古代の日本語

古代から日本語には五十音図が存在しましたが、あ行には「あ」と「お」しかありませんでした。

太安萬侶の奉納文

2024-08-04 10:24:54 | 古代の日本語

『ついに現われた幻の奉納文 伊勢神宮の古代文字』(丹代貞太郎・小島末喜:著、小島末喜:1977年刊)という本の内容をご紹介しています。

今回は、古事記の編集者として有名な太安萬侶の奉納文です。

なお、「伊勢神宮奉納文神代文字保存委員会」というサイトに奉納文の画像が掲載されていましたので、よかったらご覧ください。

また、以前ご紹介した「ものべおほむらじをこし」と「なかおみむらじかまこ」の奉納文も掲載されているので、あわせて参考にしてください。

【太安萬侶の奉納文】

番号
読み
解釈
古代文字の種類
またあかあしみへのまかりなしていたくつか また吾が足三重の勾(まがり)なしていたく疲 肥人書
れたりとのりたまひきかれそこをみへといふ れたりと詔り給いき故そこを三重という 肥人書
やまとほこあまつみしろとよくむなりひめみこと 日本矛天津御代豊斟成姫尊(元明天皇) 阿比留文字
つちのさる和銅元十月記 戊申 和銅元年十月記(しる)す 阿比留文字+漢字
太朝臣安麻呂   漢字

今回の古代文字は、これまでご紹介した書体では解読できないので、『神字日文傳』(かむなひふみのつたへ)(平田篤胤:著、佐藤信淵・他:編、文政二年刊)という本に掲載されている別の書体を五十音順に並べ替えてご紹介します。

まずは肥人書ですが、次の図が「第十二文」と書かれた鹿嶋神宮所蔵の書体です。

肥人書五十音図第十二文
【肥人書 第十二文】(平田篤胤:著『神字日文傳』より)

ちなみに、これまで使っていたのは、「第二文」と書かれ、「対馬国卜部阿比留中務」が伝えたとされる次のような書体です。

肥人書五十音図第二文
【肥人書 第二文】(平田篤胤:著『神字日文傳』より)

これらを見比べると、「あ、お、す、そ、た、と、の、ほ、い、ゆ、よ」は明らかに書体が異なっています。

次に阿比留文字ですが、これは父音と母音の記号を縦に並べた次のような五十音図となりますが、これも「第二文」と書かれていて、平田篤胤翁は肥人書が縦書きの阿比留文字の草書体だと考えていたようです。

阿比留文字五十音図第二文
【阿比留文字 第二文】(平田篤胤:著『神字日文傳』より)

それでは奉納文の解説に移りますが、1行目と2行目は有名な古事記の一節で、倭建命(やまとたけるのみこと)が東国に遠征した帰りに、伊吹山で雹(ひょう)に降られて病気になり、歩くことさえ困難になった時の様子です。

古事記の序文には、和銅四年(西暦711年)九月に元明天皇が安萬侶に、稗田阿礼の誦する勅語旧辞を撰録するよう命令し、安萬侶はこれを古事記三巻にまとめ上げ、翌年の正月に天皇に献上したことが書かれています。

一方、この奉納文の日付は和銅元年十月で、古事記が完成する3年以上前に書かれていますから、一見奇妙な感じがしますが、悲劇のヒーローである倭建命の物語は有名だったはずですから、ありえないことではないでしょう。

しかも、元明天皇が安萬侶を指名したということは、彼がもともと日本の歴史に関して博識であったためだと考えられますから、倭建命の物語を奉納文に使い、のちに古事記にも収録することになったのはとても自然なことだと思われます。

ところで、『古事記の研究』(川副武胤:著、至文堂:1967年刊)という本には、次のようなことが書かれています。

「今日までの古事記研究の成果によって、阿礼の前に置かれてゐたものは一個の成書であって、その誦習とは、一旦文字にあらはされたものの口誦読習のことである、とすることにほぼ異論はない。」

これを私なりに解釈すると、安萬侶が短期間のうちに古事記を完成させることができたのは、稗田阿礼だけがスラスラと読むことができる原本があったからで、この原本が古代文字で書かれていた可能性はとても高いと思われるのです。

