捷一号作戦 – レイテ沖海戦
マリアナ沖海戦に大敗した日本軍は、1944年7月にサイパン島を失い、絶対国防圏はあっけなく突破された。米軍が次に攻めてくるのはどこか?主導権は敵にある。予想される進攻方面に備えて、日本軍は4つの作戦を立てた。
捷一号作戦 - 比島(フィリピン)方面
捷二号作戦 - 九州南部、南西諸島及び台湾方面
捷三号作戦 - 本州、四国、九州方面及び小笠原諸島方面
捷四号作戦 – 北海道方面
このうち捷一号作戦は、米軍のレイテ島への進攻を受けて1944年の10月に発動された。捷2,3,4号は米軍主力の進攻が無かったため、発動されることはなかった。米軍はフィリピンに来た。油を断てば戦は続けられない。インドネシア、フィリピンの石油、ゴム、ボーキサイト等の資源を断てば、日本の戦争継続能力は枯渇する。
しかし実は当初は、中華民国との関係を重視して台湾- アモイに至るルートが有力だった。その場合はフィリピンを素通りすることになる。米軍得意の飛び石作戦だ。しかしマッカーサーはフィリピンに多くの利権を持ち、戻って来ると約束した手前、どうしてもフィリピンに戻りたかった。ルーズベルトは、マッカーサーが共和党から次の大統領選に立候補することを警戒していた。そのためマッカーサーに手柄を立てさせないようにしたくらいだ。マッカーサーは大統領選に不出馬を宣言して、ルーズベルトにフィリピン攻略を約束させた。こんなことで台湾とフィリピンの運命が決まったのか。
まともに考えて、マリアナで負けサイパンを失った時点で、日本には戦争に勝つ見込みが無くなっていた。日本が原爆でも持っていたら別だが、兵器と物量の差で今では子供と大人の戦いになってしまった。とはいえ帝国海軍にはまだ戦艦も空母も残っている。いかに戦力差が大きかろうと、戦う手段を持っていながら降伏することなどは考えられない。一矢報いる、ひと泡吹かせることくらいはまだ出来る。一度敵に大打撃を与えて講和に持ち込みたい。1944年10月23~25日にかけて行われた一連の海戦は、その規模と広範囲な戦域から史上最大の海戦と言える。
連合軍(オーストラリア海軍の支援を得たアメリカ軍)の目的はレイテ島奪還。日本軍の目的は進攻阻止。この海戦によって、一時は太平洋を席巻した連合艦隊は壊滅した。海戦を細分化すればシブヤン海海戦、スリガオ海峡海戦、エンガノ岬海戦、サマール沖海戦の4つからなる。日本軍の指揮官は栗田、小沢、西村、志摩。米軍はハルゼーとキンケイドだ。
参加戦力は日本が航空母艦4、戦艦9、重巡13、軽巡6他、駆逐艦34。まだこんなに残っていたのか。損害は空母4、戦艦3、重巡6、軽巡4、駆逐艦9沈没。対する連合軍の戦力は航空母艦17、護衛空母18、戦艦12、重巡11、軽巡15、駆逐艦141。損害は航空母艦1、護衛空母2、駆逐艦2、護衛駆逐艦1沈没。
数字だけ見ると日本軍の一方的な敗北に見えるが、事実は違う。日本軍の仕掛けた罠に米軍がまんまと嵌り、日本軍は勝利をほとんど手中にしていた。どういうこと?しかけた罠とは?日本軍の目標は何だったんだ。海戦の推移を見てみよう。
サイパン島が陥落した時点で東条は失脚し、小磯内閣が誕生した。東条が次に表舞台に出てくるのは、東京裁判だ。しかし陸軍軍人とはいえ、予備役に引いていた小磯に陸軍を抑える力はなく、むしろ陸軍、特に参謀本部の発言力が増す結果となった。
連合艦隊は8月10日にマニラで会議を行い、捷一号作戦の内容を確認した。機動部隊(小沢艦隊)が米第38任務部隊(ハルゼー艦隊)を北方に誘い出す。基地航空隊は上陸軍の輸送船団を攻撃する。第一遊撃部隊(栗田艦隊)が米軍上陸地点に侵攻し、輸送船団及び上陸した部隊を殲滅する。栗田艦隊は敵の上陸から2日以内に突入、基地航空隊の攻撃はその2日前から始める。マッカーサーを吹き飛ばせ。物資と輸送船を失った上陸軍に地上軍が襲いかかり、海に追いおとす。
神重徳参謀は、敵輸送船団殲滅の為なら艦隊をすり潰しても構わないと言った。目的はあくまでも上陸点の粉砕である。確かに連合軍の上陸作戦を失敗に追いやるにはこの方法しかないだろう。日本軍としては珍しくターゲットが揚陸した物資と輸送船だ。栗田の参謀、小柳は以下のように発言する。ちょっと長いが、後で重要になるので記載する。
