戦さの真相
薄々感じてはいたんだよ。でもこうもあからさまに言われると何だかなー。『謎とき日本合戦史(日本人はどう戦ってきたか)』(鈴木眞哉、講談社現代新書)を読むと、目からウロコが落ちる(パウロのように)。
我々も、はたまた本職の歴史家さえも、いかに軍記物の誤ったイメージに引きずられているかが分かる。軍記物はフィクションだ。話しを面白くするために脚色した物語なのだ。本人が実際に合戦を見たり参加した訳ではない。と言っても他に合戦内容の記録が残っていないから、どうしてもイメージが残ってしまう。
そこで著者が資料にしたのが“軍忠状”だ。軍忠状は、鎌倉時代の終わりごろから始まって、戦国時代を通して続いた自己申告の戦闘報告書だ。様式も名称も様々あるが、恩賞に預かるのが目的なので、指揮官等のチェックが入る。戦功だけでなく損害、戦死や負傷の原因や部位を記しているケースが少なくない。
軍忠状で負傷の内訳をみるとこうなる。矢疵・射疵 86.4%、切疵 9.2%、石疵・礫疵 2.8%、鑓疵・突疵 1.4%、その他 0.2%。10人に1人以下が刀や薙刀、長柄などで切られた。つまり武士は、戦国大名は弓矢で、後には鉄砲で戦ったことが分かる。徹底した遠戦主義で、損害の大きい近接戦闘(白兵戦)を極力避けたわけだ。
しからば日本刀は?伝説の切れ味を見せる日本刀は、鎧・兜を身につけた兵士には刃がたたず、折れるは曲がるは使えない。だが重要な用途があった。敗走した敵を追い、横たわる戦死者や負傷者の首を切り落とす時に必要なんだ。
*他国にあって日本にない武器
古くは戈と弩・連弩だ。まあ戈は主に戦車戦で使われたから、馬で引く戦車がない日本では戈がないのも頷ける。戈は両刃の草刈り鎌の柄の部分を4-5m伸ばしたような兵器で、突いたり敵の首に引っ掛けて使う。連弩は以前このブログで紹介したと思う。始皇帝の秦が短期間に中国を統一した原因になったと思われる秘密兵器だが、日本には伝わらなかった。まっ宦官や纏足と一緒で、入ってこなくて良かった。
弩はクロスボーだ。近代以前の日本では、集団戦法が発達していなかったからかな。盾も手で持つタイプは、少なくとも鎌倉時代以降は使っていない。その代わり母衣がある。背中に大きな蚊帳を背負ったような恰好で騎馬武者が使う。以前TVで実験をしていたが、見事に矢の勢いを8割方そいでいた。布のヒラヒラが効果を呼ぶ。見た目も派手で、演出効果がある。
後は投げやり、投石器(手持ちも攻城用も)も使っていない。石投げはあった。サイドスローで、縁を尖らせた円盤状の石を投げたらしい。三方ヶ原の合戦で、攻め込む徳川軍の前方の尾根筋に武田の投石兵がバラバラと現れて、石(礫)をビュンビュン投げるシーンが頭に残っている。何で読んだんだろうか。石(礫)は
鎧兜を着用していても、お構いなしに打撲を与える効果的な武器だ。しかしゴリアテを倒したダビデのようにひもを使って遠心力を増す工夫は成されていない。連射性を優先したものか。
実はクロスボーは日本に伝わっていたのだ。弥生の遺構で、クロスボーの軸の部品が発掘されている。しかし何故か継承されなかった。弓も日本では身長ほどに長いものが終始使われた。馬上では使いにくいだろうに、短弓は使われなかった。馬上で急に振り返って射かける戦法がなかったのね。それは日本馬の性能の悪さに一因があるのだろう。
*日本馬
日本の在来馬は小さくて弱く、おまけに性格が悪かった。明治の始めに日本を旅した英国の女流紀行家イザベラ・バードは、日本馬について散々悪態をついている。日本馬は体高平均120cm。130cmで体重は300kgくらいだ。サラブレットは165-170cm、4~500kgで、ヨーロッパの大型馬になると170~2m、1,000kgもある。現在体高147cm以下はポニーと呼ばれる。こうなるとシェパードとチワワみたいなものだ。
