鄭和の南海大遠征
欧州の大航海時代に先立つこと百年、アジア人がジャンク船の大船団を連ねて西に向かい、マラッカ海峡を越えてベトナム、タイ、インド、セイロン、モルディブ、アラビア半島、アフリカ東海岸へ達した。この大航海は明の永楽帝が企画し、ムスリムの宦官、鄭和が提督となり都合七回に渡って行われた。
明の征旗、龍の旗を翻した大船団が波を蹴立ててインド洋、アラビア海を西に向かう様を思い描くと胸が熱くなる。
なーに、中国嫌い?ケチくさいこと言うなよ。国は嫌いでも中国のお人を、十把一絡げにして嫌ってはいけない。中国人とひとくくりにするんじゃなくて、張xxさん、王xさん、余xx氏として付き合わなくちゃ。
中国が南沙列島を占拠して滑走路を造り、不沈空母とほざいても怖れるには足らない。不沈空母がいかに脆いかは歴史が証明している。太平洋戦争で日本軍の不沈空母だったトラック、サイパン、硫黄島の航空戦力は一撃でやられた。不沈空母は移動が出来ない。確かに滑走路を穴だらけにされても、補修して再利用することは出来るが、補給が途絶えたらお仕舞いだ。制空権を失った守備隊は洞窟か地下に潜るしかない。ガソリンが尽きれば飛行機は飛ばない。たえずメンテナンスをしないと戦闘機は稼働しないが、部品が無ければスクラップ同然だ。
唯一不沈空母としての役割を全うしたのは、地中海に浮かぶマルタ島の戦いだろうか。ロンメル元帥率いるアフリカ軍団への補給路を邪魔するマルタ島の航空戦力は、ドイツ軍にとって目の上のタンコブだった。ドイツ空軍の猛攻を必死に凌いできたマルタ島戦闘機隊も、ついにガソリンが尽きようとしていた。マルタが陥落すればアフリカを失う。アフリカを失えば、次はイランの油田を失う。この油田がドイツに奪われたら、大戦はがぜんドイツの有利になる。英軍は決死の覚悟で補給船団をマルタに送るが、ドイツ軍の猛爆撃で輸送船は次々に沈められた。しかしついに満身創痍の小型タンカーと数隻の輸送船がかろうじてマルタにたどり着く。これで息を吹き返したマルタ島戦闘機隊は島を守り抜く。
さてどうしてこう話しが飛んでいくんだろう。ところで、ムスリム(イスラム教徒)の宦官って何?宦官とは、おチンチンをぶった切られた人。後宮、ハレムを守るのに間違いがあってはいけないので採用された制度で、中国だけでなくイスラム王朝でも用いられた。朝鮮王朝でも採用されたが、倭国(日本)には入ってこなかった。良かったね。
宦官は子を仕込むことが出来ないから、基本的に(養子が取れた時代もあった。)一代で終わる。守るべき子孫も家名も無ければ、欲を持つことも無いだろうと思うが、さにあらず。断ち切られた欲望はいびつにゆがんで、ドロドロと増殖する。しかし彼らがいくら権力を手にしても皇帝にはなれない。特に明朝は宦官が活躍した時代だ。理由は後で述べる。後宮の管理に留まらず、皇帝の秘書官として司法、行政、警察を握り、軍司令官としても働いた。歴代の中華王朝は、宦官と外戚(皇后や妾の親族)の横暴に交互に苦しめられてきたのに、最後まで懲りない。仲間、兄弟、部下、先代の行政官を皆殺しにするから、ごく近くの取り巻きしか信用出来なくなるのかね。
映画『ラスト・エンペラー』で出てくるでしょう。清朝最後の日、キンキン声の宦官数千人が紫禁城から叩きだされ、泣きながら右往左往する。印象的なシーンだよな。だが全ての宦官が髭のないつるんとした顔をして、甲高い声を発していると思ったら大間違いだ。名著『史記』を記した司馬遷は、対匈奴戦で敗北して降伏した李陵を庇い、武帝を批判して宮刑(男性器切除。腐刑とも言う。)に遇って宦官にされた。人の心を打つ『史記』は、死よりもつらい屈辱を与えられた司馬遷が、渾身の男気を振るって書き上げた歴史書だ。
宮刑は敵方の捕虜に対して適用されることもあった。オスマン帝国では、キリスト教徒のすぐれた少年を数年に一度選び出し、イスラム教に改宗させて英才教育を施す。少数の少年は高級官僚となり、大半は皇帝の親衛隊イェニチェリとなる。死を恐れず残虐に戦うイェニチェリ軍団はヨーロッパを震え上がらせた。彼らが振るう半月刀と軍楽隊のタイコの音は、血の雨と破壊を呼び寄せる。イェニチェリは一代限り、世襲は出来ないのでこの世に未練は薄い。それでもイェニチェリはおチンチンを持っている。彼らは宦官ではなかった。鄭和と環境が似ている所があるが、違う。