連合艦隊がそれだけの決心をしておられるならよくわかった。ただし、突入作戦は簡単に出来るものではない。敵艦隊はその全力を挙げてこれを阻止するであろう。したがって、好むと好まざるとを問わず、敵主力との決戦なくして突入作戦を実現するなどということは不可能である。よって、栗田艦隊は命令どおり輸送船団に向かって突進するが、途中敵主力部隊と対立し二者いずれかを選ぶべきやに惑う場合には、輸送船団を棄てて、敵主力の撃滅に専念するが、差支えないか。
神参謀はこれを了承した。ここにこの作戦の失敗の種は蒔かれた。ぐだぐだ言わずに輸送船を根こそぎ沈めろ。海岸に積み上げた戦車や武器弾薬、食糧、医薬品を吹き飛ばせ。この海域だけで12隻いる戦艦を3隻4隻沈めても戦局は変わらないが、上陸部隊を粉砕すれば流れは変わるかもしれない。この作戦は非情だが理に適っている。フィリピンを失えば油が断たれ海軍は終わる。敵戦闘機の性能は零戦を凌駕し、数の差は今や1対10だ。米軍はパイロットを大量育成し続々と前線に送り込む。日本は航空燃料の欠乏によって、まともな訓練を行えず、ベテランの相次ぐ戦死によって技量は低下するばかりだ。空母への離発着もままならないヒヨっ子は初陣を生き残るのが至難だ。艦隊を日本に呼び戻しても、内地の重油は枯渇しているので、大規模な作戦は行えない。ならば、乾坤一擲、上陸点粉砕にかけてみよう。
神参謀は海軍主戦派の一人だった。自分達が起こした戦争を、連合艦隊の全滅をかけてでもここで食い止める覚悟だったのだろう。ならば栗田に任せるのではなく、自分がついて行けば良かったのに。
太平洋戦争は陸軍の暴走によって引き起こされた。その象徴が東条英機だと言われるが、実は海軍が積極的に開戦したことを忘れてはならない。陸軍軍人の良識派が閑職に追いやられたように、三国同盟に反対し対米戦などもっての他だという、米内光政や山本五十六のような海軍軍人は脇に追いやられていた。そもそも陸軍は中国大陸に釘づけにされ、100万の精兵が身動き取れなくなっていた。打つ手はなくなり、開戦の理由の一つが援蒋ルートの遮断であった。米英軍と戦う主力は海軍だ。陸軍はむしろ腰が引けていて、海軍にお伺いを立てるような有様だったのだ。開戦には陸軍だけでなく、海軍そして昭和天皇の責任もないとは言えない。
アメリカ軍はフィリピン奪回の陽動作戦として、第38任務部隊が10月10日に南西諸島、12~14日に台湾を空襲した。日本軍台湾基地航空隊は全力をもってこれを邀撃、台湾沖航空戦が展開された。米軍は12日に1,398機、13日に947機、14日も出撃して台湾の航空基地を攻撃したが、日本軍の迎撃は激しかった。日本軍航空隊は夜間攻撃を含め、16日まで反復して米艦隊を攻撃し、以下のような大戦果を得た。その大本営発表を合計すると、「空母18隻、戦艦4隻、巡洋艦7隻、駆逐艦等艦種不明15隻撃沈・撃破」これが事実なら米機動部隊は全滅に近い。ところが実際の戦果は、巡洋艦2隻中大破に過ぎなかった。米艦隊はほとんど無傷だったのだ。
志摩艦隊は残敵掃討に急行したが、ハルゼーの部隊とはすれ違っている。もし会敵していたら、全滅しただろう。パイロットの申告を無条件で集計したこの幻の大戦果は国民を熱狂させ、天皇のおほめに与り、一瞬アメリカの株価を急落させたが、その代償は大きかった。海軍では偵察機が壊滅したはずの機動部隊を発見して、大戦果が誤認であることにほどなく気がつく。しかし海軍は誤認を陸軍に告げなかった。そのため陸軍はルソン島での迎撃方針をレイテでの決戦に変え、決戦兵力をレイテに送り、(壊滅したはずの機動部隊の空襲に遭い)装備・物資の過半を失った。さらにルソン島の欠員を補うため台湾から第10師団をルソンへ、沖縄から台湾に第9師団を移動させた。結果的に沖縄戦で戦力の不足をきたした。沖縄戦では3個師団のうち、最も精鋭の師団を失い残りの2個師団で戦った。それでもあれだけ米軍を苦しめたのだ。もし第9師団が残っていたら。これは負の循環だ。都合の悪い情報を友軍にまで隠すとは、子供か、帝国海軍。
