古代の日本語

古代から日本語には五十音図が存在しましたが、あ行には「あ」と「お」しかありませんでした。

舎人親王の奉納文

2024-11-03 09:10:37 | 古代の日本語

『ついに現われた幻の奉納文 伊勢神宮の古代文字』(丹代貞太郎・小島末喜:著、小島末喜:1977年刊)という本の内容をご紹介しています。(以下、『伊勢神宮の古代文字』と略す)

今回は、順番が前後しますが、舎人親王の2枚の奉納文です。これらは、太安萬侶や稗田阿礼の奉納文と同じく、倭建命(やまとたけるのみこと)に関するもので、古事記によると、1枚目は倭建命が能煩野(のぼの)に到着したときに詠んだ歌、2枚目は倭建命が臨終前に詠んだ歌とされています。

なお、舎人親王は第四十代天武天皇の皇子で、天武天皇の四年(西暦676年)に誕生し、天平七年(西暦735年)に60歳で亡くなっています。

【舎人親王の奉納文】
・1枚目

番号
読み
解釈
古代文字の種類
のちのまたけむひとはたたみこも 命が無事であろう人は (たたみこもは枕詞) 肥人書
へくりのやまのくまかしかはをう 平群の山の熊橿の葉を頭部の飾り 肥人書
にさせそのこ 一品舍人王(花押) にせよその家の子 一品舎人親王 肥人書+漢字

これに関しては、日本紀にもよく似た歌があり、本ブログの「古事記より古い文献」にその解説をしているので、よかったらそちらも参考にしてください。

・2枚目

番号
読み
解釈
古代文字の種類
とめのとこのヘにわかおきし 少女の床の辺に我が置きし 肥人書
つるきのたちそのたちはや 剣の太刀その太刀はや 肥人書
やまとたけるのみことのうた 一品舍人王(花押) 倭建命の歌 一品舎人親王 肥人書+漢字

今回の古代文字は、これまでご紹介した書体では解読できないので、『神字日文傳』(かむなひふみのつたへ)(平田篤胤:著、佐藤信淵・他:編、文政二年刊)に掲載されている別の書体を五十音順に並べ替えてご紹介します。

次の図が「第十文」と書かれた書体で、卜部家に伝わるとする説と、阿波国名方郡大宮神社に伝わるとする説の2つがあるそうです。

肥人書五十音図第十文
【肥人書 第十文】(平田篤胤:著『神字日文傳』より)

なお、「第十文」の書体をよく見ると、平仮名に似た文字(わ行の「ゑ」)があるので、肥人書が平仮名の誕生に寄与したのではないかという印象を受けますが、いかがでしょうか?

さて、まず最初にこの奉納文で特に注目されるのは、この五十音図には存在しない文字が使われている点です。

それは先頭の太字の部分で、その書体はカタカナの「ノ」に似ているのですが、古事記との比較によって「い」と読むことは間違いなく、ひょっとするとあ行の「い」を表わしたものかもしれません。

もしそうであれば、8世紀にはあ行の「い」が一般的になった結果、肥人書の五十音図に修正が加えられたということのようです。

次に、古事記と異なる部分を赤字で、奉納文だけに存在する部分を青字で示しましたが、何度も言うように、これが偽造されたものであれば、わざわざ間違えることはしないでしょうから、こういった不一致は、古代文字の奉納文が本物である証拠だと思われます。

また、2枚目の奉納文に「やまとたけるのみこと」と書かれていることも、古代文字の奉納文が本物である証拠だと思われます。

なぜなら、『伊勢神宮の古代文字』によると、これらの奉納文は明治初年頃、新しい紙に写されたものだそうですが、当時は本ブログの「雄略天皇の和名」でご紹介したように、「やまとたける」ではなく「やまとたけ」という呼称が一般的だったからです。

この「やまとたけ」がどれだけ古い呼称か調べたところ、『続群書類従 第拾八輯下』(塙保己一:編、続群書類従完成会:1924年刊)という本に、「春能深山路」(飛鳥井雅有:著)という鎌倉時代の日記が収録されていて、弘安三年(西暦1280年)十一月十六日に「山とたけのみこと」という記述がありました。