大船団を率いた鄭和が、何故宦官になったのかはよく分からない。彼の本名は馬和、「鄭」姓は戦場に於ける功績を称え、永楽帝が与えたものだ。馬はムハンマド(マホメット)の音をとった姓で、中国に移住した多くのイスラム教徒が名乗るありふれた姓であった。鄭和は雲南省に生まれた色目人(外国人)で、モンゴル帝国の崩壊に伴って明軍に捕えられ、12-3歳で去勢され宦官にされた。彼自身はモンゴル系ではなさそうだが、モンゴルに使われていた異国人という事で、雲南省を占領した明軍の将軍の勇み足で少年なのに宦官にされてしまったらしい。
明国の創業者、洪武帝は猜疑心が強く三次に渡って部下の陰謀を指摘し、その都度1万5千人づつを処刑した。その結果国の功臣は根絶やしとなり、優れた将軍はいなくなった。洪武帝が世を去り皇太孫が即位したが、叔父である諸王の排除に乗り出した。その危機感から叔父の最有力者である燕王は反逆し、三年の戦いの後に皇帝位を奪った。43歳の燕王は第三代の皇帝、永楽帝となり前皇帝を支持した官僚達を、一族もろとも殺害した。鄭和はこの内戦「靖難の変」で軍司令官として活躍した。永楽帝の即位によって明帝国の基盤はようやく治まったが、彼は官僚にも一族にも頼ることが出来ない為、自らの側近で忠実な宦官を最大限利用して、独裁体制を敷かざるを得なかった。
永楽帝はやたらと中華思想にこだわり、形式的な傾向があるが、王位を簒奪した後ろめたさがあったように思われる。永楽帝の大中華主義に基づく遠征は、鄭和の南海遠征だけでは無かった。自らは即位後間もなく80万の大軍を率いて安南(べトナム)を征服した。そして宦官の李興をシャムへ、李達を西域諸国へ、侯顕をチベット、ネパール、後にはベンガルへ繰り返し派遣した。アムール、サハリン(樺太)へは宦官イシハが二度派遣され、アイヌの人達に朝貢を促した。
日本にも使節が派遣され、足利義満には「日本国王之印」が与えられた。この金印は残っていない。明は義満に、当時帝国を悩ませていた倭寇の取り締まりを依頼し、義満はそれを了承して勘合貿易を始めた。権力基盤の弱い室町政府でも、海賊取り締まり令は多少の効果はあったらしい。
14-5世紀、中世の海は、マラッカより西はイスラム商人のダウ船、東は中国商人のジャンク船によって盛んに交易が行われていた。何しろ羅針盤は中国では11世紀の文献に出てくる。しかし中国、朝鮮は日本の海賊、倭寇に苦しめられていた。明は対倭寇対策として度々海禁策を採り、時には沿岸から内陸へ100km?離れろ、という乱暴な策を出した。しかし民間の貿易が止む事はなかった。いつの時代にも冒険心に富む連中はいる。何しろ船は、ラクダの背に載せるよりも遥かに多くの荷物を一度に運べる。鄭和の遠征に先だって、永楽帝は海禁策を出しているが、海外には漢族の民間貿易商人がすでに沢山いて、鄭和は彼らと提携したり討伐したりしている。必ずしも一律に禁じている訳ではない。
中華思想に基づく朝貢とは実に馬鹿らしいもので、世界の中心の天子さまに地の果ての未開国が貢物を持って挨拶に参りました。よろしい、愛い奴じゃ。土産を取らそう、という事で持参した品より何倍、十何倍の価値のある下賜品を渡す。自己満足だけの、朝貢国と量が増えれば増えるほど持ち出し、財政を圧迫するものだった。しかし鄭和の大遠征の目的は、この朝貢国を増やし帝国の国位を上げることだった。この事が鄭和以降に遠征が行われなくなる原因となった。対等かちょっと持ち出し、くらいに止めておけば貿易で利益が上がったのに。
さて次に七回の遠征の内容を簡単に記してみよう。
第一次航海:1405年7月出発。鄭和34歳。1407年9月帰国。蘇州よりチャンパ王国(ベトナム南部)→スラバヤ(ジャワ島)→パレンバン→マラッカ→アル→サムドラ・パサイ王国→セイロン→カリカット(インド北西部)
第二次航海:1407年末出発。鄭和36歳。1409年夏帰国。第一次に加えてアユタヤ(タイ)、マジャパヒト王国(ジャワ)訪問。セイロン(スリランカ)に漢文・タミル語・ペルシャ語の3ヶ国語で書かれた石碑を建てている。ここでペルシャ語。ダウ船のイスラム商人はペルシャ人が多かったのか。それとも鄭和はペルシャ人だったのか?
