黄金期の中国
17~18世紀、清朝の中国はその黄金期を迎えた。順治帝の時代(1643-1661)に明が滅亡し、清は北京に入城。順治帝は6歳で即位し、兄達の抗争、兄の摂政としての専横に遭うが、その兄が死に親政が始まってからは内政の改革と漢文化の普及に努めた。鄭成功の北伐を阻止して国内を平定した。宦官が政治に関与することを厳重に禁止した。順治帝は狩猟を好み、非常な読書家で書道、山水画を趣味とした文化人であったが、惜しくも24歳で天然痘により急死した。
順治帝の後が、康熙・雍正・乾隆、清王朝の最盛期である。康熙帝(1661-1722)は清の第4代、西洋文化を積極的に取り入れ、唐の太宗とともに、中国歴代最高の名君とされる。幼児の時に疱瘡にかかり城外に出された康熙帝は、乳母の手で育てられたため、人間形成の大事な時期に庶民の中で育ち、宦官によるいびつな教育を受けなかった。雲南・広東・福建で独立国のようだった呉三桂らの三藩を廃止して反乱軍を破り、次いで台湾を制圧した。ロシア帝国と国境に関する条約を結び、モンゴル次いでチベットを実質支配下に置いた。
康熙(こうき)帝は毎年夏になるとモンゴルに行き、テント生活をして狩猟を行った。生涯に虎135頭、熊・豹30頭、狼96頭を倒したという。また自ら倹約に努め、明代に1日で使った費用を1年間の宮廷費用とし、使用人を1万人から数百人に減らした。その結果国家の財政は富み減税をたびたび行った。朱子学に傾倒して血を吐くまで勉強し、数々の書籍の編纂を行いイエズス会の宣教師には実測による中国地図を作製させた。孔子の著書の大半や多くの古典を暗記し、西洋の学問へも深く興味を持ち、幾何学、科学、天文学を学んだ。飢饉の時には税を免除して米倉を解放し、被害の大きい地域には米と金を分配した。康熙帝は時折巡幸して国民と官吏を視察した。その時には身分の低い者でもそばに行って話が出来た。生活は質素で、食事も衣服も一般のものを使用した。しかし反乱が起きた際は、不眠不休で連日連夜に渡り会議を行って命令を下した。皇子の教育にも熱心で、馬術・弓術・銃術を教え過保護を退けた。
雍正(ようせい)帝(在位1722-1735年)は康熙帝の第4子、清朝、満州族には長子相続の慣習はない。長寿の康熙帝の後を継いだので、即位は45歳である。康熙帝は次男を寵愛し2歳で皇太子とした。しかしその皇太子は地位に安住して遊び歩き、賄賂を取りついには父を亡きものとするクーデターに手を染めた。そこで康熙帝はやむなく皇太子を廃し、以後新たに置くことはなかった。康熙帝が病を得て崩御すると、遺詔によって雍正帝が指名され即位した。
しかしその経緯には不明な点が多い。病床にいた取り継ぎの者が、「伝位十四子」の「十」に加筆して「伝位干四子」(皇帝の位を四皇子に伝える)と書き換えたともいう。雍正帝は皇位継承の暗闘を経験したことから、皇太子を擁立しないことにした。皇位継承者の名を書いた勅書を封印して、玉座の後ろに隠し、崩御後に一定人数が立ち会って開く方法を考案した。
雍正帝は史上まれに見る勤勉な皇帝で、毎晩遅くまで政務に当り、大量の上奏文の全てに目を通した。満州語なら満州語、漢文には漢文で書きこみ、睡眠は4時間に満たなかった。また倹約に努めて紙は裏返して使い、みすぼらしい建物で政務に打ち込んだ。仏教に帰依して、制度としての奴隷を廃止した。言語は南京官話でなく北京官話を普及させた。チベット、モンゴルに勢力を拡大して、ロシア帝国と条約を結び国境を定めた。
しかし負の側面もある。父の康熙帝も行っていた文人弾圧をより強硬に行い、何冊もの本を禁書とした。清朝を批判する者に対しては厳罰で臨んだ。至る所に密偵を潜り込ませ、独裁的に決裁を行う軍機処を創設し、閣臣たちに口出しをさせなかった。
その死はかつて処罰した者の遺族による暗殺とも、働き過ぎによる過労死とも云われる。