ともあれ台湾基地航空隊は、この戦いで壊滅状態になり、捷一号作戦へは限定的にしか参加出来なかった。小沢機動艦隊の艦載機も台湾沖海戦に参加して著しく消耗した。最早通常の攻撃では敵にかすり傷しか与えられない。在フィリピンの航空隊も9月10日ダバオに空襲を受けた際、海岸の見張所が敵の上陸を誤認し全力出撃したため、100機に満たない数にまで減っていた。これでは1~2回の出撃で消える。このため特攻を決意するのだが、それは後の話だ。
捷一号作戦の開始にあたって、連合艦隊は燃料の確保に苦しんだ。予定していたタンカーは次々と米潜水艦に沈められ、栗田が強引に現地で徴用したタンカー2隻をブルネイに回航したが、結局間に合ったのはこの2隻だけであった。艦隊は燃料節約の為に速度を落として航行し、待ち構える米潜水艦に測的の余裕を与えた。志摩艦隊はコロン湾で給油と言われて到着したが、タンカーはいず巡洋艦から駆逐艦に給油して凌いだ。小沢艦隊に随行した2隻のタンカーも米潜水艦に沈められた。
一方米軍は、タンカー34隻、護衛空母11隻、給兵艦6隻、貨物船7隻、駆逐艦26隻、護衛駆逐艦26隻、外洋タグ10隻、計113隻からなる役務部隊を小グループに分割し、根拠地ウルシーとの間を往復していた。ローテーションを組み補給点には常時満タンのタンカー9~10隻が待機していた。空母への補充機と搭乗員、弾薬・備品はたちどころに補給され、冷蔵船や郵便船も用意された。本作戦では補給点は6ヶ所あり、日本軍はそれらを発見出来なかった。
さて台湾沖航空戦の直後、10月17日早朝に米軍はレイテ湾スルアン島に上陸。現地部隊は米軍の接近を全く察知出来ず、完全な奇襲となり島の海軍見張所は上陸を告げると直ぐに消息を断った。陸軍はこの情報を信じなかった。台湾沖航空戦で機動部隊が壊滅した米軍が、上陸作戦を行うはずがない。またダバオの時と同じく誤報だろう。しかし台湾沖の戦果が幻であることを知る海軍は、ただちに捷一号作戦を発令した。
小沢機動部隊は内地にいたが、寄せ集めの航空戦力を急きょかき集めて出港を急いだ。米軍は18日から猛烈な空襲と艦砲射撃を始め、20日になってレイテ湾最深部タクロバンに上陸を始めた。在フィリピンの陸海軍航空隊は攻撃を加え、何隻かの軍艦に損傷を与えた。21日には神風特別攻撃隊が初出撃したが、会敵出来なかった。22日朝、ブルネイで補給した栗田艦隊はレイテ湾を目指して出港した。急がなければ、海岸の物資は内陸に運ばれ拡散してしまう。少し遅れて西村艦隊(旧式戦艦2隻基幹)がブルネイを出港、スリガオ海峡を通過するコースを採る。
栗田が乗船する旗艦、重巡愛宕は23日朝パラワン水道で待ち構えていた米潜水艦の雷撃(4発命中)を受け沈没。高雄も2本の魚雷を受け損傷、摩耶は4発受けて沈没。栗田中将は大和に乗り移った。大和には宇垣の第一戦隊司令部がいたので、そこに割り込むことになった。夕方には重巡青葉が米潜の雷撃を受け航行不能となり、鬼怒が青葉を曳航し駆逐艦浦風と共に戦場を去った。
24日夜間に西村艦隊の最上の水上偵察機が発艦し、早朝レイテ湾の上空に達して湾内の敵戦力について詳細に報告、この報告は全艦隊に送信され貴重な情報となった。この時偵察機は戦艦4、輸送船80の発見を告げている。いた、輸送船は80隻も集合している。この後日本軍は湾内の偵察に成功していない。
24日朝、シブヤン海に差し掛かった栗田艦隊は、ハルゼー率いる第38任務部隊(Task Force)による激しい空襲に遭う。栗田艦隊を守る直掩機はいない。空襲は第一次、二次、三次、四次、五次と終日続き、特に空襲を一手に引き受けた武蔵は命中10発、至近弾6発、魚雷命中11本を数え速力6ノットにまで低下し、前への傾斜が増大してあと8mで海面に着く状態に陥った。
巡洋艦妙高、矢矧、利根、駆逐艦藤波が損傷、戦艦長門と大和も名中弾を受けたが、大和の損害は大きなものではなかった。栗田は5度に渡る激しい空襲にさらされ武蔵は沈没寸前、他艦も大きく損傷を受けた事から一時反転を決める。このままでは空襲で全滅だ。一時反転して空襲を避け、味方航空隊の攻撃を待つ。15:30に一斉回頭を下命する。
しかし特攻機以外の味方の航空攻撃に期待しても無駄だった。攻撃隊は敵艦隊に到達する前に、レーダーで接近を知り100機200機300機とブンブン飛ぶ敵の直掩機の攻撃を受け、例えそれを振り切ってもVT信管(近接するとセンサーが働き爆発する)の対空砲火にやられる。