しからばモンゴル馬はどうよ。あれも小さいだろ。確かにモンゴル馬は小さい。だが耐久性に優れ、モンゴル人は馬の扱いに精通していた。モンゴル兵は軽装で、絹の肌着と前面のみの革の防具(この組み合わせが矢の勢いを削ぐ効果がある)なので軽い。おまけに替え馬を3-5頭使うから馬が疲れない。
モンゴル軍の移動は、家畜の群れが動くようなものだ。走ったまま替え馬に飛び移り、腹が減ったら馬を傷つけてその血を飲む。
日本では蹄鉄の技術も去勢の習慣も無かった。甲冑を着けた武者を乗せたら、日本馬はとても走れない。短時間歩くので精一杯だ。
ヨーロッパの馬は、日本のよりさらに重い甲冑を身に着け槍を持った騎士を乗せて走っている。しかし長い時間はもたなかった。モンゴルと騎士団がポーランドで戦った時に、動きの遅い騎士が突進してくるとモンゴル騎兵はワっと逃げ、疲れたところを取り囲んで嬲り殺しにした。
*戦国の戦
戦国大名の軍隊は、家臣たちが馬も武器も自前で用意した兵員を提供することで成り立つ。家臣は知行や扶持に応じて働く。戦国大名は地域の中小の領主たちを統合して、その上に乗っかっているので、むやみに損害を出すことは出来ない。
当時の人口事情を考えると、失われた兵員の補充がいかに大変であるかが分かる。また集めたとしても訓練の問題がある。弓を射るのには何年もの修行が必要だ。戦国時代の推定人口は、1450年で950万~1000万人、1600年で1400万人~1700万人に過ぎない。武士も百姓も貴重な資源だ。
上杉家では、士卒550人、人夫など150人、計700人で一隊としていた。士卒の中には中間・小者などが含まれるので、戦闘員は約半数。その3分の2近くは槍兵(長柄足軽)で、彼らは甲冑を身に着けず羽織に鉢巻といういで立ちだ。彼らの主な役割は「槍ぶすま」をつくって、敵の突入を防ぐことだ。時には相手の足軽を叩いて隊形を崩すが、よほどの事がなければ敵の待ち構える陣に突入などはしない。
鉄砲足軽・弓足軽は緒戦から甲冑をつけ最前線に出るので、彼らを守ってやらないと直ぐに逃げ去る。野戦の達人と呼ばれた徳川家康が、晩年になって言った。本当の「やり合わせ」なんて石山合戦のときに一度あったと聞いている。
余談だが、戦国の合戦での戦死者数の半分は中間・小者・人足たちだ。彼らは防具をつけていないし、馬にも乗れないから逃げ遅れる。戦国最後の大戦・大坂夏の陣で、勝ちが定まった徳川軍は、子孫のために首を取らなきゃという軍兵により、市民1万人を虐殺した。
永禄4年(1561)9月の川中島の戦いが特筆されるのは、朝もやの中で両軍が思いがけずに鉢合わせ、当時珍しい白兵戦になったからだろう。
鉄砲隊はすぐ逃げる。細川幽斎の言だが、鉄砲衆は敵から少し遠くとも木陰などに配置すべきだという。見通しの良い所に置いて敵の銃撃を受け、手負いの二、三人も出すと逃げ出すからだ。紀州の雑賀衆は、どれだけ大軍が押し寄せても、先駆けの精鋭若干を撃ち倒せば恐れることはないと考えていた。勇敢な先頭が撃ち倒されると、他の者は逃げ散る。
*設楽ヶ原の合戦(長篠の合戦)
まず武田の騎馬軍団なんてなかった。他家同士の指揮官クラスだけが合同で、騎馬部隊を結成するはずがない。そもそも当時は、下馬して徒歩で戦っていた。重い甲冑をつけた武者を乗せたら、馬は走れない。織田・徳川連合軍は、合計1千丁の鉄砲を保持していたが、寄せ集めの足軽衆がいきなり集団戦術を採れるはずがない。雑賀衆・根来衆とは訳が違う。またこちらも各家臣が、鉄砲衆の指揮権を信長に一任するはずがない。鉄砲隊を取り上げられたら、戦闘力が激減してしまう。
武田軍1万5千(別動隊3千)、織田・徳川連合軍3万8千(別動隊4千)。狭い地形で柵や堀を整えた防御陣に、半数以下で攻めかかることが無謀だ。陣地を攻めるなら、少なくとも3倍の兵力は必要だ。勝頼は先代・信玄の重臣たちの言う正論が、頭では分かっていながらカチンときてしまったのだろう。この戦で信玄の宿将はあらかた戦死した。