そして乾隆(けんりゅう)帝(在位1735-1796年)に至って清朝はその黄金期を迎える。乾隆帝は第4子で、祖父康熙帝に幼い時からその聡明さを愛された。25歳で即位する。祖父、父とは違い、派手好みの性格であった。乾隆帝の功績としてまず挙げられるのが、「十全武功」と呼ばれる10回の外征である。即ち、清・ジュンガル戦争、四川の金川、対グルカ戦=清・ネパール戦争、回部(ウイグル)及びバタフシャーン、台湾、緬甸=清緬戦争、越南。2回繰り返した戦争もあり、合計すると10回の遠征になる。乾隆帝はこの10回の遠征を誇り、自身を十全老人と呼んだ。実際には西域で大苦戦し、越南と緬甸では実質的に負けていたのだが、清の版図は最大規模に広がり、緬甸、越南、ラオス、タイ等が朝貢するようになった。しかし苗族の反乱(二回)や白蓮教徒の乱が起きた。
乾隆帝の時代にイエズス会の活動を禁止し、完全な鎖国体制に入った。このためのちに欧州諸国や日本の侵攻に対する清政府の抵抗力を奪ってしまった。しかしそれは後世の話だ。康熙・雍正期の繁栄に支えられて国庫が充実していたため、乾隆帝はしばしば減税を行った。古今の優れた書物を書き写し保存する、文化的大事業である『四庫全書』の編纂を行い、乾隆帝自身も中国の伝統的な文物をこよなく愛し、優れた美術・工芸品を全国から収集した。また本人も数多くの漢詩を書き残している。文化が蘭熟し、宮廷はきらびやかに飾られた。まさに清の絶頂期であった。
乾隆帝の時代、中国の人口は倍に増えたという。正確には分からないが、3億が6億になったとかいう話だ。一代の王の在位中にこんな繁栄を迎える事は珍しい。乾隆帝は治世60年に達し、祖父康熙帝の61年を越えてはならないとして譲位し太上皇となるが、実権は手放さずに院政を敷いた。しかし退廃への芽生えが出始めた。乾隆帝は晩年に、ヘシュンという奸臣を重用して文字の獄と呼ばれる思想弾圧を行い、多くの人々を処罰し禁書も厳しく実施した。
乾隆上皇が生きている間はヘシェンの跳粱は放置され、宮廷の内外は綱紀が弛緩した。ヘシェンは上皇の死後直ちに死を賜ったが、没収された私財は国家歳入の十数年分に達した。なお1928年国民党の軍閥によって、乾隆帝と西太后の陵は墓室を暴かれ徹底的な掠奪を受けた。ラストエンペラー溥儀には衝撃的な出来事だったそうだ。
乾隆帝の没年は1799年、清朝がアヘン戦争(1840-1842年)とアロー戦争(1856-1860年)で英仏に負け、西太后(1835-1908年)の闇黒時代を迎えて西欧と日本の帝国主義国家に食いものにされるのは、目と鼻の先である。
さて乾隆帝には香妃(ホージャ)という素敵な妃がいた。香妃は乾隆帝の41人いる妃の中で唯一のウイグル族から来た女性で、55歳で亡くなり手厚く葬られている。彼女の本名は容妃(ホージャ)なのだが、香水をつけなくても体中から砂棗の花の芳しい香りがただようことから香妃と呼ばれた。香妃は乾隆帝に深く愛され、巡幸によく同行している。宮中ではイスラムの服装を身につけたり、ウイグルの専属料理人を置いていた。墓所はイスラム様式で、ウイグル語が刻まれている。
ところが後世香妃の物語は、色々異説はあるがイスラムの教えに殉じた悲劇の姫になった。皇帝の求愛を拒み続け、皇帝の母によって死を賜ったという。倒れてもなほ妖しい香りを放つ香妃の遺体は、3年かけてカシュガルに運ばれ、妃の母の隣りで永遠の眠りについたという。何故事実と異なり悲劇にすり替わってしまったのか。おそらく清朝末期の革命の気運が高まった時、民族意識を高揚させるためにそのような話が作られたのではないか。
清朝の皇帝(特に最初の康熙帝)は良い王様達だった。漢民族ではないから、という抵抗は中国人の間では小さかったのではないかな。どっちにせよ、天子などは雲の上に存在。清朝でも満州人は少なかったから、目に見える役人は全て漢人だ。税金が安くて平和が続くなら、天辺が何人であろうが構わない。ただあの髪形(豚の尻尾)は頂けないが。ドライでニヒルな中国人はそう思っているだろう。
