元和二(1616)年四月二日死期を悟った家康公は、崇伝、天海、本多正純を呼んで遺言を残したとされます(『本光国師日記』)。その内容ですが、「臨終候はば、御体をば久能へ納め、御祭礼をば増上寺にて申しつけ、御位牌をば三河大樹寺に立て、一周忌も過ぎ候て以降、御体を日光山に小さき堂を建て勧請し候へ、八州の鎮守に成りなさるべし」になります。家康公は四月十七日に駿府城で亡くなったとされます。同日の夜に久能山に . . . 本文を読む
七代将軍家継公は、宝永六(1709)年の生まれで、先代の文昭院殿の第4子で母は左京の局(月光院)でしたが、家宣正室の天英院が養育しました。正徳二(1712)年十月に父が急逝したため、後を継いだが幼年(満三歳)であり、先代の臣下であった側用人 間辺詮房と新井白石が幕政を補佐したため、将軍の権威が弱体化したことは否めませんでした。さらに七代家継公は正徳六(1716)年四月に急逝してしまいました。その後 . . . 本文を読む
六代将軍家宣公は、父が甲府宰相とよばれた徳川綱重(家綱、綱吉と兄弟)になります。五代将軍綱吉公に嗣子がなかったので、綱吉公の兄の子として世子になりました。綱吉公が麻疹で亡くなった宝永六(1709)年に将軍になりましたが、正徳二(1712)年十月に病で亡くなられました。宝永四(1707)年に富士山の大噴火の復興の途中であり、将軍の在職期間は約四年と短かったですが、新井白石を重用し、生類憐みの令を直ぐ . . . 本文を読む
五代将軍綱吉公は、宝永六(1709)年一月に亡くなられています。その霊廟は、上野寛永寺の厳有院(四代将軍 家綱公)の霊廟の隣にあります。寛永寺は東叡山と呼ばれ三代家光公が創建したもので、東の比叡山という名前からも比叡山延暦寺を倣って、初代トップであった天海上人が主導して作られました。四代家綱公には子がいなかったので、弟の綱吉公が将軍を継いでいます。綱吉公の生母は桂昌院で、その宝塔は増上寺から狭山 . . . 本文を読む
四代将軍家綱公(厳有院)の霊廟は、上野の寛永寺にありましたが、戦火で焼失しています。
家綱公は、延宝八(1680)年に亡くなられました。本来であれば、徳川家の菩提寺であった増上寺に霊廟が造営されるはずでしたが、父家光公の供養塔のある寛永寺に葬られることを希望したとされます。
その理由として、家綱公の誕生にあるとされます。寛永十七(1640)年世嗣がいなかった家光公は、天海に祈祷を依頼し、その翌年に . . . 本文を読む
徳川三代将軍 家光公は、慶安四(1651)年四月に亡くなりました。霊廟は2カ所つくられ、一つは日光の現在の輪王寺大猷院であり、もう一つは上野の寛永寺内の供養塔で享保五(1720)年に焼失しました。家光の希望で、敬愛していた家康公と天海上人の眠る日光山へ遺骸は埋葬されました。寛永寺には、供養塔(遺品、毛髪、爪などを収めた)と位牌所が造られました。
日光の大猷院の配置図
他の将軍のものと比較しま . . . 本文を読む
二代秀忠公は、天正7(1579)年7月7日生まれ、寛永9(1632)年1月24日に亡くなられています。
二代将軍以降は、家康公と異なり純粋な仏式で葬儀が行われ、家康の「東照大権現」という神仏習合の名前とは異なり、院号になります(以降の将軍も同じですが、十五代慶喜公は例外)。二代秀忠公は「台徳院」と呼ばれ、正室のお江の方(祟源院)とともに徳川家の菩提寺である増上寺(浄土宗)に、三代将軍家光公によって . . . 本文を読む
前に当ブログで「日光東照宮-宮彫師の原点」で、東照宮の概略を紹介しました。本項では、奥社の宝塔をもう少し掘り下げたいと思います。
日光東照宮奥社 宝塔
現在の銅製の宝塔は三代目になります。初代は木造で家康公(東照大権現)没年の元和五(1619)年の2年後に着工されています。増上寺の二代将軍秀忠公(台徳院)の宝塔も木造でしたので、元和期の宝塔は木造が一般的であったと思われます。三代家光公の行っ . . . 本文を読む