旅とエッセイ 胡蝶の夢

横浜在住。世界、50ヵ国以上は行った。最近は、日本の南の島々に興味がある。

カルチャーショック

2015年05月07日 15時27分01秒 | エッセイ
カルチャーショック

 大学のゼミの先生(中国史)が言っていた。「若い時に、アジアのあの貧しさを膚で知るのは良いことです。」しかし20歳の若造にとって当時のカルカッタの街は、想像を越えて強烈だった。
 印度の旅は、出だしからしていい加減なものだった。大学のインケン(インド研究会)が募集した旅行に参加し、総勢15人で日本を飛び立った。中には未成年が数人、女性が1人(弟と参加)、ほとんどのメンバーが始めての海外旅行だった。ニクソンショックで1ドル360円の固定相場が撤回された翌年だったと思う。当時の航空運賃は、物価に比較して相当に高かったな。印度に着いてからはバラバラになり、少人数のグループに分かれて行動し、1ヶ月後に再集合して帰国した。自分はカルカッタの後、バラナシ(ベナレス)、サルナート、ネパールに入ってカトマンズとポカラ、そしてカシミール地方へ行った。それぞれに印象が深く、書きたい事は山ほどあるが全て割愛する。ここでは最初の街カルカッタで出会った若いお坊さんの話しをしてみたい。
 印度の旅はいい加減と言ったが、印度の国といい勝負な位、当時の僕ら自身がフニュフニャで頼りなかった。出発時に、トランクの中にパスポートを入れたまま預けた奴がいて、飛行機を危うく遅れさせるところだった。インド航空だったが、機内に入ってから座席がダブルブッキングされていると判明、座る所がない。ただこの時はそれが幸いし、何人かファースト・クラスに廻されたので、みんなで交代して座った。思えばあれが我が人生、最初にして唯一のファースト・クラスだ。その後飛行機には、軽く100回以上は乗っているが、ビジネス・クラスより上に行った事がない。
 カルカッタの到着は夜だった。着陸態勢に入ると機内は真っ暗になり、不気味な(そう感じた。)インド音楽が流れ、地上を見ると一面に灯りはあるものの、ポツリポツリとやけに暗くてやたらに広い街だった。これから先どうなるんだろう。泣きたくなった。胸がキュンとなるような、あれほど心細い思いをしたことはない。
 夜の空港はどこもうす暗くて、ベレー帽をかぶり半ズボンをはいた兵士(警官?)が、自動小銃を肩から下げている。ダラダラと果てしなく時間をかけた入国手続きがやっと終わり、空港から表に出た。ムッとする暑さ、香料と汗の匂い。何十人もの印度人が押し寄せてきた。「タキシー」「ホテール」「バクシーシ」その後アジアを一人で旅するようになり、そんなシチュエーションには、「おお来たか。よしよし、近う寄れ。」と余裕で笑えるようになるが、最初の一歩ではタジタジだった。何しろ印度人は目が鋭い。厚かましい。笑顔がない。白目の部分が異常に白く肌が黒いので、そのコントラストのきついこと。
 空港から気違いのように警笛を鳴らしてぶっ飛ばす神風タクシーに乗って、カルカッタの街に向かった。郊外にはアパートが見えるが、街の中心部に近づくにつれ汚くなる。ヘッドライトに浮かぶ街は汚水とごみの中に立ち並ぶ廃墟のよう。路上生活者とノラ牛が闇にうごめき、壊れた水道管から水がふき出ている。その時は、聖書に出てくる永遠に呪われた町、ソドムとゴモラとはここの事なんじゃないか、と思えた。
 本当に失礼な話しだけれど、その時の印象は全くひどいものだった。そして最初の夜から僕らはすんなりとは眠れなかった。深夜に到着したホテルで、「予約を受けていない。」「満室だ。」「明日来てくれ。」まあこんなトラブルは印度では当たり前。すんなり行った方がビックリする。ところがひとすじ縄ではいかないのが印度だ。安いボールペンを無くしキャップだけが残ったので、これは絶対出てこないとそのキャップを捨てたら、清掃の人がペンが落ちていた、と持ってきたので驚いた。
 街を歩けば乞食の大群。ハンセン氏病や指の無い人、腕の無い人、赤ちゃんを抱いた痩せた女乞食、乞食の子供達。インド服を買って着始めてからはずいぶんと減ったが、20人が10人になってもまだ10人。しかも残った10人は筋がね入りの精鋭だ。乞食の大群にあちこち触られ、服を引っ張られる。大勢で金寄越せってうるさい。レストランはやたらと時間がかかり、愛想は悪いは飯はまずいは、おまけにコップの水にボーフラがいて、飯にはハエがブンブンたかり、蟻がご飯から出てきたこともある。ただし物の値段はビックリするほど安かった。
 僕ら数人はカルカッタで印度では珍しい仏教のお寺の泊めてもらい、次の移動の準備をした。いくらかの寄進をして、小さな部屋を借りた。そこに新聞紙や毛布を敷いてザコ寝だ。暑い国だからそんなので十分だが、みんな次々とお腹をこわしていったのにはマイった。その寺には、日本の有名な寺の住職が一人で泊まっていた。気さくな和尚さんだった。