第三次航海:1409 年末出発。鄭和38歳。1411年7月帰国。航路は前回、前々回とほぼ同じ。
第四次航海:1413年の冬出発。鄭和44歳。1415年7月帰国。カリカットへ至るまではこれまでとほぼ同じ航路を採るが、今回は更に西進してペルシャ湾のホルムズ王国に至る。分遣隊はアデン(現イエメン)に至る。
第五次航海:1417年冬出発。鄭和46歳。1419年8月帰国。本隊はセイロンからホルムズに到着。分隊はモルディブ、アデンを経由してアフリカ大陸東岸に到達。ライオン・ヒョウ・ダチョウ・シマウマ・サイなどを連れ帰った。
第六次航海:1421年2月出発。鄭和50歳。帰国は1422年8月。それまでとは異なり、朝貢にやってきていた各国の使節を送るためのものであった。サマトラで分遣隊を出し、本隊は撤収。分遣隊は1423年にアデンに至った。
第七次航海:永楽帝の死後に孫の宣徳帝の命令による。1413年12月出発。鄭和60歳。1433年7月帰国。ホルムズに至る。分遣隊は東アフリカ、南アラビアの諸港を巡りメッカに至った。
鄭和は帰国後ほどなくして死去。詳しい最期は分かっていない。航海の帰途インドのカリカットで亡くなったともいう。もしそうだとすると鄭和の死の65年後に、ヴァスコ・ダ・ガマの率いるポルトガル船団が喜望峰を巡ってカリカットに到着したから、アジアの大航海時代とヨーロッパの大航海時代が劇的に入れ替わったことになる。
鄭和の死後明は再び鎖国的になり、国家主導の航海は二度と行われなかった。一番の原因は財政難である。北京遷都が行われた。また明は北方に逃れたモンゴルとの戦闘に国力を割かれた。現在残っている万里の長城は、そのほとんどが明代に造られたものだ。モンゴル残党との戦争は激しく、一度は皇帝が捕虜になっている。一回だけもう一度大航海をやろうか、という話しになったのだが、結局取り止めになってしまった。
大航海の貴重な詳細な莫大な資料は、後の役人がこっそりと燃やしてしまった。二度と航海を行う事が無いように、という理由からだ。愛国心からだと言うのだろうが、燃やしたドブネズミのような役人は呪われろ。現在残っている断片的な資料は、航海に1-2回参加した文官達が私的に残したものに過ぎない。
鄭和は身長180cm、立派な体格をした偉丈夫であったと云う。彼は宦官の最高位、太監であったので、彼の別名をつけて三保太監・三宝太監と呼ばれ、寄港した各地での評判は高くジャワ・スマトラ・タイでは三宝廟が建立された。また鄭和艦隊は第一回からマラッカを根拠地と重視したため、マラッカ王国は中国艦隊の来航が途絶えた後も、東西貿易の中継港として繁栄を極めた。
さて鄭和の艦隊はどのような陣営だったのか?乗組員数はほぼ一定していた。第一回27,800余人、第三回27,000余人、第七回27,550人。内訳は宦官指揮官、外交官、交易の官僚、操船、軍事、儀仗の他、通訳、書記、航海士、操舵手、鍛冶工、船大工、水夫等々。外交、交易、戦闘のいずれにも直ぐに対応出来る。天体・天候の専門家として「陰陽士」が乗り、医官・医士が180名と通常に比べて格段に多い。乗組員150人に一人の割合だ。
木造船だが、艦隊の中心は大型船60余隻、周囲に100隻を超える小船を配し、全体では200余隻の艦隊であったらしい。第一次遠征に208隻という資料が残っている。艦隊の中核となった巨艦は「宝船」と呼ばれる。少なくとも4-500人、場合によっては1,000人に近い乗組員が乗り込んだと推測される。最大の宝船は長さ約151.8m、幅約61.6m。中くらいの宝船は長さ約126.5m、幅約51.3m。積載重量は約2,500トン、排水量は約3,100トンと推定される。一説では8,000トンともいう。幅広な船だ。戦闘向きではないな、遅いだろうし。これを東郷元帥の旗艦、戦艦「三笠」と比べてみよう。排水量は15,140トン、乗員は860人、全長131.7m、全幅23.2mである。
補助艦は、入り江や川を遡って淡水を採って艦隊に補給する「水船」、糧食を扱う「糧船」、「戦闘艦」大・小、動物を専門に輸送する「馬船」、浅い湾などで沖に停泊した大型船から人や荷物を移送する快速船等があったものと思われる。27,000人の食料は一日で約70トンを消費する。水もまた相当な量だろう。
乗組員の数に関して、124年前の「元寇」と比較してみよう。文永の役(1274年)兵数25,000、船数900、各船の平均人数は28人。弘安の役(1281年)東路軍:兵数4万、船900、平均44人。江南軍:兵10万、船3,500、平均29人である。元のジャワ遠征時は船500、軍士2万。別の伝承では船1,000、兵2万。日本は距離的に近かったから小型船を用いた、という訳ではないようだ。100年で造船技術は飛躍的に向上したらしい。