3行目は、この時代の天皇の御名で、これは第四十三代元明天皇のことだと考えられます。

元明天皇は、続日本紀に「日本根子天津御代豊国成姫天皇」(やまとねこあまつみしろとよくになりひめのすめらみこと)と書かれていますから、どうやら元明天皇の御名は後代に少し改変されたということのようです。(参考文献:『国史大系 第二巻』(経済雑誌社:編、経済雑誌社:1897年刊))

なお、日本矛天津御代豊斟成姫尊という漢字表記は私が勝手に考えたものですから、その点をご了承願います。

4行目は、この奉納文が書かれた日付で、和銅元年は西暦708年にあたります。実は、この年の正月に武蔵国秩父郡から銅が発見されたため、和銅と改元され、和同開珎という銅銭が発行されています。

これは私の想像ですが、倭建命の東国遠征が成功したことが結果的に銅の発見につながったことから、倭建命の業績をたたえるためにこの奉納文が書かれたのではないでしょうか?

なお、「つちのゑ」は仮名遣いに間違いがあり、本ブログの「あ行の「え」のまとめ」でご説明したように、この言葉の意味は「土の兄」ですから「つちのえ」と書くべきですが、『仮名遣の歴史』(山田孝雄:著、宝文館:1929年刊)という本によると、奈良時代(西暦710年~794年)にはすでに仮名遣いの乱れが始まっていたそうです。

したがって、この間違いは当時の仮名遣いの乱れを知る貴重な資料と考えられます。

5行目は、奉納者の署名で、太朝臣安麻呂の太(おほ)は氏(うぢ)、朝臣(あそみ)は姓(かばね)、安麻呂(やすまろ)は名です。

署名が漢字であるため、正しい発音は不明ですが、これまでの検討結果から、「おほあそみやすまろ」と読むのが正しいと思われます。

ちなみに、古事記の署名は「太朝臣安萬侶」となっているのですが、続日本紀には霊亀元年(西暦715年)以降も「太朝臣安麻呂」と書かれているので、両方の表記が併用されていたのかもしれません。

以上のことをまとめると次のようになります。

1.肥人書の異なる書体(第十二文)が実際に使われていた。

2.阿比留文字の異なる書体(第二文)が実際に使われていた。

3.太安萬侶が古代文字で奉納文を書いたということは、古事記の原本も古代文字で書かれていた可能性が高い。

4.元明天皇の御名が続日本紀とは少し異なっていることが明らかになった。

5.「つちのゑ」という仮名遣いの乱れが確認できる。

これらの結果から、この奉納文も国宝級の価値があると判断できるのです。

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藤原不比等の奉納文

2024-07-07 08:46:03 | 古代の日本語

『ついに現われた幻の奉納文 伊勢神宮の古代文字』(丹代貞太郎・小島末喜:著、小島末喜:1977年刊)という本の内容をご紹介しています。

今回は藤原不比等の2枚の奉納文です。現代では、この人物は「ふじわらのふひと」とよばれていますが、実はこれが間違いであることがこの奉納文から明らかになります。

【藤原不比等の奉納文】

・1枚目

番号
読み
解釈
古代文字の種類
あまてらすおほみかみ 天照大御神 肥人書
ふしはらふひら 藤原不比等 肥人書

・2枚目

番号
読み
解釈
古代文字の種類
つくよみおほかみ 月読大神 肥人書
ふしはらふひら 藤原不比等 肥人書

1枚目の「あまてらすおほみかみ」、および2枚目の「つくよみおほかみ」は、古来より有名な神様で、古事記には、伊耶那岐命(いざなぎのみこと)が黄泉(よみ)の国を脱出して、汚れた体を洗い清めた際に、左目を洗うと天照大御神が、右目を洗うと月読命(つくよみのみこと)がそれぞれ誕生したという神話が伝えられています。

各奉納文の2行目は奉納者の署名で、「ふしはらふひら」に相当する人物は、藤原不比等と考えられますから、不比等は「ふひら」と読むのが正しく、また、氏名に「の」を挿入することもなかったということです。

