前回までの考察によって、漢字が輸入された時代背景は明らかになったと思われますが、せっかくなので、残りの倭の五王についても年表を作成していきたいと思います。
今回は、反正天皇と允恭天皇の時代です。
なお、年表の★印は、『日本上代史の一研究』の著者の池内宏氏が歴史的事実と判断した事項です。
統治者
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干支
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西暦
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特記事項
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反正天皇 | 丁丑 | 437年 | 反正天皇が即位(仮定) |
戊寅 | 438年 | ★元嘉十五年 倭国王珍を安東将軍となす(宋書文帝紀) ★讃死して弟珍立つ(宋書倭国伝) |
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己卯 | 439年 | ||
庚辰 | 440年 | ||
辛巳 | 441年 | 反正天皇の没年(仮定) | |
允恭天皇 | 壬子 | 442年 | 允恭天皇が即位(仮定) |
癸未 | 443年 | ★元嘉二十年 倭国王済、遣使奉献す(宋書倭国伝) | |
甲申 | 444年 | ||
乙酉 | 445年 | ||
丙戌 | 446年 | ||
丁亥 | 447年 | ||
戊子 | 448年 | ||
己丑 | 449年 | ||
庚寅 | 450年 | ||
辛卯 | 451年 | ★元嘉二十八年 倭国王済の称号の変更(宋書倭国伝) | |
壬辰 | 452年 | ||
癸巳 | 453年 | ||
甲午 | 454年 | ||
乙未 | 455年 | ★百済の蓋鹵王が即位(三国史記) | |
丙申 | 456年 | ||
丁酉 | 457年 | ||
戊戌 | 458年 | ||
己亥 | 459年 | ||
庚子 | 460年 | ★大明四年 倭国遣使して方物を献ず(宋書孝武帝紀) 允恭天皇の没年(仮定) |
ここで、允恭天皇の没年は、次回ご紹介する倭の五王「興」(安康天皇)に関する中国の記録の2年前と考えて、西暦460年と仮定しました。
そして、允恭天皇の即位は、倭の五王「済」に関する中国の記録の1年前と考えて、西暦442年と仮定しました。
同様に、反正天皇の即位は、倭の五王「珍」に関する中国の記録の1年前と考えて、西暦437年と仮定しました。
すると、反正天皇の没年は必然的に西暦441年となりますが、これは、反正天皇の在位期間が5年であるとする古事記の記述と整合がとれます。
なお、日本紀によると允恭天皇の没年は即位から42年目となっていますが、これも応神天皇や仁徳天皇の場合と同様の作為で、この場合は在位期間が23年延長されていることになります。
さて、反正天皇は、高句麗に遅れること25年、百済に遅れること22年にして、やっと安東将軍の称号を得ます。
ただし、反正天皇は自らを「使持節都督・倭・百済・新羅・任那・秦韓・慕韓六国諸軍事・安東大将軍」と称して上表したそうですから、安東将軍という称号には満足しなかったと思われます。
なお、秦韓・慕韓は、三国(高句麗・百済・新羅)時代以前に存在した辰韓・馬韓のことで、この時代には有名無実化していた国名だそうです。
また、この長い称号は、朝鮮半島南部が倭の属領であることを主張したもので、対半島政策に役立てるための一つの方便として大国の威を借りようとしたものと考えられるそうです。
そして、この称号に百済が入っているのは、西暦367年の朝貢開始以来、百済が倭に服属し続けていたためで、西暦455年に即位した蓋鹵王も西暦461年に弟の昆支を倭に人質に出しているので、この関係は五世紀になっても変わらなかったようです。
一方、允恭天皇は、西暦451年に「使持節都督・倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事・安東将軍」という称号を得ることに成功します。
この称号を、反正天皇が自称したものと比較すると、百済を削って加羅を加えていますが、加羅は実質的には任那の別名なのだそうです。
つまり、宋は、百済王に鎮東大将軍という称号まで授けた手前、百済を倭の属領と認めることはできなかったということのようです。
次回も年代推定の続きです。