ちなみに元朝にとって「元寇」の失敗はどうだったのか。えっどこが失敗?結果は上々、万々歳だ。滅したとはいえ、南宋の残党は数が多い。特に水軍の力はあなどれない脅威だ。海に逃げられたら手に負えない。それが海に沈んで良かった。安心した。もしうまくいって日本を占領出来れば、それでも良い。どっちに転んでも構わない。気の毒なのは朝鮮だ。数千の軍船の建造を割り当てられ、古木名木を根こそぎ切り倒してしまった。朝鮮には樹齢千年を超える古木が残っていない。でもこれは日本のせいではないよ。
鄭和の第七次遠征の約60年後に行われた、コロンブスの第一回航海(1492年)と比較してみよう。3隻の艦船、120人の乗組員である。旗艦サンタ・マリア号は200~250トンに過ぎない。ヴァスコ・ダ・ガマの艦隊は4隻、170人。旗艦サン・ガブリエル号は120トンしかない。マゼランの航海は5隻、265人だ。船員達は壊血病でバタバタと死んでいった。ガマの乗組員の内100人が壊血病で死んだ。ビタミンCの不足による航海での病死の問題は、19世紀に至るまで解決せず欧州の船乗りを苦しめた。ところが鄭和の艦隊は大丈夫だった。何と船内でモヤシを栽培していた!モヤシ船があったのか、各船で行っていたのか、今となっては分からない。
マゼランは世界一周航海の途中、フィリピンで土民間の抗争に巻き込まれて戦士した。1521年のことだ。鄭和はどうだったのか。第一次の航海で二番目の寄港地ジャワで、王位を争う戦いに巻き込まれ170名の兵士を失った。波乱の幕開けだな。この時は攻撃した王からの謝罪を受け入れ、黄金一万両の賠償金を取った。
スマトラ島バレンバンでは、対立する華僑の一方から攻撃を受けたが迎え撃ち、10隻の敵船を焼き5,000人を殺害、7隻の艦船と三人の頭目を生け捕った。第三次の航海では帰路、セイロンで王の騙し討ちに遇った。セイロン王は5万人の軍隊を動員して艦隊を攻撃したが、鄭和は招待を受け上陸していた2,000人を率いて、間道から王宮に攻め込み王とその一族を捕えた。戻ってきた主力軍と激戦を繰り返し、無事艦隊の停泊地に戻った。捕虜としたセイロン王は明帝国に連行した。鄭和艦隊の2万7千人は大人数に見えるが、兵士は一部だけで過半は船乗りだった。宝船の操作(舵、錨、主帆)には100~200人の力を要したという。航海を続けるためには千人単位の人的損害は命取りになる。本来この艦隊は戦闘を目的としていない。
そうしてみると鄭和がいかに優れた指揮者であったかがよく分かる。七次に渡る航海の間、大きな海難、部下の反乱、疫病の蔓延に遇っていない。並みのリーダーではなかった。七回目、最後の航海で60歳になっていても代わりがいなかったのもうなずける。また鄭和がムスリムであったことは大きなメリットだった。何しろマラッカから西の海は、イスラムの船乗りの助けが必要不可欠なのだから。
鄭和艦隊の航海には、宋代以降改良が続けられてきた航海技術が駆使された。主に羅針盤を利用して進路を定めたが、マラッカまでは特色ある沿海の景観観測、重りを付けた縄を用いて深度を測り、海底の泥を採取し泥の特徴から船の位置を確認する。船が揺れても方位を誤らないように、磁石を埋め込んだ木片を水盤に浮かべ磁極を測る。鄭和の持つ羅針盤は48の方位に分割されていた。マラッカ海峡を越えてインド洋に出ると、そこはムスリムの船乗りが活躍する「ダウ船の海」だ。北辰星や灯籠星(南十字星)黄蓋星、織女星といった天体観測によって緯度の測定を行う。15世紀のインド洋の星空は美しかっただろうな。勇壮だなあ。この大遠征には夢がある。ロマンがある。未知の世界との出会いがある。
信頼出来る部下、高潔で決断力のある指揮官、各々が自分の職分を果たしつつ乗組員はワクワクするような高揚感があったのではないかな。母国の国威を高め、見たこともない動植物を目にし、港港で異国の人々に出会う。葡萄酒を飲みココヤシを味わうのは楽しかったことだろう。参加した乗組員は誇らしかったことだろう。鄭和の遠征で明にもたらされた財宝は山のようにあるが、珍品としては乳香や竜涎香(マッコウクジラの内分泌物)、海ツバメの巣(高級食材)。動物ではライオン、ヒョウ、アラブ馬、キリン、シマウマ、ラクダ、ダチョウ。「馬船」にエサを山ほど積み込んで動物を乗せ連れ帰った。
アラブ種の馬は交配が出来なかったのかな。中国人はキリンやダチョウを見てびっくりしただろう。江戸の民衆が象を見て喜んだのと同じだ。情報の少ない時代だからキリンを見た人は孫にまで語り継いだことだろう。