したがって、すでに鎌倉時代には「やまとたけ」が一般的になっていたようですから、「やまとたける」と書かれたこの奉納文が後世の偽造であるとはとても考えられないのです。

なお、1枚目の奉納文の「うつ」は、古事記との比較から「うず」のことで、この仮名遣いの間違いは、奈良時代初頭には〔zu〕と〔du〕の音韻の区別があいまいになっていたことを示していると考えられます。

また、2枚目の奉納文の1行目の「おとめ」は「をとめ」が正しく、やはり〔wo〕と〔o〕の音韻の区別があいまいになっていたことを示していると考えられます。

続く2行目の「剣の太刀」は、一般的に剣は両刃(もろは)で太刀は片刃(かたば)ですから、矛盾する表現ですが、『原色日本の美術 第21巻 甲胄と刀剣』(尾崎元春・佐藤寒山:著、小学館:1970年刊)によると、おそらく鋒両刃造(きっさきもろはづくり)の大刀のことだと思われるそうです。

次に、この奉納文が奉納された時期ですが、「一品舍人王」という署名があって、一品(いっぽん)は親王の位階を示し、「舍」は「舎」の旧字体で、舍人王は舎人親王のことだと考えられますから、舎人親王が一品となった養老二年(西暦718年)以降に奉納されたことになります。

舎人親王は、日本紀作成の総責任者としてその完成に尽力した人物ですから、ひょっとすると西暦720年に日本紀が完成したことを神に感謝するため、彼はこの年にこれらの奉納文を奉納したのかもしれませんね。

なお、『伊勢神宮の古代文字』には、奉納文が古い順に配置されているのですが、今回の奉納文は稗田阿礼の奉納文より新しいので、配置する順番を間違えてしまったということだと思われます。

最後に、親王と王の違いについて説明すると、親王は皇太子以外の皇族男子のことで、親王宣下が行なわれるまでは、皇族男子は王と呼称されていたようです。(次図参照)

親王と王
【親王と王】(上田万年・松井簡治:著『大日本国語辞典』より)

ただし、この記事によると、親王宣下は第四十七代淳仁天皇の時代になってから行なわれたようですから、淳仁天皇の父親である舎人親王は、実は「舎人王」とよばれていたのかもしれません。

そう考えると、「一品舍人王」という署名も、この奉納文が本物である証拠だと思われるのです。

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稗田阿礼の奉納文 その2

2024-10-06 08:43:54 | 古代の日本語

『ついに現われた幻の奉納文 伊勢神宮の古代文字』(丹代貞太郎・小島末喜:著、小島末喜:1977年刊)という本の内容をご紹介しています。

今回は前回の続きで、稗田阿礼の2枚目の奉納文をご紹介します。

【稗田阿礼の2枚目の奉納文】

番号
読み
古代文字の種類
11
うみかゆけはこしなつむおほかはらのうゑくさ 阿比留文字
うみかはいさよふ 阿比留文字
はまつちとりはまよゆかすいつたふ 阿比留文字
やまとほこあまつみしろとよくむなりひめみこと 肥人書
つちのさる和銅元(記号) 稗田阿礼(花押) 肥人書+漢字

この奉納文の1行目から3行目は、前回の歌の続きですが、やはり古事記とは異なる部分があるので、『古事記』(藤村作:編、至文堂:1929年刊)の原文をご紹介します。なお、意味は『紀記論究外篇 古代歌謡 上巻』(松岡静雄:著、同文館:1932年刊)を参考にしました。

【上記奉納文に対応する古事記の原文と意味】

(后たちや御子たちが)海潮(うしほ)に入り、難渋しながら進んだときに詠んだ歌。

原文
読み
意味
宇美賀由氣婆 うみがゆけば 海を行けば (「が」は場所を意味する)
許斯那豆牟 こしなづむ (波が腰にまつわりついて)行きなやむ
意富迦婆良能 おほかはらの 大河原の
宇惠具佐 うゑぐさ 水辺の草(が波に漂うように)
宇美賀波伊佐用布 うみがはいさよふ 海は進もうとしても進めない