武蔵は今や海上に停止し、乗員の必死の応急処置も空しく浸水は増す一方。19:15傾斜は12度を超え、艦長は総員退去を指示、自身は艦に残りシブヤン海に沈んだ。19:35沈没。乗員は2隻の駆逐艦が救助(清霜約500名、浜風約830名)し、コロンへ去った。戦死は1,000名以上、救助され移乗していた摩耶の乗組員100名以上も再度の沈没に遭った。
しかし米軍の空襲は何故か止んだ。接触する偵察機もいなくなった。その時戦機は動いた。ハルゼーは栗田の反転により艦隊に十分な損害を与えたと思ったのだ。戦果が現実よりも過剰になるのは日本軍だけではない。またその時に北方に小沢機動艦隊を発見した、空母4、軽巡2、駆逐艦5。日本軍はなけなしの空母をこぞって出してきた。歴戦の瑞鶴もいるだろう。片をつけよう、こいつらを沈めれば戦争は終わる。合理的に考えればそうなのだが、現実には特攻という奇手が待ち構えていた。
栗田が期待した基地航空隊は23日には悪天候で敵を発見出来ず、24日にシャーマン少将の第三群を発見して全力を挙げて攻撃をかけた(零戦105、紫電21、爆撃機44)が、かすり傷を負わすことも出来ない。ところが単機奇襲攻撃の彗星12機の内1機が、雲に隠れて秘かに近づき軽空母プリンストンに爆弾を命中させた。同機は直後に撃墜されたが、爆弾は飛行甲板に命中、格納庫内の艦攻1機を突き抜けて中甲板で炸裂、たちまち大火災となった。しばらくして各所で誘爆が始まり、3時間後に大爆発を起こし救援の為に近づいてきた軽巡を巻き込んで損傷させ、最終的に味方駆逐艦によって処分された。基地航空隊はその後、夜間攻撃まで敢行するが一式陸攻隊(12機)は敵を発見出来ずに帰投、銀河隊(8機)は敵夜間戦闘機隊に捕まり全滅する。なお米軍は攻撃を受けたのが第三群(シャーマン隊)だけであったので、ハルゼーの他の2隊(第1群と2群)は終日悠々と攻撃が出来た。
小沢長官率いる機動部隊は24日早朝、予定地点に到着し偵察機を飛ばした。追加で出した偵察機が11時15分に敵艦隊を発見、またしてもシャーマン隊だった。攻撃機は24k機と33機に分かれ、1隊は敵戦闘機20機に遭遇し交戦、そのまま周辺の飛行場に不時着。攻撃した隊も戦果を上げられずに友軍飛行場に退避した。日本軍機動部隊の航空隊は、機数も足らず技量も未熟でやっと発艦しても、大半は着艦が出来なかったのだ。
小沢は栗田艦隊の空襲を自らが引き受ける為に南下を続ける。攻撃機は残っていないから囮としての進撃だ。我が身を餌にハルゼーを北に釣り出す。自身の艦隊は海に沈んでも、本隊が敵上陸部隊を粉砕する。
栗田艦隊は17時15分に再度反転、レイテ湾を目指した。空襲が止み、艦隊はサンベルナルジノ海峡を待ち伏せに合うことなく通過し、一路レイテ湾を目指して南下した。連合艦隊司令部は、「天佑を信じ全軍突撃せよ。」の電令を18:13に出すが栗田の再反転はその前で、司令部の命令によるものではない。
本作戦中日米双方、特に日本軍の通信の不通が多く発生した。そのことは指揮官や司令部の判断に大きく影響した。特に決定的なのは、小沢艦隊が発した米機動部隊を引きつけ交戦中、の電令を大和が受信していないことだ。逆に小沢艦隊は栗田の再反転の電令を受信し損ねたらしい。艦隊は電波を発して位置を突き止められることを避ける為、微弱な電波を基地局に送り、そこが増幅して発信する。この場合、基地局は不測の事態に備えて受信を確認するまで繰り返し発進すれば良かった。事実大和の上甲板の受信室は、対空砲の増設により戦闘中は轟音と振動で受信が出来なかった。通信線は空襲でしばしば断絶し、度重なる補修で予備の電線が不足したほどだった。また武蔵が妨害電波を発し、米軍が慌てて周波数を変えている。更に太陽の電磁波の強い時期であったのかもしれない。戦争ではよくこういうことが起きる。人が荒れると自然も荒れる。それにしてもハルゼーの釣りだしを本隊が知らなかったとは、痛恨の極みだ。何の為に4隻の空母を犠牲にしたのか。
一方西村艦隊は、25日黎明時に栗田艦隊と呼応してレイテ湾に突入する予定であった。西村艦隊は朝方空襲を受け数隻に損害を受けたが、その後は不思議と攻撃を受けなかった。西村は栗田の一時反転を告げる電令を受信しそこねていたため、栗田艦隊の遅れを知らない。他隊の状況を掴めない中、単独での突入を決意した。
To be continued,
