社を義兵衛英信(初代信秀の名代として)手がけた。

●三代儀左衛門 磯辺信秀 (二代儀左衛門・知英の子)明和二(1765)-嘉永六(1853)
 後藤正常門人。幸次郎、歳重、凡龍斎。兄(磯辺秀重)の出奔後は本家継ぎ、四代目を継いだ(後に三代としている)。
 鹿沼下材木町屋台(写真)、鹿沼銀座一丁目屋台。







●磯辺正秀(二代儀左衛門・知英の末子) 安永元(1772)生―天保十三(1842)没
 日光東照宮の落雷後の再建で、彫物方棟梁を務めた。磯辺の縁戚に養子に入る。
 日光五重塔(写真)、鹿沼上田町屋台、鹿沼仲町屋台、徳次郎町上町屋台



・鹿沼上田町の屋台の旧パーツ(明治の火災で焼失、残存した部分が屋台蔵に収蔵) 「文政五年六月 正秀作」


・東箭神社本殿(栃木市) 刻銘「日光五重御塔 彫物方棟梁 後藤周次正秀作」 日光東照宮の業績は、大きい事がわかります。



●二代儀兵衛 磯辺隆信 (初代儀兵衛 礒辺隆顕の長子) 明治十一(1878)没
 今宮神社唐門(鹿沼、写真)、宇都宮伝馬町屋台、大川島神社向拝、金井神社本殿



●三代儀兵衛 磯辺敬信(二代儀兵衛 礒辺隆信の子) 文政十一(1828)-明治三十(1897)
 幼名、平五郎。大前神社、成田山太子堂、鹿沼銀座二丁目屋台、天神町屋台(写真)


野木神社本殿 胴羽目(後補) 磯辺敬信


磯辺家以外では
●石塚直吉知興
 初代儀兵衛・隆顕の弟子。田沼宿生。鹿沼に移住。
 鹿沼上材木町屋台、鹿沼戸張町屋台(写真)



●石塚直吉吉明(知興の子)
 徳次郎町中町屋台、鹿沼戸張町、鹿沼下田町屋台
・下田町屋台

・今宮神社本殿(鹿沼) 後補の胴羽目


●石塚直吉吉勝(吉明の子)

●神山政五郎 
 「菊政」とも呼ばれる。石塚知興の弟子。鹿沼の上久我出身。石塚家をともに鹿沼の屋台を手掛ける。
 今市春日二丁目屋台。石那田桑原屋台。

*磯辺家の菩提寺は、地元の富田字永宮にあった地蔵院宝院であるが、嘉永4年(1851)の富田宿の火災で文書は焼失、寺も移転している。墓地はそのまま旧寺院跡に残り、礒辺家の墓もある。
富田宿と日光例幣使街道


参考文献
1.伊東龍一:「関東の彫物大工の系譜と幕府彫物大工棟梁高松家」、日本建築学会計画系論文報告集 第420号、P.71‐81、1991
2.津布楽寅雄:『とらおの富山史一項、郷土の名彫刻師の事績』、昭和61年
 -この富山(とみやま)は、富山県ではなく、現栃木市大平の旧・富山村のことで、明治22年に富田村(富田宿のあった村)、西山田村、下皆川村が合併して富山村となった。津布楽寅雄氏は、若い時に近衛兵として天皇家で従事され、その後、山仕事(主)と農業を営み、53歳で脳梗塞を発症し左半身麻痺となった。失意の中、奮起され全く畑の違う郷土史研究をはじめられ(師匠として白石忠孝氏)、先達の島田常八郎翁(安政元年生)が調べた文書を元に、磯辺家の研究を行い、まとめたものが「とらおの富山史一項」である。さらには平成12年に「とらおの富山史二項、通史ふるさとの神社仏閣」を刊行されている。92歳で残念ながら亡くなられている。
3.関忠次:『近世社寺装飾彫刻画題考 社寺の彫刻を訪ねて』、平成3年
―関忠次氏は、津布楽寅雄氏と同郷の方で、『とらおの富山史一項』の出版友愛会の事務局を務めた方で、白石忠孝氏とともに津布楽寅雄氏の右腕となって研究調査を支えた方です。磯辺家の系譜は、津布楽寅雄氏、関忠次氏の両氏の努力によって明らかにされたといっても過言ではありません。
4.大野恵子:「磯辺家研究―生み出された彫刻と絵画―」、文星芸術大学大学院研究科論集第二号、p55-67、平成十九年
5.池田貞夫、黒崎孝雄:『とちぎの屋台と山車』、平成十年
6.田野井 武:「彫工磯辺儀左衛門信秀一族」、鹿沼史林 第37号、p76-100、1997

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