また、(八尋白智鳥が)飛んで、磯にいるときに詠んだ歌。

原文
読み
意味
波麻都知登理 はまつちとり 浜千鳥 (八尋白智鳥にいいかけたか?)
波麻用由迦受 はまよゆかず 浜を行かず (「よ」は「を」と相通じる)
伊蘇豆多布 づたふ 磯づたいに行くよ

両者の異なる部分を赤字で、奉納文だけに存在する部分を青字で示しましたが、前回と同様に、この奉納文は古事記より古いので、稗田阿礼の奉納文が間違っていて、その間違いを太安萬侶が古事記で校正したということだと思われます。

前回も言いましたが、これが偽造されたものであれば、わざわざ間違えることはしないでしょうから、こういった不一致は、古代文字の奉納文が本物である証拠だと思われます。

なお、「うゑぐさ」は、松岡静雄氏の見解によると、莞(おほゐ)という水辺に自生する草で、蓆(むしろ)を織るのに使われたそうです。

莞は、『大日本国語辞典』では「ふとゐ」という読みを採用していて(次図参照)、カヤツリグサ科アブラガヤ属の植物で、多くの別名があり、「おほゐ」もその一つです。

莞(ふとゐ)
【莞(ふとゐ)】(上田万年・松井簡治:著『大日本国語辞典』より)

また、「いさよふ」は、進もうとしても進めないという意味です。(次図参照)

いさよふ
【いさよふ】(上田万年・松井簡治:著『大日本国語辞典』より)

以上の検討結果をまとめると、全体の意味は次のようになると思われます。

【前半の意味】海を行けば(波が腰にまつわりついて)行きなやむ。大河原の水辺の草が波に漂うように、海は進もうとしても進めない。

【後半の意味】浜千鳥が(その名にそむいて)浜を行かず、磯づたいに行くよ。

なお、4行目と5行目に関しては、1枚目の奉納文とまったく同一なので、前回の解説をご覧ください。

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稗田阿礼の奉納文

2024-09-01 08:31:39 | 古代の日本語

『ついに現われた幻の奉納文 伊勢神宮の古代文字』(丹代貞太郎・小島末喜:著、小島末喜:1977年刊)という本の内容をご紹介しています。

この本の順番にしたがうと、次は舎人親王の番なのですが、前回との関係を重視して、今回は、太安萬侶とともに古事記の完成に尽力した稗田阿礼の奉納文をご紹介します。

なお、「伊勢神宮奉納文神代文字保存委員会」というサイトにこの奉納文の画像が掲載されていますので、よかったらご覧ください。

【稗田阿礼の奉納文】

番号
読み
古代文字の種類
10
つきのたのいなからにいなからにはひもとほろふ 阿比留文字
ろつら 阿比留文字
あさしぬはらこしなつむそらはゆかすあしよゆくな 阿比留文字
やまとほこあまつみしろとよくむなりひめみこと 肥人書
つちのさる和銅元(記号) 稗田阿礼(花押) 肥人書+記号+漢字

古事記によると、倭建命(やまとたけるのみこと)は伊吹山で雹(ひょう)に降られて病気になり、能煩野(のぼの=現在の三重県亀山市付近)で亡くなってしまうのですが、この訃報を聞いて彼の后(きさき)たちや御子(みこ)たちが駆け付け、御陵(みはか)を作って倭建命を弔(とむら)ったそうです。

この奉納文の1行目から3行目は、その際に詠まれた歌とされますが、古事記とは少し異なる部分があるので、『古事記』(藤村作:編、至文堂:1929年刊)の原文をご紹介します。なお、意味は『紀記論究外篇 古代歌謡 上巻』(松岡静雄:著、同文館:1932年刊)という本を参考にしました。