17~18世紀、清朝の中国はその黄金期を迎えた。順治帝の時代(1643-1661)に明が滅亡し、清は北京に入城。順治帝は6歳で即位し、兄達の抗争、兄の摂政としての専横に遭うが、その兄が死に親政が始まってからは内政の改革と漢文化の普及に努めた。鄭成功の北伐を阻止して国内を平定した。宦官が政治に関与することを厳重に禁止した。順治帝は狩猟を好み、非常な読書家で書道、山水画を趣味とした文化人であったが、惜しくも24歳で天然痘により急死した。
順治帝の後が、康熙・雍正・乾隆、清王朝の最盛期である。康熙帝(1661-1722)は清の第4代、西洋文化を積極的に取り入れ、唐の太宗とともに、中国歴代最高の名君とされる。幼児の時に疱瘡にかかり城外に出された康熙帝は、乳母の手で育てられたため、人間形成の大事な時期に庶民の中で育ち、宦官によるいびつな教育を受けなかった。雲南・広東・福建で独立国のようだった呉三桂らの三藩を廃止して反乱軍を破り、次いで台湾を制圧した。ロシア帝国と国境に関する条約を結び、モンゴル次いでチベットを実質支配下に置いた。
康熙(こうき)帝は毎年夏になるとモンゴルに行き、テント生活をして狩猟を行った。生涯に虎135頭、熊・豹30頭、狼96頭を倒したという。また自ら倹約に努め、明代に1日で使った費用を1年間の宮廷費用とし、使用人を1万人から数百人に減らした。その結果国家の財政は富み減税をたびたび行った。朱子学に傾倒して血を吐くまで勉強し、数々の書籍の編纂を行いイエズス会の宣教師には実測による中国地図を作製させた。孔子の著書の大半や多くの古典を暗記し、西洋の学問へも深く興味を持ち、幾何学、科学、天文学を学んだ。飢饉の時には税を免除して米倉を解放し、被害の大きい地域には米と金を分配した。康熙帝は時折巡幸して国民と官吏を視察した。その時には身分の低い者でもそばに行って話が出来た。生活は質素で、食事も衣服も一般のものを使用した。しかし反乱が起きた際は、不眠不休で連日連夜に渡り会議を行って命令を下した。皇子の教育にも熱心で、馬術・弓術・銃術を教え過保護を退けた。
雍正(ようせい)帝(在位1722-1735年)は康熙帝の第4子、清朝、満州族には長子相続の慣習はない。長寿の康熙帝の後を継いだので、即位は45歳である。康熙帝は次男を寵愛し2歳で皇太子とした。しかしその皇太子は地位に安住して遊び歩き、賄賂を取りついには父を亡きものとするクーデターに手を染めた。そこで康熙帝はやむなく皇太子を廃し、以後新たに置くことはなかった。康熙帝が病を得て崩御すると、遺詔によって雍正帝が指名され即位した。
しかしその経緯には不明な点が多い。病床にいた取り継ぎの者が、「伝位十四子」の「十」に加筆して「伝位干四子」(皇帝の位を四皇子に伝える)と書き換えたともいう。雍正帝は皇位継承の暗闘を経験したことから、皇太子を擁立しないことにした。皇位継承者の名を書いた勅書を封印して、玉座の後ろに隠し、崩御後に一定人数が立ち会って開く方法を考案した。
雍正帝は史上まれに見る勤勉な皇帝で、毎晩遅くまで政務に当り、大量の上奏文の全てに目を通した。満州語なら満州語、漢文には漢文で書きこみ、睡眠は4時間に満たなかった。また倹約に努めて紙は裏返して使い、みすぼらしい建物で政務に打ち込んだ。仏教に帰依して、制度としての奴隷を廃止した。言語は南京官話でなく北京官話を普及させた。チベット、モンゴルに勢力を拡大して、ロシア帝国と条約を結び国境を定めた。
しかし負の側面もある。父の康熙帝も行っていた文人弾圧をより強硬に行い、何冊もの本を禁書とした。清朝を批判する者に対しては厳罰で臨んだ。至る所に密偵を潜り込ませ、独裁的に決裁を行う軍機処を創設し、閣臣たちに口出しをさせなかった。
その死はかつて処罰した者の遺族による暗殺とも、働き過ぎによる過労死とも云われる。