藤原不比等は、大化の改新(西暦645年)の功労者である藤原鎌足の第二子で、大宝律令や養老律令の撰定に功があり、また、藤原四家の始祖としても有名です。

さらに、娘の宮子は文武天皇の夫人にして聖武天皇の母、光明子は聖武天皇の皇后にして孝謙天皇の母となるなど、藤原氏繁栄の基礎を築いた人物です。

そこで、『藤原不比等』(上田正昭:著、朝日新聞社:1978年刊)という本を参考にして、不比等について詳しくご紹介すると、彼は西暦659年に誕生し、日本紀には、持統天皇の三年(西暦689年)に「藤原朝臣史」という氏姓名で初めて登場しています。

『尊卑分脈』という本には、史は不比等の幼少期の育ての親である田辺史大隅の姓(かばね=家格の尊卑を分かつ称号)とされています。

これをもう少し詳しく説明すると、田辺史大隅の田辺は氏(うぢ)、史は姓(かばね)、大隅は名で、史の訓は『藤原不比等』では「ふひと」となっていますが、調べてみると、姓としての訓には「ふみ」あるいは「ふみひと」を採用している本もありました。

そして、『八尾市史』(八尾市史編纂委員会:編、大阪府八尾市:1958年刊)という本によると、史という姓は文書記録を司どる長上に授与されるものだそうです。

ここで、当時の時代背景を説明すると、中国では西暦618年に唐が隋を滅ぼし、7世紀後半には遣唐使が次々と派遣され、唐の文化が盛んに輸入された結果、公式文書は漢文で書かれるようになっていたそうです。(『講座日本文化史 第二巻』(日本史研究会:編、三一書房:1962年刊)より)

また、『藤原不比等』には、田辺史が渡来系の氏族であると書かれていますから、当然のことながら、彼らは漢文に習熟していたと思われます。

したがって、不比等は、漢文の読み書きができる知識人のもとで、漢文や唐の文化に関する英才教育を受けた人物だったようです。

彼が次に日本紀に登場するのは、持統天皇の十年(西暦696年)で、「藤原朝臣不比等」と表記されているので、この時点までに史から「ふひら」に改名していたということのようです。

なお、『大日本国語辞典』によると、等という漢字は「ら」の万葉仮名であると同時に「と」の万葉仮名でもあるので(次図参照)、わざわざこの漢字を選んだのは、彼のユーモアだったのかもしれません。

「と」と「ら」の万葉仮名
【「と」と「ら」の万葉仮名】(上田万年・松井簡治:著『大日本国語辞典』より)

そして、この奉納文が書かれた理由を推測すると、彼が「ふひら」に改名したことを日本の神々に報告することが目的だったのかもしれません。

彼は西暦720年に亡くなりますが、死後、正一位太政大臣を贈られており、それまでは太政大臣になれるのは皇族だけだったことから、彼がいかに皇室から信頼されていたかが分かります。

それにしても、古代日本の律令制度を築き上げた不比等が、実は「ふひら」であったということは歴史的な大発見ですから、この奉納文にははかりしれない価値があると判断できます。

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中臣連鎌子の奉納文

2024-06-02 08:51:13 | 古代の日本語

『ついに現われた幻の奉納文 伊勢神宮の古代文字』(丹代貞太郎・小島末喜:著、小島末喜:1977年刊)という本の内容をご紹介しています。

今回は中臣連鎌子の3枚の奉納文です。

【中臣連鎌子の奉納文】

・1枚目

番号
読み
解釈
古代文字の種類
あめのみはしらのかみ 天御柱神 阿比留文字
なかおみむらしかまこ 中臣連鎌子 阿比留文字

・2枚目

番号
読み
解釈
古代文字の種類
くにのみはしらのかみ 国御柱神 阿比留文字
なかおみむらしかまこ 中臣連鎌子 阿比留文字

・3枚目

番号
読み
解釈
古代文字の種類
あめのこやねのみこと 天児屋根命 阿比留文字
なかおみむらしかまこ 中臣連鎌子 阿比留文字

1枚目の「あめのみはしらのかみ」、および2枚目の「くにのみはしらのかみ」は、『日本古語大辞典』によると、官幣大社龍田神社の祭神で、欽明天皇の夢枕に立って自ら天乃御柱乃命、国乃御柱乃命と名乗ったとされ、比古神、比売神とも記されているそうなので夫婦の神様のようです。