永楽帝もキリンを見て大変喜んだ。伝説の神獣、麒麟とソマリ語の音が似ていたのだ。これはめでたい。余の治世に麒麟が現れるとは。この永楽帝という人は冒険好きだったに違いない。鄭和の探検談をわくわくしながら聞いていたんだろうな。早く早く、二次三次の遠征はせかすように秋に帰ってきて冬に出発だ。鄭和が遠征に出て戻るまでの二年間、永楽帝は帰国が待ち遠しかったことだろう。今度はどんな冒険談が聞けるのか。どこの国の使節を同伴しているのだろう。少年のような王様だな。このスポンサーがいなければ大遠征は無かった。海など見たことの無い雲南省で生まれた鄭和にとって、幸せなことだったかどうかは分からないが、2万7千人、200隻の大船団を率い龍の旗を翻して西を目指す。男が奮い立たない訳はない。
世界史の教科書では一行、二行の記述に過ぎない鄭和の南海大遠征、少しはお楽しみいただけましたかな。そうそう、今でもマダガスカル島の東海岸を歩くと、陶磁器のかけらが落ちていることがあると云う。
次回は大阪夏の陣ー毛利勝永、といきまっせ。
欧州の大航海時代に先立つこと百年、アジア人がジャンク船の大船団を連ねて西に向かい、マラッカ海峡を越えてベトナム、タイ、インド、セイロン、モルディブ、アラビア半島、アフリカ東海岸へ達した。この大航海は明の永楽帝が企画し、ムスリムの宦官、鄭和が提督となり都合七回に渡って行われた。
明の征旗、龍の旗を翻した大船団が波を蹴立ててインド洋、アラビア海を西に向かう様を思い描くと胸が熱くなる。
なーに、中国嫌い?ケチくさいこと言うなよ。国は嫌いでも中国のお人を、十把一絡げにして嫌ってはいけない。中国人とひとくくりにするんじゃなくて、張xxさん、王xさん、余xx氏として付き合わなくちゃ。
中国が南沙列島を占拠して滑走路を造り、不沈空母とほざいても怖れるには足らない。不沈空母がいかに脆いかは歴史が証明している。太平洋戦争で日本軍の不沈空母だったトラック、サイパン、硫黄島の航空戦力は一撃でやられた。不沈空母は移動が出来ない。確かに滑走路を穴だらけにされても、補修して再利用することは出来るが、補給が途絶えたらお仕舞いだ。制空権を失った守備隊は洞窟か地下に潜るしかない。ガソリンが尽きれば飛行機は飛ばない。たえずメンテナンスをしないと戦闘機は稼働しないが、部品が無ければスクラップ同然だ。
唯一不沈空母としての役割を全うしたのは、地中海に浮かぶマルタ島の戦いだろうか。ロンメル元帥率いるアフリカ軍団への補給路を邪魔するマルタ島の航空戦力は、ドイツ軍にとって目の上のタンコブだった。ドイツ空軍の猛攻を必死に凌いできたマルタ島戦闘機隊も、ついにガソリンが尽きようとしていた。マルタが陥落すればアフリカを失う。アフリカを失えば、次はイランの油田を失う。この油田がドイツに奪われたら、大戦はがぜんドイツの有利になる。英軍は決死の覚悟で補給船団をマルタに送るが、ドイツ軍の猛爆撃で輸送船は次々に沈められた。しかしついに満身創痍の小型タンカーと数隻の輸送船がかろうじてマルタにたどり着く。これで息を吹き返したマルタ島戦闘機隊は島を守り抜く。
さてどうしてこう話しが飛んでいくんだろう。ところで、ムスリム(イスラム教徒)の宦官って何?宦官とは、おチンチンをぶった切られた人。後宮、ハレムを守るのに間違いがあってはいけないので採用された制度で、中国だけでなくイスラム王朝でも用いられた。朝鮮王朝でも採用されたが、倭国(日本)には入ってこなかった。良かったね。
宦官は子を仕込むことが出来ないから、基本的に(養子が取れた時代もあった。)一代で終わる。守るべき子孫も家名も無ければ、欲を持つことも無いだろうと思うが、さにあらず。断ち切られた欲望はいびつにゆがんで、ドロドロと増殖する。しかし彼らがいくら権力を手にしても皇帝にはなれない。特に明朝は宦官が活躍した時代だ。理由は後で述べる。後宮の管理に留まらず、皇帝の秘書官として司法、行政、警察を握り、軍司令官としても働いた。歴代の中華王朝は、宦官と外戚(皇后や妾の親族)の横暴に交互に苦しめられてきたのに、最後まで懲りない。仲間、兄弟、部下、先代の行政官を皆殺しにするから、ごく近くの取り巻きしか信用出来なくなるのかね。
映画『ラスト・エンペラー』で出てくるでしょう。清朝最後の日、キンキン声の宦官数千人が紫禁城から叩きだされ、泣きながら右往左往する。印象的なシーンだよな。だが全ての宦官が髭のないつるんとした顔をして、甲高い声を発していると思ったら大間違いだ。名著『史記』を記した司馬遷は、対匈奴戦で敗北して降伏した李陵を庇い、武帝を批判して宮刑(男性器切除。腐刑とも言う。)に遇って宦官にされた。人の心を打つ『史記』は、死よりもつらい屈辱を与えられた司馬遷が、渾身の男気を振るって書き上げた歴史書だ。