【上記奉納文に対応する古事記の原文と意味】

(后たちや御子たちが)御陵に隣接する田をはいまわり、哭(な)きながら詠んだ歌。

原文
読み
意味
那豆岐能多能 づきのたの (御陵に)隣接する田の
伊那賀良迩 いながらに 稲の茎に
伊那賀良尒 いながらに 稲の茎に
波比母登富呂布 はひもとほろふ はいまわる
登許呂豆良 ろづら トコロ(ヤマノイモ科の植物)の蔓(つる)よ

このとき、(倭建命の魂が)八尋白智鳥(やひろしろちとり=大きな白色の霊鳥)になって、浜に向かって飛び去ったので、后たちや御子たちは、小竹の切り株に足が傷つく痛みも忘れて、哭きながら追いかけて詠んだ歌。

原文
読み
意味
阿佐士怒波良 あさしぬはら 笹原を (「あさ」は似て非なるもの、「しぬ」は小竹(篠)のこと)
許斯那豆牟 こしなづむ (笹が腰にまつわりついて)行きなやむ
蘇良波由賀受 そらはゆかず 空を飛ばず
阿斯用由久那 あしよゆくな 徒歩で行くこと(のもどかしさ)よ (「な」は感動詞)

両者の異なる部分を赤字で示しましたが、上記奉納文は古事記より古いので、稗田阿礼の奉納文が間違っていて、この間違いを太安萬侶が古事記で校正したということなのかもしれません。

これがもし偽造されたものであれば、わざわざ間違えることはしないでしょうから、こういった不一致も、古代文字の奉納文が本物である証拠だと思われます。

なお、見慣れない単語として「はひもとほろふ」がありますが、これは『大日本国語辞典』によると「はいまわる」という意味です。(次図参照)

はひもとほろふ
【はひもとほろふ】(上田万年・松井簡治:著『大日本国語辞典』より)

また、「ところ」、「なづく」、および「なづむ」という言葉が『大日本国語辞典』に載っていたので、こちらも参考にしてください。

ところ・なづく・なづむ
【ところ・なづく・なづむ】(上田万年・松井簡治:著『大日本国語辞典』より)

以上の検討結果をまとめると、全体の意味は次のようになると思われます。

【前半の意味】隣接する田の稲の茎にはいまわるトコロの蔓よ。(この蔓のように、私たちも田をはいまわる)

【後半の意味】笹原を行きなやむ。空を飛ばず、徒歩で行くこと(のもどかしさ)よ。

松岡静雄氏によると、これらの歌は、大葬において演奏するためにある時代に作製されたもので、前後にある古事記の記述は、むしろこれらの歌によって案出されたものと見るべきなのだそうです。

また、『大喪儀記録』(大阪朝日新聞社:編、朝日新聞合資会社:1912年刊)という本によると、明治天皇の葬儀の際に、これらの歌が楽曲として歌われたそうです。

4行目は、この時代の天皇の御名で、前回の太安萬侶の奉納文とまったく同じなので、これは第四十三代元明天皇のことだと考えられます。

5行目は、この奉納文が書かれた日付と署名で、「つちのへ」は仮名遣いに間違いがあり、前回指摘したように「つちのえ」と書くべきですから、やはりこの間違いは当時の仮名遣いの乱れを知る貴重な資料で、8世紀初頭には「え」、「ゑ」、「へ」の区別があいまいになっていたと考えられます。

次に、「和銅元」の下に2つの記号が書かれていて、1つ目は縦横5本ずつ計10本の線、2つ目は三日月のようなものですが、これを前回の奉納文と比較すると、「十月」という意味だと推測できます。

前回ご紹介したように、古事記の原本が古代文字で書かれていて、稗田阿礼が古代文字に習熟していた可能性がありますから、これらの記号は古代文字に由来するものなのかもしれません。

また、奉納者については、署名が漢字であるため、正しい発音は不明ですが、これまでの検討結果から、「ひえだあれ」と読むのが正しいと思われます。

なお、稗という漢字は、禾、白、ノ、十から成り立っていますが、この署名では、「白」が「日」となっており、古代の漢字の書体という観点からも、この奉納文は注目に値すると思われます。