そのお寺で印度人の若いお坊さん達と仲良くなり、特にその中の二人とは良く話した。自分はその時20歳。二人のお坊さんは20歳と22歳で、22歳の方は真面目で、世の中の矛盾や信仰についてよく話していたが、20歳の坊さんは女の子や映画の話しばかりで、とんだ生臭坊主だった。自分が使っていた大きな十徳ナイフが気にいってしまい、「売ってくれ、いくらだ。」としつこい。千円もしない安物だったがスプーンは調法だし、旅は始まったばかりで手放す気はなく、のらりくらりとかわしていた。
 さて明日はカルカッタを発つという日、若い方の坊さんと一緒に、僕ら三人は彼の実家へ行った。三つほど年長のコダマ君と、自分と同い年のベンガリアンの三人だ。ベンガリアンとは、彼がとても日本人とは思えない。どう見ても自分達と同じベンガル人にしか見えない、と現地の人が言うのでついたアダ名。ただ僕らから見たら、そう言えばベンガル人っぽい?そう?という位だ。ちなみに自分は空手(当時は茶帯)をお坊さん達に教えたので、ついたアダ名がカラテマン。旅行中ずっとそう呼ばれていた。坊さんが実家に行く理由は、彼のお父さんが危ないから、という事で、そんな理由ならと遠慮したのだが、是非来てくれと熱心に言うので行くことにした。
 カルカッタの街から結構遠かったな。バスやリキシャを乗りついで2-3時間かかり、やっと彼の田舎に着いた。街の喧噪とは裏はらに、とても静かなだった。全然違う国に来たみたいだった。一面に畠が広がり、いかにも手作り掘っ立て小屋のような家に、貧しそうな服をまとった人々がひっそりと暮らしている。日中は暑いので農作業はやらないのだと思う。このの人々は、どこかおっとりと上品ではにかんでいる。カルカッタの街の、ギラギラした厚かましさが全く見られない。
 後で分かったのだが、このの人々はビルマ系の人達で、そのためなのか、田舎暮らしのせいなのか、僕らにはとても気持ちが良く、印度に来て初めて身も心も伸び伸びした思いだった(もっともゲリバラだからお尻は引き締めたままだ。)若い坊さんの父親は村の長老のような立場の人らしく、村人全員が彼の死を受け止めようと集まっていた。
 小屋に入ると強い太陽光が一気に遮られ、一瞬暗闇に投げ込まれるが、空気はひんやりしている。土間に粗末なベットがあり、人が寝ている。ドキッとした。一瞬死んでいるのかと思ったが、近づくと苦しそうにゼイゼイ息をしている。とても20歳の息子を持つ父親とは思えない、骸骨のようにやせ細った小柄な老人が、木のベットに横たわり、周りを親族と思われる人が数人、静かに取り巻いている。小屋にはベットと水瓶が置かれているくらいで、見事に何もない。後で分かるのだが、他の小屋も同じで、土間に家財道具の類が一切ない。炊事の道具が少々あるだけだ。着替えとか持ってないんかな。人間ってこんなに物を持たなくても生きていけるんだ。長老の死に際している為か、村人達は大変奥床しかったが、僕らには皆笑顔を浮かべて親切だった。
 間もなく死を迎えようという老人に、息子の僧は話しかけ我々が日本から来た友人である事を伝えると、息が苦しそうだったが、老人は二言三言口を開き、やっとのことで骨そのもののような手をベットからちょっと持ち上げ、僕ら三人とかわるがわる握手をした。全くいたたまれない。こんな事をして、この人の死期を早めるんじゃないか。老人は僕らに「良くいらっしゃいました。」というような事を言ったそうだ。
 その後別の小屋に案内され、僕らに食事を出してくれた。粗末だがちゃんとした食事だった。干からびた大地に総出で水を運び、有り余る太陽の光を受け、乏しい地中の養分をかき集めて育った野菜は、正しい食物の味がした。給仕をしてくれたお母さんは、僕らを息子達を見るような暖かい目で見守り、しきりにお代わりを勧めた。
 食事の後、坊さんが村のみんなに空手を見せてやってくれ、と余計な事を言い、村の人達5-60人が集まった。子供達はちゃっかり地べたに座って待っている。「こんな時に、人が死にかけているのに。」と思ったが、ここまで来ては仕方がない。そこら辺から見かけがごつそうな木の枝を探した。出来るだけ乾燥しているのがよろしい。ちょうど印度服は帯を締めれば、ゆるゆるの道衣に見えないこともない。一通り基本の型、次に前蹴り、横蹴り、回し蹴りに後ろ回し蹴り。受けに突きに手刀にひじ打ち一式を披露した後、集めておいた木の枝を片っ端からぶち折った。「オー」みんなは素直に感心している。子供達は真似をして大興奮。やっぱパフォーマンスだよね。
 別に空手でなくても、思い切りやれば乾燥した木は案外簡単に折れる。手品みたいなものだ。もういいかナと思い、終わろうとすると子供達が大きな木の枝を拾ってくる。『あっ生木はダメだって。』調子に乗って木の枝を折っている内に、折れた板がいやという程くるぶしに当たり、飛び上がるくらい痛かった。しかし膨れ上がって百人はいる観衆の前で醜態はさらせない。