マリアナ沖海戦に大敗した日本軍は、1944年7月にサイパン島を失い、絶対国防圏はあっけなく突破された。米軍が次に攻めてくるのはどこか?主導権は敵にある。予想される進攻方面に備えて、日本軍は4つの作戦を立てた。
捷一号作戦 - 比島(フィリピン)方面
捷二号作戦 - 九州南部、南西諸島及び台湾方面
捷三号作戦 - 本州、四国、九州方面及び小笠原諸島方面
捷四号作戦 – 北海道方面
このうち捷一号作戦は、米軍のレイテ島への進攻を受けて1944年の10月に発動された。捷2,3,4号は米軍主力の進攻が無かったため、発動されることはなかった。米軍はフィリピンに来た。油を断てば戦は続けられない。インドネシア、フィリピンの石油、ゴム、ボーキサイト等の資源を断てば、日本の戦争継続能力は枯渇する。
しかし実は当初は、中華民国との関係を重視して台湾- アモイに至るルートが有力だった。その場合はフィリピンを素通りすることになる。米軍得意の飛び石作戦だ。しかしマッカーサーはフィリピンに多くの利権を持ち、戻って来ると約束した手前、どうしてもフィリピンに戻りたかった。ルーズベルトは、マッカーサーが共和党から次の大統領選に立候補することを警戒していた。そのためマッカーサーに手柄を立てさせないようにしたくらいだ。マッカーサーは大統領選に不出馬を宣言して、ルーズベルトにフィリピン攻略を約束させた。こんなことで台湾とフィリピンの運命が決まったのか。
まともに考えて、マリアナで負けサイパンを失った時点で、日本には戦争に勝つ見込みが無くなっていた。日本が原爆でも持っていたら別だが、兵器と物量の差で今では子供と大人の戦いになってしまった。とはいえ帝国海軍にはまだ戦艦も空母も残っている。いかに戦力差が大きかろうと、戦う手段を持っていながら降伏することなどは考えられない。一矢報いる、ひと泡吹かせることくらいはまだ出来る。一度敵に大打撃を与えて講和に持ち込みたい。1944年10月23~25日にかけて行われた一連の海戦は、その規模と広範囲な戦域から史上最大の海戦と言える。
連合軍(オーストラリア海軍の支援を得たアメリカ軍)の目的はレイテ島奪還。日本軍の目的は進攻阻止。この海戦によって、一時は太平洋を席巻した連合艦隊は壊滅した。海戦を細分化すればシブヤン海海戦、スリガオ海峡海戦、エンガノ岬海戦、サマール沖海戦の4つからなる。日本軍の指揮官は栗田、小沢、西村、志摩。米軍はハルゼーとキンケイドだ。
参加戦力は日本が航空母艦4、戦艦9、重巡13、軽巡6他、駆逐艦34。まだこんなに残っていたのか。損害は空母4、戦艦3、重巡6、軽巡4、駆逐艦9沈没。対する連合軍の戦力は航空母艦17、護衛空母18、戦艦12、重巡11、軽巡15、駆逐艦141。損害は航空母艦1、護衛空母2、駆逐艦2、護衛駆逐艦1沈没。
数字だけ見ると日本軍の一方的な敗北に見えるが、事実は違う。日本軍の仕掛けた罠に米軍がまんまと嵌り、日本軍は勝利をほとんど手中にしていた。どういうこと?しかけた罠とは?日本軍の目標は何だったんだ。海戦の推移を見てみよう。
サイパン島が陥落した時点で東条は失脚し、小磯内閣が誕生した。東条が次に表舞台に出てくるのは、東京裁判だ。しかし陸軍軍人とはいえ、予備役に引いていた小磯に陸軍を抑える力はなく、むしろ陸軍、特に参謀本部の発言力が増す結果となった。
連合艦隊は8月10日にマニラで会議を行い、捷一号作戦の内容を確認した。機動部隊(小沢艦隊)が米第38任務部隊(ハルゼー艦隊)を北方に誘い出す。基地航空隊は上陸軍の輸送船団を攻撃する。第一遊撃部隊(栗田艦隊)が米軍上陸地点に侵攻し、輸送船団及び上陸した部隊を殲滅する。栗田艦隊は敵の上陸から2日以内に突入、基地航空隊の攻撃はその2日前から始める。マッカーサーを吹き飛ばせ。物資と輸送船を失った上陸軍に地上軍が襲いかかり、海に追いおとす。
神重徳参謀は、敵輸送船団殲滅の為なら艦隊をすり潰しても構わないと言った。目的はあくまでも上陸点の粉砕である。確かに連合軍の上陸作戦を失敗に追いやるにはこの方法しかないだろう。日本軍としては珍しくターゲットが揚陸した物資と輸送船だ。栗田の参謀、小柳は以下のように発言する。ちょっと長いが、後で重要になるので記載する。