そして、署名の最後に花押(かおう)と思われる印がありますが、実は「中臣連鎌子の奉納文」でご紹介した3枚目の奉納文にも花押らしきものが認められます。

『花押のはなし』(大森頼周:著、エス・アイ・エス系譜史料学会:1985年刊)という本によると、唐の中宗(西暦684年~704年)の頃、韋陟(いちょく)という人がいて、「陟」の字を五つの雲がたなびいているように崩して署名したのが中国における花押の起源だといわれているそうです。

また、日本では、平安時代の初期に公文書の署名が草書体となり、さらにそれを極端に崩して花押が誕生したとされるそうです。

したがって、伊勢神宮の古代文字の奉納文は、日本の花押の歴史を書き換える非常に貴重な資料だということになります。

最後に、前回は肥人書の異なる書体をご紹介しましたが、前回の太安萬侶が「第十二文」を使っていたのに対し、今回の稗田阿礼は「第二文」を使っており、同時代に別の書体が併用されていたことが分かります。

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太安萬侶の奉納文

2024-08-04 10:24:54 | 古代の日本語

『ついに現われた幻の奉納文 伊勢神宮の古代文字』(丹代貞太郎・小島末喜:著、小島末喜:1977年刊)という本の内容をご紹介しています。

今回は、古事記の編集者として有名な太安萬侶の奉納文です。

なお、「伊勢神宮奉納文神代文字保存委員会」というサイトに奉納文の画像が掲載されていましたので、よかったらご覧ください。

また、以前ご紹介した「ものべおほむらじをこし」と「なかおみむらじかまこ」の奉納文も掲載されているので、あわせて参考にしてください。

【太安萬侶の奉納文】

番号
読み
解釈
古代文字の種類
またあかあしみへのまかりなしていたくつか また吾が足三重の勾(まがり)なしていたく疲 肥人書
れたりとのりたまひきかれそこをみへといふ れたりと詔り給いき故そこを三重という 肥人書
やまとほこあまつみしろとよくむなりひめみこと 日本矛天津御代豊斟成姫尊(元明天皇) 阿比留文字
つちのさる和銅元十月記 戊申 和銅元年十月記(しる)す 阿比留文字+漢字
太朝臣安麻呂   漢字

今回の古代文字は、これまでご紹介した書体では解読できないので、『神字日文傳』(かむなひふみのつたへ)(平田篤胤:著、佐藤信淵・他:編、文政二年刊)という本に掲載されている別の書体を五十音順に並べ替えてご紹介します。

まずは肥人書ですが、次の図が「第十二文」と書かれた鹿嶋神宮所蔵の書体です。

肥人書五十音図第十二文
【肥人書 第十二文】(平田篤胤:著『神字日文傳』より)

ちなみに、これまで使っていたのは、「第二文」と書かれ、「対馬国卜部阿比留中務」が伝えたとされる次のような書体です。

肥人書五十音図第二文
【肥人書 第二文】(平田篤胤:著『神字日文傳』より)

これらを見比べると、「あ、お、す、そ、た、と、の、ほ、い、ゆ、よ」は明らかに書体が異なっています。

次に阿比留文字ですが、これは父音と母音の記号を縦に並べた次のような五十音図となりますが、これも「第二文」と書かれていて、平田篤胤翁は肥人書が縦書きの阿比留文字の草書体だと考えていたようです。

阿比留文字五十音図第二文
【阿比留文字 第二文】(平田篤胤:著『神字日文傳』より)

それでは奉納文の解説に移りますが、1行目と2行目は有名な古事記の一節で、倭建命(やまとたけるのみこと)が東国に遠征した帰りに、伊吹山で雹(ひょう)に降られて病気になり、歩くことさえ困難になった時の様子です。

古事記の序文には、和銅四年(西暦711年)九月に元明天皇が安萬侶に、稗田阿礼の誦する勅語旧辞を撰録するよう命令し、安萬侶はこれを古事記三巻にまとめ上げ、翌年の正月に天皇に献上したことが書かれています。