 そこで自分は退場し、連れの二人にバトンタッチした。二人はこれが柔道、これが相撲と組み合った。他にすること無いんかね。でも歌はいやだしな。炎天下の運動ですっかり息が上がり、食事をした家に戻って土間で休んだ。イスだったか地べたにゴザだったか覚えていないが、ウトウトとしかけた時、声がかけられ老人が亡くなったことが告げられた。長くは持たないだろう、と容易に想像はついたが、さっき会って握手をしたばかりだ。太陽がギラギラしている表に出ると、さっきまで僕らのつたない演武を見て喜んで笑っていた村の人達が、静かに泣いている。先ほどの小屋に入ると、一回り小さくなった老人がすっかり死体となって横たわり、食事を出してくれたお母さんがベットの横で泣いている。他にも村人が次々に入っては出ていく。
 たまらんナー。こんなにダイレクトに人の死を見せられたのは、生まれて始めてだ。さて僕らの苦しくも楽しい印度の旅はこうして始まった訳だが、あので痛めたくるぶしは赤く腫れ上がり、その後十日間ほど自分を悩ませた。
 その最初の印度旅行から4-5年がたち、自分が小さな貿易会社に勤めていた時、自分を訪ねてジャージのような服を着た色の黒い外国人の青年がやってきた。君は誰?何で自分の名前を知っているの?話しを聞いてみると、彼はあのカルカッタの仏教僧だったんだ。彼は日本語がしゃべれるようになっていて、当時自分が渡した住所を頼りに実家に電話し、会社まで来たわけだが、大した行動力だな。彼はしきりに広島の原爆の悲劇、といった話しをし、この後自転車で広島、長崎へ向かうそうだ。
 どこぞの新聞で彼のことが記事になり、寄付金で自転車を調達したらしい。電車は自分で乗れると言うので、夕方横浜の実家のある駅で待ち合わせる事にした。彼はこれから印度に来ていた日本のお寺の住職に会いに行くと言う。あれ、そういえば若いお坊さんは二人いたよな。どっちだ。多分真面目な方だろう、と思ってよく聞くと女の話しばかりしていた方だった。真面目な方は、お坊さんを辞めたそうな。
 その日、何やら風呂敷包みを抱えた彼は、時間よりも早く駅に着いていた。彼の日本語は相当なレベルで、うちのお袋とも普通にしゃべっている。その晩のご飯は自分の部屋で二人で食べたが、彼が持っていた風呂敷の中には弁当が入っていた。今日の昼に訪ねたお寺の住職が手配してくれたもので、超豪華三段重ね8千円、といった自分が今まで見た事も食った事もないような弁当で、それは精進料理だった。
 彼は昼飯として、電車の中で食べようとしたのだが、さすがに昼の通勤電車で開けられなかったようだ。「一緒に食べよ。」ということで、その晩の食事のリッチなこと。高級料亭の板前が腕によりをかけてこしらえた料理は種類が多く、実にきれいに盛りつけられていてうまい。「こんなに一人で食べられる訳ないよね。」彼は小食だった。自分の家のお袋のおかずはどっかに霞んでしまったが、山芋のトロロ汁は彼の好みにフィットした。「これ何?おいしい。」言うので現物のトロロ芋を見せて説明し、口の周りにつけるとかゆくなる、という注意を与えた。
 彼はビルマ系印度人で仏教徒なので、食べ物のタブーは余り無さそうだ。食後色々な話しをした後で、一緒に自分のアルバムを見ていると、彼はよほどびっくりしたのか、「何んですか、これは!」と大きな声をあげた。それはスペインのマドリーの闘牛場のチケットで、背中に数本のやりを刺し血を吹き出しながら頭を下げて、マタドールに向かっていく雄牛の絵が書かれている。『あ、マズい』さらにマズいことに、その後数ページに渡って、馬の上から長い槍を牛の背に突き刺すシーン、マダドールが手にしたマントで牛をあしらうシーン、そしてついに剣で牛をしとめるシーン、極めつけは殺した牛の耳をそいで歓声を受けるシーンと熱狂する観客、と写真が並んでいるじゃあありませんか。「どうして、何の為に牛を殺すの?」一通り闘牛について説明したが、理解してもらうのは無理だろ。彼は相当なショックを受けていた様子だった。『アノネ、印度みたいにおとなしい牛じゃあないんだよ。』
 スペインの闘牛を知った事は、彼にとって日本に来て一番のショックだったようだ。その後彼とはもう一度会い、そこで音信が途絶えた。最初の目的の通り、自転車で広島に向かったのではないかと思う。まさか闘牛反対でスペインへは行っていないよな。
 それから十年近くたった或る日、新宿で黒っぽい僧衣をまとい、木枯らし紋次郎のような編み笠をかぶり、お金を入れるザルを胸の前に下げた褐色のアジア人を見かけた。年格好からいって彼じゃないかな、とドキンとした。けれどもその時こっちは仕事中だったし、その人物はお経らしい物をブツブツ唱え、かなり険しい顔をしていたので、『そうかな?そうじゃないかな?』と迷いつつ、ついにその場を立ち去った。今ではちょっと心残りだ。その後彼と会うことはなく、ごめん、名前も忘れてしまった。