連合艦隊がそれだけの決心をしておられるならよくわかった。ただし、突入作戦は簡単に出来るものではない。敵艦隊はその全力を挙げてこれを阻止するであろう。したがって、好むと好まざるとを問わず、敵主力との決戦なくして突入作戦を実現するなどということは不可能である。よって、栗田艦隊は命令どおり輸送船団に向かって突進するが、途中敵主力部隊と対立し二者いずれかを選ぶべきやに惑う場合には、輸送船団を棄てて、敵主力の撃滅に専念するが、差支えないか。
神参謀はこれを了承した。ここにこの作戦の失敗の種は蒔かれた。ぐだぐだ言わずに輸送船を根こそぎ沈めろ。海岸に積み上げた戦車や武器弾薬、食糧、医薬品を吹き飛ばせ。この海域だけで12隻いる戦艦を3隻4隻沈めても戦局は変わらないが、上陸部隊を粉砕すれば流れは変わるかもしれない。この作戦は非情だが理に適っている。フィリピンを失えば油が断たれ海軍は終わる。敵戦闘機の性能は零戦を凌駕し、数の差は今や1対10だ。米軍はパイロットを大量育成し続々と前線に送り込む。日本は航空燃料の欠乏によって、まともな訓練を行えず、ベテランの相次ぐ戦死によって技量は低下するばかりだ。空母への離発着もままならないヒヨっ子は初陣を生き残るのが至難だ。艦隊を日本に呼び戻しても、内地の重油は枯渇しているので、大規模な作戦は行えない。ならば、乾坤一擲、上陸点粉砕にかけてみよう。
神参謀は海軍主戦派の一人だった。自分達が起こした戦争を、連合艦隊の全滅をかけてでもここで食い止める覚悟だったのだろう。ならば栗田に任せるのではなく、自分がついて行けば良かったのに。
太平洋戦争は陸軍の暴走によって引き起こされた。その象徴が東条英機だと言われるが、実は海軍が積極的に開戦したことを忘れてはならない。陸軍軍人の良識派が閑職に追いやられたように、三国同盟に反対し対米戦などもっての他だという、米内光政や山本五十六のような海軍軍人は脇に追いやられていた。そもそも陸軍は中国大陸に釘づけにされ、100万の精兵が身動き取れなくなっていた。打つ手はなくなり、開戦の理由の一つが援蒋ルートの遮断であった。米英軍と戦う主力は海軍だ。陸軍はむしろ腰が引けていて、海軍にお伺いを立てるような有様だったのだ。開戦には陸軍だけでなく、海軍そして昭和天皇の責任もないとは言えない。
アメリカ軍はフィリピン奪回の陽動作戦として、第38任務部隊が10月10日に南西諸島、12~14日に台湾を空襲した。日本軍台湾基地航空隊は全力をもってこれを邀撃、台湾沖航空戦が展開された。米軍は12日に1,398機、13日に947機、14日も出撃して台湾の航空基地を攻撃したが、日本軍の迎撃は激しかった。日本軍航空隊は夜間攻撃を含め、16日まで反復して米艦隊を攻撃し、以下のような大戦果を得た。その大本営発表を合計すると、「空母18隻、戦艦4隻、巡洋艦7隻、駆逐艦等艦種不明15隻撃沈・撃破」これが事実なら米機動部隊は全滅に近い。ところが実際の戦果は、巡洋艦2隻中大破に過ぎなかった。米艦隊はほとんど無傷だったのだ。
志摩艦隊は残敵掃討に急行したが、ハルゼーの部隊とはすれ違っている。もし会敵していたら、全滅しただろう。パイロットの申告を無条件で集計したこの幻の大戦果は国民を熱狂させ、天皇のおほめに与り、一瞬アメリカの株価を急落させたが、その代償は大きかった。海軍では偵察機が壊滅したはずの機動部隊を発見して、大戦果が誤認であることにほどなく気がつく。しかし海軍は誤認を陸軍に告げなかった。そのため陸軍はルソン島での迎撃方針をレイテでの決戦に変え、決戦兵力をレイテに送り、(壊滅したはずの機動部隊の空襲に遭い)装備・物資の過半を失った。さらにルソン島の欠員を補うため台湾から第10師団をルソンへ、沖縄から台湾に第9師団を移動させた。結果的に沖縄戦で戦力の不足をきたした。沖縄戦では3個師団のうち、最も精鋭の師団を失い残りの2個師団で戦った。それでもあれだけ米軍を苦しめたのだ。もし第9師団が残っていたら。これは負の循環だ。都合の悪い情報を友軍にまで隠すとは、子供か、帝国海軍。
ともあれ台湾基地航空隊は、この戦いで壊滅状態になり、捷一号作戦へは限定的にしか参加出来なかった。小沢機動艦隊の艦載機も台湾沖海戦に参加して著しく消耗した。最早通常の攻撃では敵にかすり傷しか与えられない。在フィリピンの航空隊も9月10日ダバオに空襲を受けた際、海岸の見張所が敵の上陸を誤認し全力出撃したため、100機に満たない数にまで減っていた。これでは1~2回の出撃で消える。このため特攻を決意するのだが、それは後の話だ。