そして乾隆(けんりゅう)帝(在位1735-1796年)に至って清朝はその黄金期を迎える。乾隆帝は第4子で、祖父康熙帝に幼い時からその聡明さを愛された。25歳で即位する。祖父、父とは違い、派手好みの性格であった。乾隆帝の功績としてまず挙げられるのが、「十全武功」と呼ばれる10回の外征である。即ち、清・ジュンガル戦争、四川の金川、対グルカ戦=清・ネパール戦争、回部(ウイグル)及びバタフシャーン、台湾、緬甸=清緬戦争、越南。2回繰り返した戦争もあり、合計すると10回の遠征になる。乾隆帝はこの10回の遠征を誇り、自身を十全老人と呼んだ。実際には西域で大苦戦し、越南と緬甸では実質的に負けていたのだが、清の版図は最大規模に広がり、緬甸、越南、ラオス、タイ等が朝貢するようになった。しかし苗族の反乱(二回)や白蓮教徒の乱が起きた。
乾隆帝の時代にイエズス会の活動を禁止し、完全な鎖国体制に入った。このためのちに欧州諸国や日本の侵攻に対する清政府の抵抗力を奪ってしまった。しかしそれは後世の話だ。康熙・雍正期の繁栄に支えられて国庫が充実していたため、乾隆帝はしばしば減税を行った。古今の優れた書物を書き写し保存する、文化的大事業である『四庫全書』の編纂を行い、乾隆帝自身も中国の伝統的な文物をこよなく愛し、優れた美術・工芸品を全国から収集した。また本人も数多くの漢詩を書き残している。文化が蘭熟し、宮廷はきらびやかに飾られた。まさに清の絶頂期であった。
乾隆帝の時代、中国の人口は倍に増えたという。正確には分からないが、3億が6億になったとかいう話だ。一代の王の在位中にこんな繁栄を迎える事は珍しい。乾隆帝は治世60年に達し、祖父康熙帝の61年を越えてはならないとして譲位し太上皇となるが、実権は手放さずに院政を敷いた。しかし退廃への芽生えが出始めた。乾隆帝は晩年に、ヘシュンという奸臣を重用して文字の獄と呼ばれる思想弾圧を行い、多くの人々を処罰し禁書も厳しく実施した。
乾隆上皇が生きている間はヘシェンの跳粱は放置され、宮廷の内外は綱紀が弛緩した。ヘシェンは上皇の死後直ちに死を賜ったが、没収された私財は国家歳入の十数年分に達した。なお1928年国民党の軍閥によって、乾隆帝と西太后の陵は墓室を暴かれ徹底的な掠奪を受けた。ラストエンペラー溥儀には衝撃的な出来事だったそうだ。
乾隆帝の没年は1799年、清朝がアヘン戦争(1840-1842年)とアロー戦争(1856-1860年)で英仏に負け、西太后(1835-1908年)の闇黒時代を迎えて西欧と日本の帝国主義国家に食いものにされるのは、目と鼻の先である。
さて乾隆帝には香妃(ホージャ)という素敵な妃がいた。香妃は乾隆帝の41人いる妃の中で唯一のウイグル族から来た女性で、55歳で亡くなり手厚く葬られている。彼女の本名は容妃(ホージャ)なのだが、香水をつけなくても体中から砂棗の花の芳しい香りがただようことから香妃と呼ばれた。香妃は乾隆帝に深く愛され、巡幸によく同行している。宮中ではイスラムの服装を身につけたり、ウイグルの専属料理人を置いていた。墓所はイスラム様式で、ウイグル語が刻まれている。
ところが後世香妃の物語は、色々異説はあるがイスラムの教えに殉じた悲劇の姫になった。皇帝の求愛を拒み続け、皇帝の母によって死を賜ったという。倒れてもなほ妖しい香りを放つ香妃の遺体は、3年かけてカシュガルに運ばれ、妃の母の隣りで永遠の眠りについたという。何故事実と異なり悲劇にすり替わってしまったのか。おそらく清朝末期の革命の気運が高まった時、民族意識を高揚させるためにそのような話が作られたのではないか。
清朝の皇帝(特に最初の康熙帝)は良い王様達だった。漢民族ではないから、という抵抗は中国人の間では小さかったのではないかな。どっちにせよ、天子などは雲の上に存在。清朝でも満州人は少なかったから、目に見える役人は全て漢人だ。税金が安くて平和が続くなら、天辺が何人であろうが構わない。ただあの髪形(豚の尻尾)は頂けないが。ドライでニヒルな中国人はそう思っているだろう。
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