縁日

2015年05月07日 15時25分22秒 | エッセイ
縁日

 縁日、バザー、化け物小屋。子供の頃の思い出の中の縁日は色彩が鮮やかでドキドキ、ワクワクするものだった。輪投げ、射的、ひもを選ぶ景品釣り、金魚すくい、ヨーヨー釣り、ウナギ釣り。売り物では花火、ヒヨコ、お面。食べ物ではハッカ、水飴、カルメ焼き、綿菓子、ゲソ焼き、かき氷。
 チョコバナナなんぞはずっと後になってからで、自分が子供の時はバナナは高価でたたき売りが出ていた。フーテンの寅さんね。定番のタコ焼き、お好み焼きはもちろんあったが、今のように屋台の半分を占めるほど多くはない。品の無い大ダコ入りなどは無かったし、お好み焼きは今よりずっと細身で両面が良く焼けて、最も薄い所はパリパリしていた。ハッカは何故かいつも最初に買っていたね。綿菓子は手がベタベタするので、あまり好きではなかったな。ジャンケンで勝つと3個、引き分けで2個、負ければ1個の、モナカの皮みたいのに乗ったアンズアメもあったね。リンゴに水飴をかけたようなものもあったな。金魚すくいは出目金が動きがにぶくて取りやすいが、大てい家で直ぐに死んでしまった。ヒヨ子も何度買っても2-3日で死んじゃった。ニワトリまで育てた話しは良く聞いたが、本当なんだろうか。
 そういえば鈴虫やヤドカリも売っていた。縁日の終わりの方では植木屋が広いスペースを取っていて、大人はよく見ていたが子供には用がない。今、東南アジアのマーケットが大好きなのは、縁日の楽しさがあるからかな。
 しかし何だね。祭りも縁日も帰る道の暗がりに風情があるんだな。音も明かりも人だかりも無くなって、楽しかった今日も終わり。お母さんと手をつないで家路に向かう。もう眠いや。