捷一号作戦の開始にあたって、連合艦隊は燃料の確保に苦しんだ。予定していたタンカーは次々と米潜水艦に沈められ、栗田が強引に現地で徴用したタンカー2隻をブルネイに回航したが、結局間に合ったのはこの2隻だけであった。艦隊は燃料節約の為に速度を落として航行し、待ち構える米潜水艦に測的の余裕を与えた。志摩艦隊はコロン湾で給油と言われて到着したが、タンカーはいず巡洋艦から駆逐艦に給油して凌いだ。小沢艦隊に随行した2隻のタンカーも米潜水艦に沈められた。
一方米軍は、タンカー34隻、護衛空母11隻、給兵艦6隻、貨物船7隻、駆逐艦26隻、護衛駆逐艦26隻、外洋タグ10隻、計113隻からなる役務部隊を小グループに分割し、根拠地ウルシーとの間を往復していた。ローテーションを組み補給点には常時満タンのタンカー9~10隻が待機していた。空母への補充機と搭乗員、弾薬・備品はたちどころに補給され、冷蔵船や郵便船も用意された。本作戦では補給点は6ヶ所あり、日本軍はそれらを発見出来なかった。
さて台湾沖航空戦の直後、10月17日早朝に米軍はレイテ湾スルアン島に上陸。現地部隊は米軍の接近を全く察知出来ず、完全な奇襲となり島の海軍見張所は上陸を告げると直ぐに消息を断った。陸軍はこの情報を信じなかった。台湾沖航空戦で機動部隊が壊滅した米軍が、上陸作戦を行うはずがない。またダバオの時と同じく誤報だろう。しかし台湾沖の戦果が幻であることを知る海軍は、ただちに捷一号作戦を発令した。
小沢機動部隊は内地にいたが、寄せ集めの航空戦力を急きょかき集めて出港を急いだ。米軍は18日から猛烈な空襲と艦砲射撃を始め、20日になってレイテ湾最深部タクロバンに上陸を始めた。在フィリピンの陸海軍航空隊は攻撃を加え、何隻かの軍艦に損傷を与えた。21日には神風特別攻撃隊が初出撃したが、会敵出来なかった。22日朝、ブルネイで補給した栗田艦隊はレイテ湾を目指して出港した。急がなければ、海岸の物資は内陸に運ばれ拡散してしまう。少し遅れて西村艦隊(旧式戦艦2隻基幹)がブルネイを出港、スリガオ海峡を通過するコースを採る。
栗田が乗船する旗艦、重巡愛宕は23日朝パラワン水道で待ち構えていた米潜水艦の雷撃(4発命中)を受け沈没。高雄も2本の魚雷を受け損傷、摩耶は4発受けて沈没。栗田中将は大和に乗り移った。大和には宇垣の第一戦隊司令部がいたので、そこに割り込むことになった。夕方には重巡青葉が米潜の雷撃を受け航行不能となり、鬼怒が青葉を曳航し駆逐艦浦風と共に戦場を去った。
24日夜間に西村艦隊の最上の水上偵察機が発艦し、早朝レイテ湾の上空に達して湾内の敵戦力について詳細に報告、この報告は全艦隊に送信され貴重な情報となった。この時偵察機は戦艦4、輸送船80の発見を告げている。いた、輸送船は80隻も集合している。この後日本軍は湾内の偵察に成功していない。
24日朝、シブヤン海に差し掛かった栗田艦隊は、ハルゼー率いる第38任務部隊(Task Force)による激しい空襲に遭う。栗田艦隊を守る直掩機はいない。空襲は第一次、二次、三次、四次、五次と終日続き、特に空襲を一手に引き受けた武蔵は命中10発、至近弾6発、魚雷命中11本を数え速力6ノットにまで低下し、前への傾斜が増大してあと8mで海面に着く状態に陥った。
巡洋艦妙高、矢矧、利根、駆逐艦藤波が損傷、戦艦長門と大和も名中弾を受けたが、大和の損害は大きなものではなかった。栗田は5度に渡る激しい空襲にさらされ武蔵は沈没寸前、他艦も大きく損傷を受けた事から一時反転を決める。このままでは空襲で全滅だ。一時反転して空襲を避け、味方航空隊の攻撃を待つ。15:30に一斉回頭を下命する。
しかし特攻機以外の味方の航空攻撃に期待しても無駄だった。攻撃隊は敵艦隊に到達する前に、レーダーで接近を知り100機200機300機とブンブン飛ぶ敵の直掩機の攻撃を受け、例えそれを振り切ってもVT信管(近接するとセンサーが働き爆発する)の対空砲火にやられる。