宮刑は敵方の捕虜に対して適用されることもあった。オスマン帝国では、キリスト教徒のすぐれた少年を数年に一度選び出し、イスラム教に改宗させて英才教育を施す。少数の少年は高級官僚となり、大半は皇帝の親衛隊イェニチェリとなる。死を恐れず残虐に戦うイェニチェリ軍団はヨーロッパを震え上がらせた。彼らが振るう半月刀と軍楽隊のタイコの音は、血の雨と破壊を呼び寄せる。イェニチェリは一代限り、世襲は出来ないのでこの世に未練は薄い。それでもイェニチェリはおチンチンを持っている。彼らは宦官ではなかった。鄭和と環境が似ている所があるが、違う。
大船団を率いた鄭和が、何故宦官になったのかはよく分からない。彼の本名は馬和、「鄭」姓は戦場に於ける功績を称え、永楽帝が与えたものだ。馬はムハンマド(マホメット)の音をとった姓で、中国に移住した多くのイスラム教徒が名乗るありふれた姓であった。鄭和は雲南省に生まれた色目人(外国人)で、モンゴル帝国の崩壊に伴って明軍に捕えられ、12-3歳で去勢され宦官にされた。彼自身はモンゴル系ではなさそうだが、モンゴルに使われていた異国人という事で、雲南省を占領した明軍の将軍の勇み足で少年なのに宦官にされてしまったらしい。
明国の創業者、洪武帝は猜疑心が強く三次に渡って部下の陰謀を指摘し、その都度1万5千人づつを処刑した。その結果国の功臣は根絶やしとなり、優れた将軍はいなくなった。洪武帝が世を去り皇太孫が即位したが、叔父である諸王の排除に乗り出した。その危機感から叔父の最有力者である燕王は反逆し、三年の戦いの後に皇帝位を奪った。43歳の燕王は第三代の皇帝、永楽帝となり前皇帝を支持した官僚達を、一族もろとも殺害した。鄭和はこの内戦「靖難の変」で軍司令官として活躍した。永楽帝の即位によって明帝国の基盤はようやく治まったが、彼は官僚にも一族にも頼ることが出来ない為、自らの側近で忠実な宦官を最大限利用して、独裁体制を敷かざるを得なかった。
永楽帝はやたらと中華思想にこだわり、形式的な傾向があるが、王位を簒奪した後ろめたさがあったように思われる。永楽帝の大中華主義に基づく遠征は、鄭和の南海遠征だけでは無かった。自らは即位後間もなく80万の大軍を率いて安南(べトナム)を征服した。そして宦官の李興をシャムへ、李達を西域諸国へ、侯顕をチベット、ネパール、後にはベンガルへ繰り返し派遣した。アムール、サハリン(樺太)へは宦官イシハが二度派遣され、アイヌの人達に朝貢を促した。
日本にも使節が派遣され、足利義満には「日本国王之印」が与えられた。この金印は残っていない。明は義満に、当時帝国を悩ませていた倭寇の取り締まりを依頼し、義満はそれを了承して勘合貿易を始めた。権力基盤の弱い室町政府でも、海賊取り締まり令は多少の効果はあったらしい。
14-5世紀、中世の海は、マラッカより西はイスラム商人のダウ船、東は中国商人のジャンク船によって盛んに交易が行われていた。何しろ羅針盤は中国では11世紀の文献に出てくる。しかし中国、朝鮮は日本の海賊、倭寇に苦しめられていた。明は対倭寇対策として度々海禁策を採り、時には沿岸から内陸へ100km?離れろ、という乱暴な策を出した。しかし民間の貿易が止む事はなかった。いつの時代にも冒険心に富む連中はいる。何しろ船は、ラクダの背に載せるよりも遥かに多くの荷物を一度に運べる。鄭和の遠征に先だって、永楽帝は海禁策を出しているが、海外には漢族の民間貿易商人がすでに沢山いて、鄭和は彼らと提携したり討伐したりしている。必ずしも一律に禁じている訳ではない。
中華思想に基づく朝貢とは実に馬鹿らしいもので、世界の中心の天子さまに地の果ての未開国が貢物を持って挨拶に参りました。よろしい、愛い奴じゃ。土産を取らそう、という事で持参した品より何倍、十何倍の価値のある下賜品を渡す。自己満足だけの、朝貢国と量が増えれば増えるほど持ち出し、財政を圧迫するものだった。しかし鄭和の大遠征の目的は、この朝貢国を増やし帝国の国位を上げることだった。この事が鄭和以降に遠征が行われなくなる原因となった。対等かちょっと持ち出し、くらいに止めておけば貿易で利益が上がったのに。
さて次に七回の遠征の内容を簡単に記してみよう。
第一次航海:1405年7月出発。鄭和34歳。1407年9月帰国。蘇州よりチャンパ王国(ベトナム南部)→スラバヤ(ジャワ島)→パレンバン→マラッカ→アル→サムドラ・パサイ王国→セイロン→カリカット(インド北西部)
第二次航海:1407年末出発。鄭和36歳。1409年夏帰国。第一次に加えてアユタヤ(タイ)、マジャパヒト王国(ジャワ)訪問。セイロン(スリランカ)に漢文・タミル語・ペルシャ語の3ヶ国語で書かれた石碑を建てている。ここでペルシャ語。ダウ船のイスラム商人はペルシャ人が多かったのか。それとも鄭和はペルシャ人だったのか?