3枚目の「あめのこやねのみこと」は、古事記によると、天孫降臨の際に邇邇芸命(ににぎのみこと)の従者として天降った神で、「中臣連等之祖」と明記されています。

各奉納文の2行目は奉納者の署名で、「なかおみむらしかまこ」に相当する人物は、前回、物部大連尾輿とともに仏教の受け入れに反対したとご紹介した中臣連鎌子と考えられます。

なお、この本には、龍田神社の創建は崇神天皇時代とされていると書かれていますが、これは誤りで、延喜式の龍田風神祭祝詞に書かれた天皇の名前は、

「志貴島爾大八島國知志皇御孫命」
(しきしまに おほやしまくに しろしめす すめみまのみこと)

と明記されていて、崇神天皇の宮は磯城(しき)の瑞籬宮(みづがきのみや)、欽明天皇の宮は磯城嶋(しきしま)の金刺宮(かなさしのみや)ですから、龍田神社は欽明天皇の時代に創建されたと考えられるのです。

また、「なかおみむらしかまこ」を藤原鎌足に比定していますが、日本紀では、鎌足は最初「中臣鎌子連」と表記され、その後「中臣鎌足連」となり、最後は「藤原内大臣」と表記されているので、「中臣連鎌子」とは別人だと判断できます。

しかも、藤原鎌足は7世紀の人物であり、これでは、彼がこの奉納文を古代文字で書いた理由が不明になってしまいます。

前回ご紹介したように、欽明天皇の時代に仏教が公式に伝わり、中臣連鎌子は物部大連尾輿とともに仏教の受け入れに反対したわけですから、彼がこの時代に新たに出現した神様に対してどういう態度をとったか考えれば、すべてがつながってくるでしょう。

つまり、中臣連鎌子は、欽明天皇の夢枕に立った神様をおそれ敬い、自身の祖神とともにその名前を古代文字で書いて神宮に奉納することで、日本の神々に対する信仰心を表明したのではないかと思われるのです。

最後に、中臣は「なかおみ」と読むことと、やはり氏名に「の」を挿入することはなかったということがこの奉納文から分かりますから、中臣連鎌子は「なかおみむらじかまこ」と読むのが正しいということになります。

これらの奉納文は、6世紀の人名の読み方を明らかにし、かつ、延喜式の龍田風神祭祝詞の正当性を証明していると考えられますから、前回同様、非常に歴史的価値の高いものであると判断できるのです。

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伊勢神宮の古代文字

2024-05-26 08:49:29 | 古代の日本語

今回からしばらくは、『ついに現われた幻の奉納文 伊勢神宮の古代文字』(丹代貞太郎・小島末喜:著、小島末喜:1977年刊)という本の内容を詳しくご紹介していきたいと思います。

この本は、伊勢神宮に奉納され、神宮文庫に保管されていた「神代文字」を丹代貞太郎氏が模写して解読し、小島末喜氏が実物を写真撮影して出版したもので、これらの資料は古来「かみのみたから」とよばれて大切に継承されてきたものだそうです。

小島氏の序文によると、奉納文にわざわざ判り難い古代文字を使った理由は、「日本の神代の神々は、外来宗教と外来文字を嫌われたが故に、神前への奉納文は神の好まれる和文字にしたと察せられる。」(恩師の霊言)からなのだそうです。

第1回は、物部大連尾輿の奉納文です。現代では、この人物は「もののべのおおむらじのおこし」とよばれていますが、実はこれが間違いであることがこの奉納文から明らかになります。

ちなみに、前回は、6世紀中頃に仏教が日本に伝来したことをご紹介しましたが、日本紀には、第二十九代欽明天皇の十三年(西暦552年?)に百済から仏教が公式に伝わり、蘇我稲目がこれを受け入れるよう主張したのに対して、物部大連尾輿と中臣連鎌子が反対したことが書かれています。

このことを、尾輿が仏教を政争の道具にしたと批判する人(例えば親鸞聖人)もいますが、彼がわざわざ古代文字でこのような奉納文を書いていたということは、実は彼が本心から日本の神々を崇敬していたことの証明ではないかと思われるのです。

なお、著作権を尊重するため、掲載されている画像を転載することは控えました。実物の画像にご興味のある方は、国立国会図書館デジタルコレクションというサイトにログインしてご覧ください。