武蔵は今や海上に停止し、乗員の必死の応急処置も空しく浸水は増す一方。19:15傾斜は12度を超え、艦長は総員退去を指示、自身は艦に残りシブヤン海に沈んだ。19:35沈没。乗員は2隻の駆逐艦が救助(清霜約500名、浜風約830名)し、コロンへ去った。戦死は1,000名以上、救助され移乗していた摩耶の乗組員100名以上も再度の沈没に遭った。
しかし米軍の空襲は何故か止んだ。接触する偵察機もいなくなった。その時戦機は動いた。ハルゼーは栗田の反転により艦隊に十分な損害を与えたと思ったのだ。戦果が現実よりも過剰になるのは日本軍だけではない。またその時に北方に小沢機動艦隊を発見した、空母4、軽巡2、駆逐艦5。日本軍はなけなしの空母をこぞって出してきた。歴戦の瑞鶴もいるだろう。片をつけよう、こいつらを沈めれば戦争は終わる。合理的に考えればそうなのだが、現実には特攻という奇手が待ち構えていた。
栗田が期待した基地航空隊は23日には悪天候で敵を発見出来ず、24日にシャーマン少将の第三群を発見して全力を挙げて攻撃をかけた(零戦105、紫電21、爆撃機44)が、かすり傷を負わすことも出来ない。ところが単機奇襲攻撃の彗星12機の内1機が、雲に隠れて秘かに近づき軽空母プリンストンに爆弾を命中させた。同機は直後に撃墜されたが、爆弾は飛行甲板に命中、格納庫内の艦攻1機を突き抜けて中甲板で炸裂、たちまち大火災となった。しばらくして各所で誘爆が始まり、3時間後に大爆発を起こし救援の為に近づいてきた軽巡を巻き込んで損傷させ、最終的に味方駆逐艦によって処分された。基地航空隊はその後、夜間攻撃まで敢行するが一式陸攻隊(12機)は敵を発見出来ずに帰投、銀河隊(8機)は敵夜間戦闘機隊に捕まり全滅する。なお米軍は攻撃を受けたのが第三群(シャーマン隊)だけであったので、ハルゼーの他の2隊(第1群と2群)は終日悠々と攻撃が出来た。
小沢長官率いる機動部隊は24日早朝、予定地点に到着し偵察機を飛ばした。追加で出した偵察機が11時15分に敵艦隊を発見、またしてもシャーマン隊だった。攻撃機は24k機と33機に分かれ、1隊は敵戦闘機20機に遭遇し交戦、そのまま周辺の飛行場に不時着。攻撃した隊も戦果を上げられずに友軍飛行場に退避した。日本軍機動部隊の航空隊は、機数も足らず技量も未熟でやっと発艦しても、大半は着艦が出来なかったのだ。
小沢は栗田艦隊の空襲を自らが引き受ける為に南下を続ける。攻撃機は残っていないから囮としての進撃だ。我が身を餌にハルゼーを北に釣り出す。自身の艦隊は海に沈んでも、本隊が敵上陸部隊を粉砕する。
栗田艦隊は17時15分に再度反転、レイテ湾を目指した。空襲が止み、艦隊はサンベルナルジノ海峡を待ち伏せに合うことなく通過し、一路レイテ湾を目指して南下した。連合艦隊司令部は、「天佑を信じ全軍突撃せよ。」の電令を18:13に出すが栗田の再反転はその前で、司令部の命令によるものではない。
本作戦中日米双方、特に日本軍の通信の不通が多く発生した。そのことは指揮官や司令部の判断に大きく影響した。特に決定的なのは、小沢艦隊が発した米機動部隊を引きつけ交戦中、の電令を大和が受信していないことだ。逆に小沢艦隊は栗田の再反転の電令を受信し損ねたらしい。艦隊は電波を発して位置を突き止められることを避ける為、微弱な電波を基地局に送り、そこが増幅して発信する。この場合、基地局は不測の事態に備えて受信を確認するまで繰り返し発進すれば良かった。事実大和の上甲板の受信室は、対空砲の増設により戦闘中は轟音と振動で受信が出来なかった。通信線は空襲でしばしば断絶し、度重なる補修で予備の電線が不足したほどだった。また武蔵が妨害電波を発し、米軍が慌てて周波数を変えている。更に太陽の電磁波の強い時期であったのかもしれない。戦争ではよくこういうことが起きる。人が荒れると自然も荒れる。それにしてもハルゼーの釣りだしを本隊が知らなかったとは、痛恨の極みだ。何の為に4隻の空母を犠牲にしたのか。
一方西村艦隊は、25日黎明時に栗田艦隊と呼応してレイテ湾に突入する予定であった。西村艦隊は朝方空襲を受け数隻に損害を受けたが、その後は不思議と攻撃を受けなかった。西村は栗田の一時反転を告げる電令を受信しそこねていたため、栗田艦隊の遅れを知らない。他隊の状況を掴めない中、単独での突入を決意した。
To be continued,