一方、この奉納文の日付は和銅元年十月で、古事記が完成する3年以上前に書かれていますから、一見奇妙な感じがしますが、悲劇のヒーローである倭建命の物語は有名だったはずですから、ありえないことではないでしょう。

しかも、元明天皇が安萬侶を指名したということは、彼がもともと日本の歴史に関して博識であったためだと考えられますから、倭建命の物語を奉納文に使い、のちに古事記にも収録することになったのはとても自然なことだと思われます。

ところで、『古事記の研究』(川副武胤:著、至文堂:1967年刊)という本には、次のようなことが書かれています。

「今日までの古事記研究の成果によって、阿礼の前に置かれてゐたものは一個の成書であって、その誦習とは、一旦文字にあらはされたものの口誦読習のことである、とすることにほぼ異論はない。」

これを私なりに解釈すると、安萬侶が短期間のうちに古事記を完成させることができたのは、稗田阿礼だけがスラスラと読むことができる原本があったからで、この原本が古代文字で書かれていた可能性はとても高いと思われるのです。

3行目は、この時代の天皇の御名で、これは第四十三代元明天皇のことだと考えられます。

元明天皇は、続日本紀に「日本根子天津御代豊国成姫天皇」(やまとねこあまつみしろとよくになりひめのすめらみこと)と書かれていますから、どうやら元明天皇の御名は後代に少し改変されたということのようです。(参考文献:『国史大系 第二巻』(経済雑誌社:編、経済雑誌社:1897年刊))

なお、日本矛天津御代豊斟成姫尊という漢字表記は私が勝手に考えたものですから、その点をご了承願います。

4行目は、この奉納文が書かれた日付で、和銅元年は西暦708年にあたります。実は、この年の正月に武蔵国秩父郡から銅が発見されたため、和銅と改元され、和同開珎という銅銭が発行されています。

これは私の想像ですが、倭建命の東国遠征が成功したことが結果的に銅の発見につながったことから、倭建命の業績をたたえるためにこの奉納文が書かれたのではないでしょうか?

なお、「つちのゑ」は仮名遣いに間違いがあり、本ブログの「あ行の「え」のまとめ」でご説明したように、この言葉の意味は「土の兄」ですから「つちのえ」と書くべきですが、『仮名遣の歴史』(山田孝雄:著、宝文館:1929年刊)という本によると、奈良時代(西暦710年~794年)にはすでに仮名遣いの乱れが始まっていたそうです。

したがって、この間違いは当時の仮名遣いの乱れを知る貴重な資料と考えられます。

5行目は、奉納者の署名で、太朝臣安麻呂の太(おほ)は氏(うぢ)、朝臣(あそみ)は姓(かばね)、安麻呂(やすまろ)は名です。

署名が漢字であるため、正しい発音は不明ですが、これまでの検討結果から、「おほあそみやすまろ」と読むのが正しいと思われます。

ちなみに、古事記の署名は「太朝臣安萬侶」となっているのですが、続日本紀には霊亀元年(西暦715年)以降も「太朝臣安麻呂」と書かれているので、両方の表記が併用されていたのかもしれません。