ちなみに武田軍も鉄砲隊は持っていた。長篠城は武田軍の銃弾で孔だらけになっている。しかし武田軍にとって、銃撃はしっかり狙って一発一発慎重に狙撃するものであったと思われる。織田軍のように、つるべ打ちで湯水の如く撃ちまくっては、たちまち火薬と銃弾の備蓄が底をつく。
黒色火薬の原料は、木炭(5-10%)硫黄(10-25%)硝石(70-80%)だが、硝石の国産率は低く、輸入に頼らざるをえない。木炭なんざいくらでも用意できる。硫黄も珍しく日本で豊富に産出する地下資源だ。しかし硝石は土壌中の有機物や、動物の排泄物に含まれる尿素、またそれが分解することによって生じたアンモニアなどの窒素化合物が原料だ。古い家屋の床下にある土から硝石を取る方法があるが、量がしれている。
また銃弾に使われる鉛も、国産を使えたのは織田信長と大友宗麟だけで、信長はそれでも足らずに輸入していた。倭寇に苦しむ朝鮮は、硝石と鉛を日本へ輸出することを国禁としていたので、主な輸入先はタイ(シャム)だったという。堺や大坂を抑えている信長は、甲斐の武田に比べてはるかに優位だった。
雑賀衆や根来衆は半分海賊だから、海上交通はお手のものだ。紀伊半島から順風にのれば3日で種子島につく。ちょっと足を延ばして琉球に行けば、中国・東南アジアの産物で手に入らないものはない。豊富な弾丸・火薬、訓練された狙撃術と3千丁の鉄砲。兵員数は少なくとも、戦国の世で彼らがいかに恐るべき戦闘集団であったかが分かる。
*近代戦
天下分け目の関ケ原。東西15万人以上の大軍が激しく戦ったが、戦死者は約1万人だ。その半数以上は西軍の敗走時に出たものと思われる。
日露戦争の旅順要塞の攻撃、後方部隊を含めて13万人が参加し、死傷者5万9千人(ロシア側2万2,700人)という大量の犠牲者を出している。江戸時代以前ではありえなかった。葉書一枚でいくらでも兵隊が集められる近代国家体制が無ければ、こんなことは起こりえない。
ヨーロッパでも同様だ。第一次世界大戦で死んだ兵士は1,600万人。塹壕戦で、機関銃と大砲にされされながら敵陣に突入した。第二次世界大戦では軍人2,200~2,500万人、民間人3,800~5,500万人が死んだ。
戦国時代では、例えその戦闘に勝利しても、自分の兵士を大量に減らしてしまったら、武田勝頼のように自滅に追いやられるしかない。
但し、一つだけ例外がある。宗教が絡む戦争だ。信長は加賀や越前の一向衆門徒は、百姓・女子供に至るまで皆殺しにした。徳川幕府は、天草島原の乱のキリシタンを一人残らず殲滅した。信念を持った敵は抹殺するしかないと考えたのだ。
*幕末の戦い
戦国のプロ戦士である武士が、ほとんど直接斬り合ったり槍で突き合ったりしなかったこと、分かってもらえたかな。ヨーロッパでも似たようなものだ。中世・近代の欧州の騎士は、意外にも白兵(近接)戦闘を好んだ。しかし多くの騎士・貴族が参加する割に死傷者が極端に少ないことが多い。白兵戦の方がむしろ手加減出来るものらしい。殺すよりは捕えて身代金を得る方が得なのだ。
それに比べ、いかに鎖帷子を着けているとはいえ、浪士20数名の中に4人で切り込んだ新選組(池田家事件)。近藤勇、沖田総司、永倉新八、藤堂平助の4人。田原坂で、弾薬が尽き抜刀切り込みを繰り返した薩摩隼人(西南戦争)。彼らは戦国武士には考えられないほど無謀で勇敢だ。
しかし幕末の第二次長州征伐、戊辰戦争、上野彰義隊の戦いともなると、銃器の性能で勝敗が決まっている。「勇気は優秀な武器の前には常に無効である。」---軍事史家ウィントリンガム。
わずかにガトリング砲を使って官軍を北越戦争で苦しめた、河合継之助が異彩を放つ。