【古代文字の奉納文】

番号
読み
解釈
古代文字の種類
おほくにぬしのおほかみ 大国主大神 阿比留文字
すせりひめのみこと 須勢理毘売命 肥人書
ものへおほむらしをこし 物部大連尾輿 阿比留文字

なお、阿比留文字については、本ブログの「古代の五十音図」という記事を参照してください。

また、肥人書については、「世界の秘密 不思議コラム-25.肥人書」を参照してください。

まず1行目ですが、古事記や日本紀には「大国主神」と表記されている有名な神様の名前が、6世紀には「おほくにぬしのおほかみ」(大国主大神)とよばれていたことが分かります。

また、2行目の「すせりひめのみこと」(須勢理毘売命)は大国主大神の正妻です。

古事記によると、大国主神が中心となって日本の国を作り堅めたそうですから、その夫婦の神様の名前を古代文字で書いて神宮に奉納するということは、日本の神々に対する信仰心の表明ではないかと思われます。

そして、3行目は奉納者の署名で、「ものへおほむらしをこし」に相当する人物は物部大連尾輿と考えられますから、物部は「ものへ」(あるいは「ものべ」)であり、また、氏名に「の」を挿入することもなかったということです。

今日では、習慣的に古代人の氏(うぢ)と名の間にやたらと「の」を補って読みますが、織田信長を「おだののぶなが」とは言わないように、本来はあるがままに読むのが正しいということです。

この習慣は、武内宿禰(たけうちのすくね)という人名に影響を受けているのかもしれませんが、本ブログの「武内宿禰」でご紹介したように、この場合は実は人名ではなく、下三文字(内宿禰)は称号で、「氏(うぢ)の宿禰=氏長」を意味していますから、氏と名の間に「の」を補っているわけではありません。

物部についても、現代人が普通に読めば「ものべ」となりますから、阿比留文字に濁音を表記する機能がないことを考慮すれば、物部大連尾輿は「ものべおほむらじをこし」と読むのが正しいということになります。

また、玉造部(たまつくりべ)や弓削部(ゆげべ)などといった呼称から類推しても、物部が「ものべ」だったことは間違いないと思われますから、このことが、この奉納文が偽造されたものではないことを証明していると考えられるのです。

そもそも、物部を「もののべ」と読む理由は、万葉集において枕詞的に使われる「もののふの」という言葉が「もののべの」から生じたと考えられ、これらの言葉に当てられた漢字表記が以下のようになっていることが理由のようです。

【万葉集における「もののべの、もののふの」の漢字表記】

万葉集の番号
漢字表記
作者
制作年代
50
物乃布能
7世紀末
76
物部乃 元明天皇 8世紀(和銅元年)
264
物乃部能 柿本人麻呂 7世紀後半
369
物部乃 笠朝臣金村? 7世紀後半
478
物乃負能 大伴家持 8世紀(天平十六年)
543
物部乃 笠朝臣金村 8世紀(神亀元年)
928
物部乃 笠朝臣金村 8世紀(神亀二年)
948
物部乃
8世紀(神亀四年)
1047
物負之 田辺福麻呂 8世紀
1470
物部乃 刀理宣令 8世紀
2714
物部乃
3237
物部乃
3276
物部乃
3991
物能乃敷能 大伴家持 8世紀(天平十九年)
4094
毛能乃布能 大伴家持 8世紀(天平二十一年)
4098
毛能乃敷能 大伴家持 8世紀
4100
物能乃布能 大伴家持 8世紀
4143
物部乃 大伴家持 8世紀
4254
物乃布能 大伴家持 8世紀
4266
毛能乃布能 大伴家持 8世紀
4317
母能乃布能 大伴家持 8世紀

しかし、これらは年代不明のものを除けばすべて7世紀後半以降の作品ですから、6世紀に物部が「ものべ」だったとしても不都合はないでしょう。

拙著『神代文字と五十音図の真実』でも指摘しているように、神代文字で書かれた文献には、その内容の正当性に疑問を感じるものも多いのですが、以上の検討結果から、この奉納文は、内容に非の打ちどころがなく、古代の日本に文字があったことを証明し、6世紀の神名と人名の読み方を明らかにしていることから、国宝級の価値がある資料だと思われます。

それにしても、1500年近く前に書かれた奉納文が、何度も模写されて現代まで伝わっていることは、本当に素晴らしいことであり、これらのお宝を守り続けた人々がいた日本という国を、同じ日本人として私は誇りに思います。