罪障消滅、寺修行

2015年05月07日 15時20分19秒 | エッセイ
罪障消滅、寺修行

 25歳、会社員で宝石のセールスをやっていた。何で寺に修行に行ったのか、その理由を数ページに渡って書いたが、あんまり気乗りがしないので割愛することにする。
 ある理由で日々モンモンとした思いでいたんだ。そんな時、社長が以前朝礼で話していた寺での修行、そこには一つ上の先輩が行った事がある、に行きたくなった。この急に行きたくなるという心のメカニズムがよく分からない。まあイジイジした自分を変えたかったんだろうな。
 社長は二つ返事でOKし、直ぐに寺に連絡してくれた。この社長、周りの評判は相当に悪いが、自分にとってはある種恩人である。この寺修行の一年後に自分は会社を休職してNGOに入りタイとカンボジアの国境で井戸掘りをするのだが、その時も応援してくれただけでなく渡航費用を稼ぐ為に休職中に一日一万円のバイトをさせてくれた。休職してバイトって変な話しだが、助かったな。結局ボランティアから帰ってきて、疲れで一週間入院しその後退職した。それからは一度も会っていないが、お世話になりました。社長がこの文を読む事は無いだろうが自分は感謝しています。
 さて指定された日の朝、着替えとブルーな思いを抱いて寺を訪れると、確かに話しが通っていてテキパキと案内され、午後から修行に入った。結局寺には一週間ほどいただろうか。5-6泊、或いは4泊位だったかも。30年以上経つと記憶も薄れるが、断片的には強い記憶もある。何しろ中身の濃い一週間だったんだ。
 そこは日蓮宗の寺で、お坊さんの修行が厳しい事で知られているらしかった。朝は早く起き広い境内の庭掃除、本堂の雑巾がけ、本格的な修行は午後から始まる。食事は実に質素なものだった。一汁一菜、量も少ない。落ち葉の季節で、庭は一日で木の葉が積もり朝晩は寒かった。何故か修行中ずっと付きっきりで面倒を見てくれたおばさんがいて、終始この人の言う通りに行動した。
 修行は正座をして太鼓に合わせて皆で大きな声でお題目、つまり『南無妙法蓮華経』を数限りなく唱える、というシンプルなものだが、30分も続けたら体から汗が出て頭がクラクラしてくる。これを午後一杯、休憩を挟んで延々と続ける。正座は空手で慣れていたが、段々厳しくなっていった。しかも2日目、3日目と修行が進むにつれ、体の中からケモノじみたものが出てきて(それを罪障と言うそうだ)体が震え、ついに正座をしたまま飛び上がるようになった。5cm,10cmとピョンピョン飛んで、その度に足の甲から落ちて赤あざが出来た。床は確か板敷きで薄い敷物を置いていたように思う。
 修行中お題目を唱える人は、通いで来る人が入れ替わるので、その時々で人数と顔ぶれが変わるが、4-5人から多くて7-8人。じいちゃん、ばあちゃんが多い。3日目位になると、意識はしっかりしているものの体の制御が利かなくなり、勝手に口からフー、フーと息が漏れる。犬科のケダモノが体内にいるみたいだ。
 付き添いのおばさん(この人には感謝しています。名前は忘れてしまってごめんなさい。)はここぞとばかり、背中をさすり、またはバンバン叩く。太鼓を叩くじいさんは打つ手に力を込める。この時、修行をしていたのは自分一人だった。日に日にクライマックスが近づいているのが分かるが、それがどんな物なのかは分からない。
 つぃにその日の朝、住職の前に出された。体の中に狼を飼っているかのように、勝手に口からフー、カーと息が出、体がブルブル震えだした。恐いのではなく、逆に住職に飛びかかって食いつきそうだ。意志の力が弱くなり、罪障=狼が前面に出てきた。細かい手順は覚えていないが、次のような問答がなされた。「罪障、汝に問う。本人は答えなくて宜しい。」「カーカー」もう体はマラリアにかかったように震えている。「汝は何者なるや!」「カーカー」「重ねて問う。汝は何者なるや!」「ーーーーwa,ga,ma,ma,」自分の口から出たとは思えぬしわがれ声がそう言った。体は乗っ取られても意識はあるから、意外な答えに驚いた。そこで住職の喝!「罪障よ、去れ!」か「成仏せよ」か分からない。もうこの瞬間は頭も体も沸騰しかけていた。喝!で体がフッと軽くなった。罪障が抜けた。この日までの悪事の数々はいったん精算されたんだろう。
 その後、住職にお茶をご馳走になり、良かったら出家しないかとスカウトされた。またいつでも遊びに来なさい、ここは成田空港に近いからね、と言われたがあの日以来一度も訪れていない。世話になったおばさん達に深く感謝して寺を後にした。
 修行が終わり久し振りに帰宅する電車の中は、娑婆の俗気がきつかった。何だか車内の乗客の存在がギラギラして見えた。特に女学生の紺色のスカートからのぞく二つのひざ小僧などは、思わずつばを飲み、「南無ーー」と嗄れた声で唱えたくなった。って、単なる欲求不満かよ。ギラギラ感は、ものの数時間で跡形もなく消え、その後は自分自身がギラギラそのものに戻っていった。

