横浜中華街の想い出
大学に入った頃だから、今から40年以上前の話だ。当時の横浜中華街は面白かった。一人で或いは友達とつるんでよく歩き廻った。と言って食事が目的ではない。飯は路地裏の安い食堂で済ませた。ラーメン一杯250円とかだ。街中のラーメン屋よりはずっと安いが、普通のラーメンとは違って中華街の味がした。見た目品良く、というか細麺で味が薄い。はっきり言って街中のラーメン屋の方が美味い。具は、当時珍しかったチンゲン菜くらいしか載っていない。店内は中国人の客が多かった。
或る時店が混んでいて2階の座敷に通された。友達と二人で小汚い部屋に落ち着いた。いつもと変わった物を頼もうと思い、豚足を注文した。一皿これも250円、出てきた皿を見て魂消た。ヒズメのついた足先のぶつ切りが、山もりなんだ。コラーゲンの塊りとでも言おうか、ネチョネチョの油が口の中に広がり、手がベタベタになってオシボリでは落ちない。二人で食っても食っても減らないじゃあないか。不味いとも言い切れないが、味が単一でちっとも美味しいとは思えない。今と違ってガリガリに痩せていたからな、18歳の時は。小食だったのね。
さて中華街ではどこに行っていたのか?主に入る店は、物品店だ。食材、調理器具、骨董、雑貨、服飾etc.食品は驚くほど安い物が売られていた。また変わった物が沢山あったから、異文化遭遇体験が出来る。冷凍庫の奥には、毛のついた熊の手(右、と書かれている)が入れてある。三蛇こう(あつもの、という漢字だが検索出来ない)と書いた蛇肉の缶詰を買い、家で温めて食ったがちっとも美味くなかった。細い肉は蛇肉なんだろうが、味がしない。
その年は、文化大革命最後の年だった。「造反有理」「病を治して人を救う」「三大差別を無くす」今の北朝鮮と違って、毛沢東を憧れる人は日本人の中にもいた。俺がそうだったもんね。お土産やの店頭には、各種の毛沢東バッチが並んでいた。1ヶ100円、人民服が500円くらいで、人民解放軍戦車兵のつなぎ千円とかが所狭しと吊るされていた。それらを全部買い、買った人民服を着て歩き廻ったのだが、今では一つも残っていない。
中華街の住民は、大陸系だけじゃあない。台湾系も反体制派もいたんだろうが、不穏な空気を感じることはなかった。そうそう、チャイナドレスを着た昔の小姐といったポスターが10種類くらい壁に並べられていて、写実的な絵画の娘が微笑んでいる。俺はその中の黄色い服の娘に恋をした。かなり長い間、あのポスターは俺の部屋に貼ってあったはずだ。
中華風の喫茶店もあり、中国人の男たちがワイワイやっていた。中国語が分からないから、何をしゃべっているのかは知らない。彼らが黒社会の蛇頭だとしても、ただの料理人だとしても俺たちには分からない。だいたい中国人の料理人は、中国から来て何年経っても日本語を覚えない。厨房から離れることが、あまり無いんだろうな。
その中華街に、一軒だけパチンコ屋があった。いつ行っても半分貸し切りのように流行っていない店だった。或る時友達と二人で入り、そこそこ出していた。すると目つきの鋭い店員が、俺らの後ろに近づき、視線を宙に飛ばして呟いた。「お前ら、あんまり出すなよ」へっ、パチンコ屋に入って「出すな」と言われたのは、後にも先にもあの時だけだ。
うん、今回はメリハリの無い文になっちゃった。中華街、コアになるインパクトの強いエピソードが見つからなかったのよ、ゴメン。
大学に入った頃だから、今から40年以上前の話だ。当時の横浜中華街は面白かった。一人で或いは友達とつるんでよく歩き廻った。と言って食事が目的ではない。飯は路地裏の安い食堂で済ませた。ラーメン一杯250円とかだ。街中のラーメン屋よりはずっと安いが、普通のラーメンとは違って中華街の味がした。見た目品良く、というか細麺で味が薄い。はっきり言って街中のラーメン屋の方が美味い。具は、当時珍しかったチンゲン菜くらいしか載っていない。店内は中国人の客が多かった。
或る時店が混んでいて2階の座敷に通された。友達と二人で小汚い部屋に落ち着いた。いつもと変わった物を頼もうと思い、豚足を注文した。一皿これも250円、出てきた皿を見て魂消た。ヒズメのついた足先のぶつ切りが、山もりなんだ。コラーゲンの塊りとでも言おうか、ネチョネチョの油が口の中に広がり、手がベタベタになってオシボリでは落ちない。二人で食っても食っても減らないじゃあないか。不味いとも言い切れないが、味が単一でちっとも美味しいとは思えない。今と違ってガリガリに痩せていたからな、18歳の時は。小食だったのね。
さて中華街ではどこに行っていたのか?主に入る店は、物品店だ。食材、調理器具、骨董、雑貨、服飾etc.食品は驚くほど安い物が売られていた。また変わった物が沢山あったから、異文化遭遇体験が出来る。冷凍庫の奥には、毛のついた熊の手(右、と書かれている)が入れてある。三蛇こう(あつもの、という漢字だが検索出来ない)と書いた蛇肉の缶詰を買い、家で温めて食ったがちっとも美味くなかった。細い肉は蛇肉なんだろうが、味がしない。
その年は、文化大革命最後の年だった。「造反有理」「病を治して人を救う」「三大差別を無くす」今の北朝鮮と違って、毛沢東を憧れる人は日本人の中にもいた。俺がそうだったもんね。お土産やの店頭には、各種の毛沢東バッチが並んでいた。1ヶ100円、人民服が500円くらいで、人民解放軍戦車兵のつなぎ千円とかが所狭しと吊るされていた。それらを全部買い、買った人民服を着て歩き廻ったのだが、今では一つも残っていない。
中華街の住民は、大陸系だけじゃあない。台湾系も反体制派もいたんだろうが、不穏な空気を感じることはなかった。そうそう、チャイナドレスを着た昔の小姐といったポスターが10種類くらい壁に並べられていて、写実的な絵画の娘が微笑んでいる。俺はその中の黄色い服の娘に恋をした。かなり長い間、あのポスターは俺の部屋に貼ってあったはずだ。
中華風の喫茶店もあり、中国人の男たちがワイワイやっていた。中国語が分からないから、何をしゃべっているのかは知らない。彼らが黒社会の蛇頭だとしても、ただの料理人だとしても俺たちには分からない。だいたい中国人の料理人は、中国から来て何年経っても日本語を覚えない。厨房から離れることが、あまり無いんだろうな。
その中華街に、一軒だけパチンコ屋があった。いつ行っても半分貸し切りのように流行っていない店だった。或る時友達と二人で入り、そこそこ出していた。すると目つきの鋭い店員が、俺らの後ろに近づき、視線を宙に飛ばして呟いた。「お前ら、あんまり出すなよ」へっ、パチンコ屋に入って「出すな」と言われたのは、後にも先にもあの時だけだ。
うん、今回はメリハリの無い文になっちゃった。中華街、コアになるインパクトの強いエピソードが見つからなかったのよ、ゴメン。