第三次航海:1409 年末出発。鄭和38歳。1411年7月帰国。航路は前回、前々回とほぼ同じ。
第四次航海:1413年の冬出発。鄭和44歳。1415年7月帰国。カリカットへ至るまではこれまでとほぼ同じ航路を採るが、今回は更に西進してペルシャ湾のホルムズ王国に至る。分遣隊はアデン(現イエメン)に至る。
第五次航海:1417年冬出発。鄭和46歳。1419年8月帰国。本隊はセイロンからホルムズに到着。分隊はモルディブ、アデンを経由してアフリカ大陸東岸に到達。ライオン・ヒョウ・ダチョウ・シマウマ・サイなどを連れ帰った。
第六次航海:1421年2月出発。鄭和50歳。帰国は1422年8月。それまでとは異なり、朝貢にやってきていた各国の使節を送るためのものであった。サマトラで分遣隊を出し、本隊は撤収。分遣隊は1423年にアデンに至った。
第七次航海:永楽帝の死後に孫の宣徳帝の命令による。1413年12月出発。鄭和60歳。1433年7月帰国。ホルムズに至る。分遣隊は東アフリカ、南アラビアの諸港を巡りメッカに至った。
鄭和は帰国後ほどなくして死去。詳しい最期は分かっていない。航海の帰途インドのカリカットで亡くなったともいう。もしそうだとすると鄭和の死の65年後に、ヴァスコ・ダ・ガマの率いるポルトガル船団が喜望峰を巡ってカリカットに到着したから、アジアの大航海時代とヨーロッパの大航海時代が劇的に入れ替わったことになる。
鄭和の死後明は再び鎖国的になり、国家主導の航海は二度と行われなかった。一番の原因は財政難である。北京遷都が行われた。また明は北方に逃れたモンゴルとの戦闘に国力を割かれた。現在残っている万里の長城は、そのほとんどが明代に造られたものだ。モンゴル残党との戦争は激しく、一度は皇帝が捕虜になっている。一回だけもう一度大航海をやろうか、という話しになったのだが、結局取り止めになってしまった。
大航海の貴重な詳細な莫大な資料は、後の役人がこっそりと燃やしてしまった。二度と航海を行う事が無いように、という理由からだ。愛国心からだと言うのだろうが、燃やしたドブネズミのような役人は呪われろ。現在残っている断片的な資料は、航海に1-2回参加した文官達が私的に残したものに過ぎない。
鄭和は身長180cm、立派な体格をした偉丈夫であったと云う。彼は宦官の最高位、太監であったので、彼の別名をつけて三保太監・三宝太監と呼ばれ、寄港した各地での評判は高くジャワ・スマトラ・タイでは三宝廟が建立された。また鄭和艦隊は第一回からマラッカを根拠地と重視したため、マラッカ王国は中国艦隊の来航が途絶えた後も、東西貿易の中継港として繁栄を極めた。
さて鄭和の艦隊はどのような陣営だったのか?乗組員数はほぼ一定していた。第一回27,800余人、第三回27,000余人、第七回27,550人。内訳は宦官指揮官、外交官、交易の官僚、操船、軍事、儀仗の他、通訳、書記、航海士、操舵手、鍛冶工、船大工、水夫等々。外交、交易、戦闘のいずれにも直ぐに対応出来る。天体・天候の専門家として「陰陽士」が乗り、医官・医士が180名と通常に比べて格段に多い。乗組員150人に一人の割合だ。
木造船だが、艦隊の中心は大型船60余隻、周囲に100隻を超える小船を配し、全体では200余隻の艦隊であったらしい。第一次遠征に208隻という資料が残っている。艦隊の中核となった巨艦は「宝船」と呼ばれる。少なくとも4-500人、場合によっては1,000人に近い乗組員が乗り込んだと推測される。最大の宝船は長さ約151.8m、幅約61.6m。中くらいの宝船は長さ約126.5m、幅約51.3m。積載重量は約2,500トン、排水量は約3,100トンと推定される。一説では8,000トンともいう。幅広な船だ。戦闘向きではないな、遅いだろうし。これを東郷元帥の旗艦、戦艦「三笠」と比べてみよう。排水量は15,140トン、乗員は860人、全長131.7m、全幅23.2mである。
補助艦は、入り江や川を遡って淡水を採って艦隊に補給する「水船」、糧食を扱う「糧船」、「戦闘艦」大・小、動物を専門に輸送する「馬船」、浅い湾などで沖に停泊した大型船から人や荷物を移送する快速船等があったものと思われる。27,000人の食料は一日で約70トンを消費する。水もまた相当な量だろう。
乗組員の数に関して、124年前の「元寇」と比較してみよう。文永の役(1274年)兵数25,000、船数900、各船の平均人数は28人。弘安の役(1281年)東路軍:兵数4万、船900、平均44人。江南軍:兵10万、船3,500、平均29人である。元のジャワ遠征時は船500、軍士2万。別の伝承では船1,000、兵2万。日本は距離的に近かったから小型船を用いた、という訳ではないようだ。100年で造船技術は飛躍的に向上したらしい。
ちなみに元朝にとって「元寇」の失敗はどうだったのか。えっどこが失敗?結果は上々、万々歳だ。滅したとはいえ、南宋の残党は数が多い。特に水軍の力はあなどれない脅威だ。海に逃げられたら手に負えない。それが海に沈んで良かった。安心した。もしうまくいって日本を占領出来れば、それでも良い。どっちに転んでも構わない。気の毒なのは朝鮮だ。数千の軍船の建造を割り当てられ、古木名木を根こそぎ切り倒してしまった。朝鮮には樹齢千年を超える古木が残っていない。でもこれは日本のせいではないよ。