英語力

2015年05月06日 10時58分19秒 | エッセイ
英語力

 英語がずっとコンプレックスだった。20歳になり初めて印度を旅した時、25歳で貿易会社に入った時、30代を過ごした外資系の会社では、英語がうまくないという理由で、前半は仕入れの仕事ばかり。後半は営業に回って全40ヶ国行った内の過半は30代後半に仕事で廻った。結果として仕入れから入った事は営業に役立った。仕入れ先のメーカーさんとのつき合いを通して製品の質・値段・部品のコスト・製造の現状を知ることが出来、それは物を売るのにとても必要な事だった。
 海外を廻るようになったからといって、英語が飛躍的にうまくなった訳ではない。ようは慣れてきた、に過ぎない。時間はあったのだから、どこかでちゃんと勉強すれば良かった。何度かやりかけたのだけれど、長続きせず中途半端に使い慣れていった。例えば、中学2年位までで覚える英単語を使って別の言い方をして意志を伝える、とか相手の言った事の分からない単語、聞き慣れない言葉は無視して、分かった部分だけで文を組みたてる、などが得意になっていったにすぎない。要は場数を踏み、物怖じしなくなった。
 元々逆偏見はあっても、偏見はない。日本人はあまり好きな方ではない。今でもそう思う。もちろん英語が全てではない。新婚旅行で行ったスペインでは滞在中の2週間、英語はただの一度も通用しなかったし、昔のタイもほとんど使えなかった。東南アジアで自動車部品の商売をしていると、仕事の相手はほぼ100%中国人で、アアなんで中国語を物にしなかったんだ、と悔やむことになる。
 英語にしてもただ移動と商売だけなら、相手がよほど訛っていない限り困らなくなったが、それだけではつまらない。英語がもっと流ちょうに話せたら、話題も深まるしうまくいけば、ホテルのフロントの女の子とデートが出来るかもしれない。40歳代で別の会社にいた時、老人の社長のお供で香港・アメリカで通訳をやらされた。これは冷や汗ものだった。無理、無理、通訳なんてとても出来ない。相手の言ったことの半分しか伝わっていないだろうな。表敬訪問で良かった。
 後、翻訳しといてと英文のコピーを渡されるのには参った。工場の人とかに多かった。多分英語屋という職分があって、そこに渡せば同じような答えが出てくるとでも思っているんだろうな。辞書を引き引き、すごい時間をかけ相当な創作を加えて文章を書いた。長い文だと泣きたくなる。
 自分が相手の国に行っちまう場合は、案外楽だ。特に一人で行く時は、準備は大変でも出ちまえば何とかなるものだ。元来旅は好きだから苦にならないし、ホテルだって100ドルクラスの良い所だ。これだけは円高のメリットだね。商売では終始円高に苦しめられたけれど。
 問題は海外から顧客が来る場合だ。3日も4日もずっとアテンドして、商談をし食事を共にし、休日には観光案内までする場合、英語づくしの毎日になる。元々少ない単語数をフル回転して意志疎通を図っている内に頭がオーバーヒートしてくる。一度奇妙な体験をした。朝から夜遅くまで2人のドイツ人をアテンドして、帰宅する為に地下鉄に乗った。電車の中はそこそこ混んでいて、吊革につかまって立っている人がかなりいる。自分は入り口の脇に寄りかかって、疲れから放心状態で車内をボーっと眺めていた。酒が入っていて大声で話すサラリーマン。塾帰りなのか、うるさく話す女子高生。ちょっと待って、驚いたな、みんな英語でしゃべっているじゃないか。何で日本人のサラリーマンが、女子高生が英語で話す?注意して内容を聞こうとすると、入ってくる音が英語。何を言っているのか、内容までは分からないが座っているオバさん同士までが英語を使っている。目を閉じても入ってくる音は確かに英語。これは軽い英語ノイローゼだな。
 この経験は一度きりだったが、シチュエーションは違っても同じ経験をした、という人に一度会った。こんな風に質の詰まった時間、普段の業務の果てしない英語のやりとり、質と量を繰り返している内に、やがて英語のレベルが一段上がったな、という瞬間が現れる。
 けれども使わなくなったら、その能力も徐々に消えてゆく。たまに使うと、ああ衰えたな、となる訳だ。ところが所変われば品変わる、コンプレックスの固まりだった英語が、すごい出来ると評価されるようになった。警備員の仕事を始めた時だ。最終的には外資系の現場で、英語手当まで付くようになった。世の中は広い。地球は丸い。上には上があり、下には下があるもんだ。
 