以上のことをまとめると次のようになります。

1.肥人書の異なる書体(第十二文)が実際に使われていた。

2.阿比留文字の異なる書体(第二文)が実際に使われていた。

3.太安萬侶が古代文字で奉納文を書いたということは、古事記の原本も古代文字で書かれていた可能性が高い。

4.元明天皇の御名が続日本紀とは少し異なっていることが明らかになった。

5.「つちのゑ」という仮名遣いの乱れが確認できる。

これらの結果から、この奉納文も国宝級の価値があると判断できるのです。

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藤原不比等の奉納文

2024-07-07 08:46:03 | 古代の日本語

『ついに現われた幻の奉納文 伊勢神宮の古代文字』(丹代貞太郎・小島末喜:著、小島末喜:1977年刊)という本の内容をご紹介しています。

今回は藤原不比等の2枚の奉納文です。現代では、この人物は「ふじわらのふひと」とよばれていますが、実はこれが間違いであることがこの奉納文から明らかになります。

【藤原不比等の奉納文】

・1枚目

番号
読み
解釈
古代文字の種類
あまてらすおほみかみ 天照大御神 肥人書
ふしはらふひら 藤原不比等 肥人書

・2枚目

番号
読み
解釈
古代文字の種類
つくよみおほかみ 月読大神 肥人書
ふしはらふひら 藤原不比等 肥人書

1枚目の「あまてらすおほみかみ」、および2枚目の「つくよみおほかみ」は、古来より有名な神様で、古事記には、伊耶那岐命(いざなぎのみこと)が黄泉(よみ)の国を脱出して、汚れた体を洗い清めた際に、左目を洗うと天照大御神が、右目を洗うと月読命(つくよみのみこと)がそれぞれ誕生したという神話が伝えられています。

各奉納文の2行目は奉納者の署名で、「ふしはらふひら」に相当する人物は、藤原不比等と考えられますから、不比等は「ふひら」と読むのが正しく、また、氏名に「の」を挿入することもなかったということです。

藤原不比等は、大化の改新(西暦645年)の功労者である藤原鎌足の第二子で、大宝律令や養老律令の撰定に功があり、また、藤原四家の始祖としても有名です。

さらに、娘の宮子は文武天皇の夫人にして聖武天皇の母、光明子は聖武天皇の皇后にして孝謙天皇の母となるなど、藤原氏繁栄の基礎を築いた人物です。

そこで、『藤原不比等』(上田正昭:著、朝日新聞社:1978年刊)という本を参考にして、不比等について詳しくご紹介すると、彼は西暦659年に誕生し、日本紀には、持統天皇の三年(西暦689年)に「藤原朝臣史」という氏姓名で初めて登場しています。

『尊卑分脈』という本には、史は不比等の幼少期の育ての親である田辺史大隅の姓(かばね=家格の尊卑を分かつ称号)とされています。

これをもう少し詳しく説明すると、田辺史大隅の田辺は氏(うぢ)、史は姓(かばね)、大隅は名で、史の訓は『藤原不比等』では「ふひと」となっていますが、調べてみると、姓としての訓には「ふみ」あるいは「ふみひと」を採用している本もありました。

そして、『八尾市史』(八尾市史編纂委員会:編、大阪府八尾市:1958年刊)という本によると、史という姓は文書記録を司どる長上に授与されるものだそうです。

ここで、当時の時代背景を説明すると、中国では西暦618年に唐が隋を滅ぼし、7世紀後半には遣唐使が次々と派遣され、唐の文化が盛んに輸入された結果、公式文書は漢文で書かれるようになっていたそうです。(『講座日本文化史 第二巻』(日本史研究会:編、三一書房:1962年刊)より)

また、『藤原不比等』には、田辺史が渡来系の氏族であると書かれていますから、当然のことながら、彼らは漢文に習熟していたと思われます。

したがって、不比等は、漢文の読み書きができる知識人のもとで、漢文や唐の文化に関する英才教育を受けた人物だったようです。

彼が次に日本紀に登場するのは、持統天皇の十年(西暦696年)で、「藤原朝臣不比等」と表記されているので、この時点までに史から「ふひら」に改名していたということのようです。

なお、『大日本国語辞典』によると、等という漢字は「ら」の万葉仮名であると同時に「と」の万葉仮名でもあるので(次図参照)、わざわざこの漢字を選んだのは、彼のユーモアだったのかもしれません。

「と」と「ら」の万葉仮名
【「と」と「ら」の万葉仮名】(上田万年・松井簡治:著『大日本国語辞典』より)

そして、この奉納文が書かれた理由を推測すると、彼が「ふひら」に改名したことを日本の神々に報告することが目的だったのかもしれません。

彼は西暦720年に亡くなりますが、死後、正一位太政大臣を贈られており、それまでは太政大臣になれるのは皇族だけだったことから、彼がいかに皇室から信頼されていたかが分かります。

それにしても、古代日本の律令制度を築き上げた不比等が、実は「ふひら」であったということは歴史的な大発見ですから、この奉納文にははかりしれない価値があると判断できます。

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