鄭和の第七次遠征の約60年後に行われた、コロンブスの第一回航海(1492年)と比較してみよう。3隻の艦船、120人の乗組員である。旗艦サンタ・マリア号は200~250トンに過ぎない。ヴァスコ・ダ・ガマの艦隊は4隻、170人。旗艦サン・ガブリエル号は120トンしかない。マゼランの航海は5隻、265人だ。船員達は壊血病でバタバタと死んでいった。ガマの乗組員の内100人が壊血病で死んだ。ビタミンCの不足による航海での病死の問題は、19世紀に至るまで解決せず欧州の船乗りを苦しめた。ところが鄭和の艦隊は大丈夫だった。何と船内でモヤシを栽培していた!モヤシ船があったのか、各船で行っていたのか、今となっては分からない。
マゼランは世界一周航海の途中、フィリピンで土民間の抗争に巻き込まれて戦士した。1521年のことだ。鄭和はどうだったのか。第一次の航海で二番目の寄港地ジャワで、王位を争う戦いに巻き込まれ170名の兵士を失った。波乱の幕開けだな。この時は攻撃した王からの謝罪を受け入れ、黄金一万両の賠償金を取った。
スマトラ島バレンバンでは、対立する華僑の一方から攻撃を受けたが迎え撃ち、10隻の敵船を焼き5,000人を殺害、7隻の艦船と三人の頭目を生け捕った。第三次の航海では帰路、セイロンで王の騙し討ちに遇った。セイロン王は5万人の軍隊を動員して艦隊を攻撃したが、鄭和は招待を受け上陸していた2,000人を率いて、間道から王宮に攻め込み王とその一族を捕えた。戻ってきた主力軍と激戦を繰り返し、無事艦隊の停泊地に戻った。捕虜としたセイロン王は明帝国に連行した。鄭和艦隊の2万7千人は大人数に見えるが、兵士は一部だけで過半は船乗りだった。宝船の操作(舵、錨、主帆)には100~200人の力を要したという。航海を続けるためには千人単位の人的損害は命取りになる。本来この艦隊は戦闘を目的としていない。
そうしてみると鄭和がいかに優れた指揮者であったかがよく分かる。七次に渡る航海の間、大きな海難、部下の反乱、疫病の蔓延に遇っていない。並みのリーダーではなかった。七回目、最後の航海で60歳になっていても代わりがいなかったのもうなずける。また鄭和がムスリムであったことは大きなメリットだった。何しろマラッカから西の海は、イスラムの船乗りの助けが必要不可欠なのだから。
鄭和艦隊の航海には、宋代以降改良が続けられてきた航海技術が駆使された。主に羅針盤を利用して進路を定めたが、マラッカまでは特色ある沿海の景観観測、重りを付けた縄を用いて深度を測り、海底の泥を採取し泥の特徴から船の位置を確認する。船が揺れても方位を誤らないように、磁石を埋め込んだ木片を水盤に浮かべ磁極を測る。鄭和の持つ羅針盤は48の方位に分割されていた。マラッカ海峡を越えてインド洋に出ると、そこはムスリムの船乗りが活躍する「ダウ船の海」だ。北辰星や灯籠星(南十字星)黄蓋星、織女星といった天体観測によって緯度の測定を行う。15世紀のインド洋の星空は美しかっただろうな。勇壮だなあ。この大遠征には夢がある。ロマンがある。未知の世界との出会いがある。
信頼出来る部下、高潔で決断力のある指揮官、各々が自分の職分を果たしつつ乗組員はワクワクするような高揚感があったのではないかな。母国の国威を高め、見たこともない動植物を目にし、港港で異国の人々に出会う。葡萄酒を飲みココヤシを味わうのは楽しかったことだろう。参加した乗組員は誇らしかったことだろう。鄭和の遠征で明にもたらされた財宝は山のようにあるが、珍品としては乳香や竜涎香(マッコウクジラの内分泌物)、海ツバメの巣(高級食材)。動物ではライオン、ヒョウ、アラブ馬、キリン、シマウマ、ラクダ、ダチョウ。「馬船」にエサを山ほど積み込んで動物を乗せ連れ帰った。
アラブ種の馬は交配が出来なかったのかな。中国人はキリンやダチョウを見てびっくりしただろう。江戸の民衆が象を見て喜んだのと同じだ。情報の少ない時代だからキリンを見た人は孫にまで語り継いだことだろう。
永楽帝もキリンを見て大変喜んだ。伝説の神獣、麒麟とソマリ語の音が似ていたのだ。これはめでたい。余の治世に麒麟が現れるとは。この永楽帝という人は冒険好きだったに違いない。鄭和の探検談をわくわくしながら聞いていたんだろうな。早く早く、二次三次の遠征はせかすように秋に帰ってきて冬に出発だ。鄭和が遠征に出て戻るまでの二年間、永楽帝は帰国が待ち遠しかったことだろう。今度はどんな冒険談が聞けるのか。どこの国の使節を同伴しているのだろう。少年のような王様だな。このスポンサーがいなければ大遠征は無かった。海など見たことの無い雲南省で生まれた鄭和にとって、幸せなことだったかどうかは分からないが、2万7千人、200隻の大船団を率い龍の旗を翻して西を目指す。男が奮い立たない訳はない。
世界史の教科書では一行、二行の記述に過ぎない鄭和の南海大遠征、少しはお楽しみいただけましたかな。そうそう、今でもマダガスカル島の東海岸を歩くと、陶磁器のかけらが落ちていることがあると云う。
次回は大阪夏の陣ー毛利勝永、といきまっせ。