セブのカヌー転覆

2015年05月04日 17時00分08秒 | エッセイ
セブのカヌー転覆

 この旅は始めから変だった。当時26-7歳だったので自分も、また旅の相方も社会人だったのだが、時間に追われていた記憶が全くない。転職の端境期だったんだろうか?なぜフィリピン、なぜセブ島にしたのか、今となっては分からないが、ベストの選択とは言いがたかった。ただこの旅の目的が南の島でうぶな魚を釣りまくることにあったのは間違いない。釣り道具を一式持っていったのを覚えている。
 セブの空港は湾の内海に浮かぶ小島だったんだ。当時インターネットは無かったし、ガイドブックも持っていかない出たとこ勝負の旅だった。空港のある島は小さくて周辺の砂浜にリゾートが広がっていた。そのリゾートの一つに行ったら、入るだけで一人二十ドルほどかかった。宿泊代は百ドル以上したので、とても泊まれない。二泊で無一文になってしまう。第一ここの宿泊客は上等な服装(カジュアルでも金がかかっている。)をしていて、年齢層がかなり高い。ジーパンにTシャツの我々は要するに場違い。入場料を返してくれ、返せない。返さない代わりにその分の食事をすることが出来る。当時の英語の力ではそれだけの事を話し理解するのがやっとだった。
 二十ドルでがっかりするほど質素な昼飯を済ませ、タクシーで別の安いリゾートへ向かった。そこは開店休業中じゃあないかと思うほど客が少なく、だだっぴろい砂浜が続くだけの何にもない所だったが、腹の出た親切なおっちゃんがいて色々と説明してくれた。何故かおっちゃんとの英語の会話は実にスムーズに進んだ。結局そこも泊まり賃が四十ドルほどし、飯代が異常に高いことが分かり、空港の近くの十五ドルほどのホテルに泊まって、日中その簡素なリゾートに通う事にした。
 タクシーとかは腹の出たおっちゃん(名前は忘れた。カルロスとでもしておくか。)が指一本ですっ飛んできて、値段交渉もカルロスがさっさと済ませてくれる。タクシーはリゾートの入り口にいつも停まっている。客待ちなのか昼寝なのかは分からない。どうせ後でドライバーからリベートを取るのだろうが、我々が直接交渉するよりも安くてもめない。
 覚えているカルロスの姿はいつも海パン一丁か、こりゃボタンははまらないな、と思われるシャツをはおっているだけ。ところが何故か人望があって、いつも若い子分の取り巻きがいる。最初このカルロスが支配人なんだろう、と思ったがそうではなかった。身なりの良い痩せ型の本物の支配人が現れたら、カルロスとその取り巻き連中は急にソワソワし始めた。「何だお前、また来ていたのか。」「どうもすんません。」みたいなやり取りがあってカルロスは立ち去った。ところが支配人がいなくなると、どこからかサッと戻ってきて浜辺の主になる。なんだ、お前このリゾートの人じゃないのか。
 しかしカルロスは役に立つ。カヌーの手配、飲み物の調達、町の面白情報、市場への行き方、なんでもこいつに頼めば一発である。この寂れたリゾートは最初に訪れた所とは大違いで、自分達の他に数組、年輩の欧米人が泊まっているだけ。その白人客は夕方ちょこっと海につかるだけで、一日中浜辺にパラソル、デッキチェア。ほとんど動かないから用がない。カルロス達はずっと僕らの周りにいてかなりうっとうしい。お前他にする事ないんか。僕らは朝からきれいな南の海で泳ぎ、カヌーに乗って釣りをした。湾内なので波は無く、水は澄みきっていて二十m位下までガラスのようによく見える。海底は砂浜で大きな黒ナマコがゴロゴロしている。
 持参した竿にサビキを仕掛けて下ろすと、白い砂地のアチラコチラに点在する珊瑚礁から小魚が数十匹ワッと集まる。が近くまで来ると、「何だ、偽物かよ。」と散って行く。一度散ると見向きもしない。なまじ透明度が良すぎるのも困ったものだ。別のサンゴに行くと同じくワッと集まりサッと散る。時々大きな魚の影が海の底をススーと横切るが、こいつらはサビキに寄って来ない。深くなってくるとカヌーの上からでは良く見えないので、海の中に潜り、水中に浮かんで釣りをした。これは面白かった。水が透き通っているので、まるで空中に浮かんだようだ。ただこの水中釣りのせいでリールも竿の金具も後ですっかりサビついた。時々疑似針のサビキを口にちょっとくわえる奴もいるので、タイミングを合わせて蝶々みたいに色鮮やかな熱帯魚を何匹か釣り上げた。10-15cmほどの小魚で、写真を撮って逃がした。こんな小魚じゃあなくて、市場で売っているような大物を釣りたいんだ。時々海の底を横切るじゃあないか。