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ふしだらの語源

2024-04-28 08:46:29 | 古代の日本語

今月の8日は花まつり、お釈迦様の誕生日でした。

お釈迦様が説かれた教えは、6世紀中頃には日本に伝来したとされ、その教えを記録するのに使われた言語である梵語(ぼんご=サンスクリット)は日本語に大きな影響を与えました。

そこで今回は、『国語中の梵語の研究』(上田恭輔:著、大同館:1922年刊)という本を参考にして、梵語由来の「ふしだら」という言葉をご紹介します。

「ふしだら」は、漢字で書くと不修多羅で、修多羅(しだら)は、梵語の「スートラ」を漢字で音写したものだそうです。

現在では、「スートラ」は経典を意味し、例えば5世紀頃に編纂されたとされる『ヨーガ・スートラ』は、ヨガの根本的な経典として有名です。

しかし、最初は織物を織る機(はた)に付属する「筬」(をさ)に経糸(たていと)を通して糸を整え、糸目を整然とさせることを意味したそうです。(筬については次図参照)

手織機の筬
【手織機の筬】(『新撰機織学 上巻』(工業教育振興会:1932年刊)より)

それが後世には事物の秩序をつけること、次に規則のこととなり、更に今日のようにもっぱら経典を意味するようになったのだそうです。

そして、国語の「しだら」という言葉は、梵語の古い時代の意味を保存していて、主として規律や秩序を意味していますが、この言葉が使われる場合は、必ず語頭に否定の「ふ」(不)をつけて、「ふしだらな女」などと言います。

また、「だらし」も「しだら」から派生したもので、これも必ず「だらしがない」という否定形で使われますが、「ふしだら」とは微妙に意味が異なるのは面白いですね。

そして、この「しだら」が更に転じて自堕落(じだらく)という言葉が誕生したそうです。

なお、修多羅を「しゅだら」と読んで、僧侶の袈裟(けさ)を飾る、色とりどりの紐(ひも)で組んだ装飾品を意味する場合がありますが、これも「スートラ」が語源です。(『大日本国語辞典』より)

梵語由来で、語源を知らずに使っている日本語は「ふしだら」以外にもあるので、『国語中の梵語の研究』に載っているものをいくつかご紹介します。

【悪】(あく)

 梵語で善または良を意味する「クサロ」に、否定を意味する「ア」を付けると、不善不良を意味する「アクサロ」となる。仏典翻訳者が、悪という漢字を製造し、「アクサロ」の「アク」を悪の音とした。

【阿弥陀】(あみだ)

 阿は否定の意味、弥陀は英語のメジャーと同系統の言葉で「量」(はかる)という意味で、無量寿または無量光と訳す。そして、この哲学的述語を人格化したものが阿弥陀如来である。
 したがって、「弥陀の本願」のように阿の字を省略した表現は、実は梵語の本来の意義に矛盾することになる。
 なお、阿弥陀籤(あみだくじ)は、紐状の籤の一端を束ねて、他端を数名の者が引っ張ると、阿弥陀如来像の後光のように放射状になることから名付けられた。

【卒塔婆】(そとば)

 梵語の「ストゥーパ」を音写した言葉で、塔を意味する。
 卒塔婆は、一片の木標に梵字を記した臨時の墓碑であるかのごとく心得ている人が多いが、インドでは仏舎利(ぶっしゃり=お釈迦様の遺骨)を安置する高大な土饅頭型の塔を「ストゥーパ」とよび、これが中国に伝わって、一層堅固で荘厳なものとなった。

【喇叭】(らっぱ)

 梵語の「ラヴァ」、すなわち喚叫(かんきょう=わめきさけぶこと)、音響、ならびに動物の咆哮を指した名詞であって、この名詞は、叫ぶ、咆える、音を立てるなどの意味があるラブという動詞から転じて、ラブ、ラヴァとなり更に転じてラッパとなった。
 元来、ラッパは角笛が発達したもので、飴屋のラッパないし豆腐屋のラッパの類であった。徳利の口を自分の口にあてて酒を飲むことを「ラッパ飲み」というが、これは古(いにしえ)のラッパを巧みに形容した趣がある。

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