 最初の日、一日中海で遊んでいたらひどい目に合った。夜になると背中から首すじが真っ赤になって熱をもった。友人は鼻を中心に顔がやけ赤鬼のようになった。肌が熱を持ち、痛くてシャワーが浴びられない。翌日から日中に海に入るのを避け、朝夕Tシャツを着て入ることにした。
 日中は橋を渡ってセブ市に行き町を歩いて、フィリピンの小瓶のライトビール、サン・ミゲールを水代わりに飲んだ。そのセブ市の中のお祭り広場のような所で人だかりがしている。見ると高さ15mほどのミニ観覧車が組み立てられているのだが、それが止まっている。一番上のゴンドラには人が乗っているじゃあないか。発電器が故障して停電しているんだ。一生懸命修理をしていたが、周りの人たちには慌てた様子はなく、またひまなんだろうね、ずっとそのまま見続けている。夕方になってまたその広場に行ったら、驚いたことにあれから5-6時間はたっているのにまだ修理をしていた。暗くなりかけてきてよくは見えなかったが、上のゴンドラの人もそのままのようだ。手動で動かすとか出来ないのかね。
 ところでセブのお姉ちゃん達はマニラのスラッとした美人とは違い、小柄でポッチャリ系が多い。だからなに、と言われても困る。ただの感想である。さてサビキが効果が無いことが分かった(海水が透明すぎる)ので、今度はエサ釣りだ。市場に行ってエビや名の知れない魚の切り身を仕入れカヌーを出した。カヌーは細長い丸太のくり貫き舟で、安定の為の横木がついている。人一人が腰を下ろすのがやっとといった狭くて鉛筆のような形状をしているので、オールで漕ぐとスイスイ進む。友人と二人でスピードを出して漕いでいたら、何かの拍子に傾いたのか、右舷から海水がサーッと入ってきた。おっとっと、傾きを直すいとまも無く水はどんどん入ってきて、あっと言う間に限界を超え、カヌーはあえなく水没し我々は海の中へポチャン。
 カヌーが転覆した場所は海岸から数十m離れていて、水深は7-8mといったところ。お互いの荷物は沈む時に急いでつかみ、ひっくり返って浮いたカヌーの船底に引き上げた。「さて、どうしよう。」カルロスと子分達が浜辺でイスにそっくりかえって音楽を流しながらこちらを見ている。かっこ悪。しかし海水は暖かいし波は全くない。このままカヌーを押して泳いで戻ろう。ところがしばらく行くとカヌーがガチッと止まって動かない。転覆した時、カヌーに積んであったロープに結んだ石の重りが海底にはまりこんで動かないのだ。ガラスのように透き通った海の底に重りがしっかりと見える。引っ張ってもダメ、第一力が入らない。
 「ロープを切るものはないか。」「ナイフは持っていない。」「仕方がない。岸まで泳ぐか。」でもカヌーを離れるのは心細い。荷物を極力濡らさずに岸まで行けるか?たぶん大丈夫。でも途中で足がつったら、微妙な距離だもんね。50mプールよりは遠いな。どうしようか。ここにいる分には何の問題もない。水は暖かいし。でも困ったな。どうしよう、と二人で考えたが良いアイデアは出てこない。
 その時カルロスが立ち上がって声をかけてきた。「オーイ、オーイ。」お互いに大声を出す。やおらカルロスがTシャツを脱いで海に飛び込み、日ごろの姿からは想像もつかないほど見事なクロールでみるみる、ほんの十かきほどでひっくり返ったカヌーにやってきた。「何やってんだ、お前たち」一目で状況をつかんだ彼は、大きく息を吸ってやおら海底に向かってもぐり始めた。両手両足でぐいぐいと水をかいてもぐるもぐる。海底に着くと、錨の石を胸に抱き抱え、海底で四股立ちをした後、そこを蹴って今度は足だけでぐんぐん上がってきた。石をカヌーの底に乗せると、ヘヘッと笑って浜辺に戻っていった。僕らは動くようになったカヌーをゆっくりと押して泳ぎ、浜へ戻った。海の中はぬるま湯温泉のようで、何とも締まりのない海難だった。砂浜で濡れたお札、結局ブヨブヨになったパスポートと文庫本等を乾かし、動かなくなった電卓と濡れたタバコを「くれ」と言うカルロスにあげた。この日まで彼にちょっとえらそうな態度を取ってきた自分たちをこっそり反省。
 カルロスは3人の子持ちだそうだ。定職はなくても子分がいる。支配人さえ来なければ、この寂れたリゾートの主だ。何をやっているんだか分からないけど、明日の事を心配している様子はミジンもない。「何かいいナ」「こんな人生もありだナ」
 「今晩ディスコに行こうぜ。いい女見っけようぜ。」
ここまで力を抜いても生きていけるんだ。若いうちにカルロスと出会って、良かったんだか、悪かったんだか。